正直なところ、いまだに書こうかどうか二の足を踏んでいます。『決壊』の感想を書くことができるのか、書いてもよいのか、という疑念が頭を悩ませます。・・・でもこんなふうにしながら、ぼちぼち、自分なりに感想を書いてゆきたいと思います。
まず言っておきますが、例えばドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の感想を記すときにそうされるように、ネタバレについては考慮しません。
何から書き始めればよいものか。
「死んでもいいけど、こんな時に飛び込まんでもなァ。」
この作品の輪郭は円をもって閉じられ、最後の一行によって読者は再び最初のこの台詞に帰ってきます。電車への投身自殺(自殺かどうかは暗にぼかされているとはいえ)によって幕が開き、それによって幕が閉じる、というこの構造はトルストイ『アンナ・カレーニナ』の緻密な結構を否応なく想起させますが、しかし『決壊』と血縁関係にあるのはやはりむしろドストエフスキーでしょう。沢野崇とイワン・カラマーゾフとは誰が読んでも恐らくは二重写しになって見える形象です。イワンの苦悩は崇の苦悩とどの程度一致するのか、という問いは専門家(あるいは双方に詳しいファン)の見解を待たなければなりませんが、誰の目にも明らかだとぼくの言っているのは、両者の立場、殺人事件への関与の仕方です。使嗾(しそう=唆すこと)する者としてのイワンが殺人者と自らを同一視するように、崇もまた犯人と自らを同一視し、またある意味で世間から同一視されます。このアイデンティティの錯視とも言うべき状況は、「私」という存在が様々な存在の束であり、ありていに言えば情報の束である、という崇や犯人である「悪魔」の言説とも重なってきます。アイデンティティの崩落。「私」の複数性。「私」という存在が一個の確固たる自我ではなく、様々な「自己」のテクスチャーである、という言説は現代では半ば自明のものとして一般に流布し、消費されている(あるいは消費されつくしている)と思われますが、その理屈をこのような形で先鋭化して小説にして見せたことは、驚きです。
このような形。「悪魔」は多くの他者の遺留品を現場に残し、殺害があたかも「複数」の人間によってなされた犯行であるかのように偽装します。彼が語るように、真犯人とは「殺意」であって、人間ではありません。もはや犯人/罪人は存在せず、ただ最後に行使する者がいればそれで犯行は完成します。「悪魔」はただそのような「選ばれた人間」に影響を与え(すなわち使嗾し)、殺人を蔓延させればよいのです。人間の悪意が、決定的な行使をする人間の手を借りて(手を借りているだけ!)、犯行が成就する。「悪魔」はただそれを唆しているだけであり、実は自爆した男もまた「悪魔」の手先となり実行犯となっているに過ぎず、首謀者は、「悪魔」は、まさに人間の悪意そのものなのでしょう。その意味で、この複数の悪意は『決壊』においてネットの悪意に代表されており、あるいはワイドショーの、コメンテーターの、「正義の担い手」たるべき警察の、世間の悪意もまた人間の悪意を代表するもの、具体的なリアクションは悪意の具現化とみなしてもよいでしょう。
一人の人間がもう一人の人間に殺意を抱き、実行に移す、という古典的な犯行はまさしく「古典的」であり、現代ではそうではなく、複数の人間の悪意がたまたま選ばれた(遺伝と環境によって!)人間の手によって、たまたま選ばれた無辜の人間を殺害するという、ある種通り魔的な、単純な二項関係ではない、関係性の網目の中での殺人へと変貌しています。「私」という人間が無数の「私」の束であるように、殺人者もまた無数の潜在的な殺人者の思念の束であるというわけです。
それにしても、希望の感じられない容赦のない物語です。円環構造を持つ作品の構成から言っても、崇の投身自殺は恐らく「死んでもいいけど、こんな時に飛び込まんでもなァ。」というリアクションしか引き出さない犠牲であり、こうした無意識の悪意こそが「悪魔」の唆しによって殺人へと飛躍することになるのです。悪意の連鎖は止まない、ということを円環構造は物語っているのであり、その意味でこの作品は書かれている内容そのもの以上に絶望的であって、読者をしてそれこそ自殺させようとするほど恐ろしく悄然とさせます。
沢野家は、何も起こらない状況においてもほとんど内破しかかっていましたが、事件によって完全に決壊します。このとき、我々は内破寸前の沢野家の本来そうあるべき行方に希望を持つべきなのでしょうか。ひょっとすると、何もなくても、この家族は決壊していたかもしれない。それとも、どうにか持ちこたえていたのでしょうか。悪意というものはシステム・エラーというよりはシステムにそもそも備わっている、それがなくてはシステムが存在しえないような部分と言えるかもしれませんが、もしもそうだとすれば、沢野家は遅かれ早かれ決壊していたと言えるでしょう。しかしそれでは、あまりに希望がなさすぎる!
