Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

けいおん、あれこれ

2010-07-08 15:51:13 | アニメーション
けいおんについてあれこれ書きます。書くつもりです。

先々週の回は、脚本があまりよくできていないような気がして、中だるみかな、なんて思っていたら、先週はけっこうよかったです。あずにゃんの夢オチの回ですね。この日はサッカーが延長戦に入って、始まったのが夜中の3時でしたから、つらかったです。夢オチの回で特によかったのは、花火のシーン。正確に言うならば花火の後のシーン。打ち上げ花火が夜空に開いた後、、白い煙がもやもやと黒い空に漂っているさまは、まさに名場面。こういうところを切り取るから、うまい。
そして今週のけいおんは、夏休みのあれこれ。むぎが主役のような回でしたが、最近むぎがけっこう可愛く見えてきた・・・
そしてあずにゃんはゆいぐるみで可愛い。あずにゃーん!と飛びつきたくなるのはゆいでなくとも分かる分かる。

京アニのCMはちょっと驚きですが、なんか物凄く健全なアニメを作っているところ、という印象が残ります。まあ確かに健全でないものを作っているわけではないからいいのですが。

猿の手

2010-07-06 23:03:52 | 文学
ちょっと自分のブログを見ないでいると、いかがわしいコメントが付くから困ります。

それはそうと、久々に小説の感想。

ジェイコブズ「猿の手」。

怪奇小説としては定番中の定番で、「古典的名作」とされている短編ですが、読んだのは今回が初めてでした。怖いのが苦手だからかそもそもの読書量が足りないのか・・・

ひからびた猿の手を手に入れた3人家族の物語なのですが、この猿の手には3つの願い事を叶えられる、という魔力が備わっていました。最初は疑ってかかった家族は、とりあえず200ポンドのお金を出してくれるよう猿の手に頼みます。しかしお金は出てきません。やっぱり嘘だったのか、と思っていると・・・

テーマは「代償」ということでしょうか。200ポンドのお金と引き換えに、この家族はとんでもないものを失うことになります。そしてそれを取り戻すために再び猿の手を使用するのですが、それは禁断の業であり、恐らくはもっとむごい代償が払われなければなりません。そしてまたしても猿の手を使う家族。3番目の使用に対する代償は何だったのか、この小説では書かれませんが、もしも猿の手が必ず何らかの代償を要求するものであるとすれば、とてつもなく大切なものをこの家族は差し出さねばなりません。しかしひょっとすると、もうこの経過全てで代償は払い終わっているのかもしれませんね。これほど酷い結末を迎えた家族から奪えるものは何も残っていないですから。

古典的名作として名高い作品ですが、前半の陽気さから後半の悲劇へと色調は一転してしまいますから、メリハリが効いている、と評価されているのかもしれません。ただ見方によってはアンバランス。また最後の大詰めも余韻を残すと言えば聞こえはいいですが、少し駆け足過ぎるとの批判はありえます。ぼくは「代償」ということをポイントにして読了したので、その代償が何だったのか判然としなかった点に少しもやもやしたものが残りました。まあ、これはそういう読み方そのものの正当性が足りなかっただけなのかもしれませんが。

三つの願いの民話を髣髴とさせる、着想そのものが既に古典的な作品で、今日でもよく知られているのは、そんなところも関係しているような気がします。気がするだけです。

ところで、猿の手、という道具立ては非常に効果的ですね。それがひからびてミイラになっている、という設定は、いかにも不気味。ストーリーも興味深いですが、こういう部分にもこの作品の非凡さが表れています。他のものでもよかったはずですからね。仮面でもいいし、蛙の足でもいいわけです。でもやはり猿の手がいい。

しかしながら、他の部分の設定にはどうも少し無理があるように思えて(軍曹が猿の手を持ってきた理由など)、腑に落ちない個所もありました。要は、完璧な小説ではない、ということです。でも、個人的にはそういう完璧さに限りなく接近している作品よりも、少しいびつで、どこかに裂け目があるような作品の方が好きです。

紅の豚のことを書こうかな

2010-07-04 16:12:20 | アニメーション
本当に何日も更新しなくなってしまった。たぶん一週間ぶりの更新です。
この間、特に何か変わったことがあったわけではないのですが、金曜ロードショーで『紅の豚』が放送されたので、その感想でも書いておこうかな、と。

前回は2007年の5月25日に放送、視聴率は15%でした。まあまあといったところでしょう。『紅の豚』は宮崎駿監督作品としてはたぶんそれほど人気があるわけではなくて、視聴率も14%くらいから20%くらいを行ったり来たりしています。初めてテレビで放送されたのは1993年の10月15日、このときは20,9%でした。しかしその後は2003年に18,7%、1998年に17,8%だったのを除いて低迷しており、同じ宮崎駿のラピュタやトトロに比べるとやはり低人気のようです。

さて、『紅の豚』で物語の核になっているのは、ポルコが戦争中に自らに魔法をかけて豚になった、という設定なのですが、そのようなシーンはこの映画に登場しません。ただ、戦争中の臨死体験(?)を回想するシーンがあるばかりです。ちなみにこの臨死体験のシーンは、以前にこのブログでも書きましたが、ロアルド・ダールの短編小説が明らかにモチーフになっており、ダールの影響が強く感じられます。

戦争と魔法、というと思い出すのはハウルです。紅の豚では、戦争が終結して何年も経ち、それからまた徐々に世界の雲行きが怪しくなり、ファシストが台頭してきたイタリアが舞台になっています。世界大戦に挟まれていた時代です。一方ハウルでは、戦争が始まる頃が物語の幕開け。

紅の豚では、魔法というものがかなりぼかされています。世界恐慌やファシストの台頭を描くなど現実に取材している一方で(シュナイダー・カップも現実にあったらしい)、なぜか豚の姿をしているポルコ。リアルな世界の中に一つだけファンタジックな要素が混ざっており、しかしそれに対して誰も何も疑問に思わない。ハウルのように魔法や魔法使いがありふれて存在している世界ではないのに、ポルコだけが豚の姿をしていて、しかも自分に魔法をかけたのだという。これは一体どういうことなのか。

アニメーション映画ということで、観客はそのような設定にも慣れ親しんでいるから不思議に思わない、ということはある。しかしそれとは別の次元、映画の世界内の次元で、ポルコの存在を皆が受け入れてしまっていることが不思議なのです。現実の歴史を描いている中で、なぜポルコだけが魔法を使えるのか。その答