はじめ、『決壊』は19世紀的な全体小説を志向しているのかな、と思いました。ところどころで展開される、多くの読者にとっては難解と思われるだろう会話の応酬(というよりは崇の意見の開陳が主ですが)は、ドストエフスキーの模倣とも思われました。しかしながら、これは作者の衒学趣味というよりは、すぐ後で述べるような「別のこと」を表現するための一手段に過ぎないのかもしれません。また難解と言っても、ある程度学問の修練を積んでいる者からすれば、むしろ非常に興味深い箇所であって(もちろん難解でないという意味ではありませんが)、これをドストエフスキーの模倣で片づけるのはもったいないでしょう。さて「別のこと」というのは、崇の複数性を鮮明にする、ということです。ドストエフスキーはポリフォニー小説の書き手と言われていますが、これは一個の作者の声を作中人物に語らせるのではなく、彼ら登場人物たちが、それぞれ独立しているように喋り、小説にポリフォニックな場を形成しているということです。いわば、複数的な他者性を確立していると言えます。それに対して、平野啓一郎は、複数的な自己性を確立させようとしているように見えます。「私」という自己は複数の「私」の束であり、崇は人によってその言葉を巧みに、そして恐らくは無意識に使い分けます。まるで複数の人格が内在しているかのように。このことを知らしめるには、下世話な愛の囁きから高踏的な理論まで、幅広い対話の場が用意されねばならなかったのであり、それは必然の手続きだったのです。
・・・大体のところ、ぼくは以上のような感想を漠然と抱いたのですが、まだ書いていないこと、というか書ききれないことがあります。とりわけ「希望」については言を費やしてみたいところですが、今のぼくには難しそうです。もうだいぶ長くなりましたし、ここらで今日はおしまいにします。
まず言っておきますが、例えばドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の感想を記すときにそうされるように、ネタバレについては考慮しません。
何から書き始めればよいものか。
「死んでもいいけど、こんな時に飛び込まんでもなァ。」
この作品の輪郭は円をもって閉じられ、最後の一行によって読者は再び最初のこの台詞に帰ってきます。電車への投身自殺(自殺かどうかは暗にぼかされているとはいえ)によって幕が開き、それによって幕が閉じる、というこの構造はトルストイ『アンナ・カレーニナ』の緻密な結構を否応なく想起させますが、しかし『決壊』と血縁関係にあるのはやはりむしろドストエフスキーでしょう。沢野崇とイワン・カラマーゾフとは誰が読んでも恐らくは二重写しになって見える形象です。イワンの苦悩は崇の苦悩とどの程度一致するのか、という問いは専門家(あるいは双方に詳しいファン)の見解を待たなければなりませんが、誰の目にも明らかだとぼくの言っているのは、両者の立場、殺人事件への関与の仕方です。使嗾(しそう=唆すこと)する者としてのイワンが殺人者と自らを同一視するように、崇もまた犯人と自らを同一視し、またある意味で世間から同一視されます。このアイデンティティの錯視とも言うべき状況は、「私」という存在が様々な存在の束であり、ありていに言えば情報の束である、という崇や犯人である「悪魔」の言説とも重なってきます。アイデンティティの崩落。「私」の複数性。「私」という存在が一個の確固たる自我ではなく、様々な「自己」のテクスチャーである、という言説は現代では半ば自明のものとして一般に流布し、消費されている(あるいは消費されつくしている)と思われますが、その理屈をこのような形で先鋭化して小説にして見せたことは、驚きです。
このような形。「悪魔」は多くの他者の遺留品を現場に残し、殺害があたかも「複数」の人間によってなされた犯行であるかのように偽装します。彼が語るように、真犯人とは「殺意」であって、人間ではありません。もはや犯人/罪人は存在せず、ただ最後に行使する者がいればそれで犯行は完成します。「悪魔」はただそのような「選ばれた人間」に影響を与え(すなわち使嗾し)、殺人を蔓延させればよいのです。人間の悪意が、決定的な行使をする人間の手を借りて(手を借りているだけ!)、犯行が成就する。「悪魔」はただそれを唆しているだけであり、実は自爆した男もまた「悪魔」の手先となり実行犯となっているに過ぎず、首謀者は、「悪魔」は、まさに人間の悪意そのものなのでしょう。その意味で、この複数の悪意は『決壊』においてネットの悪意に代表されており、あるいはワイドショーの、コメンテーターの、「正義の担い手」たるべき警察の、世間の悪意もまた人間の悪意を代表するもの、具体的なリアクションは悪意の具現化とみなしてもよいでしょう。
一人の人間がもう一人の人間に殺意を抱き、実行に移す、という古典的な犯行はまさしく「古典的」であり、現代ではそうではなく、複数の人間の悪意がたまたま選ばれた(遺伝と環境によって!)人間の手によって、たまたま選ばれた無辜の人間を殺害するという、ある種通り魔的な、単純な二項関係ではない、関係性の網目の中での殺人へと変貌しています。「私」という人間が無数の「私」の束であるように、殺人者もまた無数の潜在的な殺人者の思念の束であるというわけです。
それにしても、希望の感じられない容赦のない物語です。円環構造を持つ作品の構成から言っても、崇の投身自殺は恐らく「死んでもいいけど、こんな時に飛び込まんでもなァ。」というリアクションしか引き出さない犠牲であり、こうした無意識の悪意こそが「悪魔」の唆しによって殺人へと飛躍することになるのです。悪意の連鎖は止まない、ということを円環構造は物語っているのであり、その意味でこの作品は書かれている内容そのもの以上に絶望的であって、読者をしてそれこそ自殺させようとするほど恐ろしく悄然とさせます。
沢野家は、何も起こらない状況においてもほとんど内破しかかっていましたが、事件によって完全に決壊します。このとき、我々は内破寸前の沢野家の本来そうあるべき行方に希望を持つべきなのでしょうか。ひょっとすると、何もなくても、この家族は決壊していたかもしれない。それとも、どうにか持ちこたえていたのでしょうか。悪意というものはシステム・エラーというよりはシステムにそもそも備わっている、それがなくてはシステムが存在しえないような部分と言えるかもしれませんが、もしもそうだとすれば、沢野家は遅かれ早かれ決壊していたと言えるでしょう。しかしそれでは、あまりに希望がなさすぎる!
はじめ、『決壊』は19世紀的な全体小説を志向しているのかな、と思いました。ところどころで展開される、多くの読者にとっては難解と思われるだろう会話の応酬(というよりは崇の意見の開陳が主ですが)は、ドストエフスキーの模倣とも思われました。しかしながら、これは作者の衒学趣味というよりは、すぐ後で述べるような「別のこと」を表現するための一手段に過ぎないのかもしれません。また難解と言っても、ある程度学問の修練を積んでいる者からすれば、むしろ非常に興味深い箇所であって(もちろん難解でないという意味ではありませんが)、これをドストエフスキーの模倣で片づけるのはもったいないでしょう。さて「別のこと」というのは、崇の複数性を鮮明にする、ということです。ドストエフスキーはポリフォニー小説の書き手と言われていますが、これは一個の作者の声を作中人物に語らせるのではなく、彼ら登場人物たちが、それぞれ独立しているように喋り、小説にポリフォニックな場を形成しているということです。いわば、複数的な他者性を確立していると言えます。それに対して、平野啓一郎は、複数的な自己性を確立させようとしているように見えます。「私」という自己は複数の「私」の束であり、崇は人によってその言葉を巧みに、そして恐らくは無意識に使い分けます。まるで複数の人格が内在しているかのように。このことを知らしめるには、下世話な愛の囁きから高踏的な理論まで、幅広い対話の場が用意されねばならなかったのであり、それは必然の手続きだったのです。
・・・大体のところ、ぼくは以上のような感想を漠然と抱いたのですが、まだ書いていないこと、というか書ききれないことがあります。とりわけ「希望」については言を費やしてみたいところですが、今のぼくには難しそうです。もうだいぶ長くなりましたし、ここらで今日はおしまいにします。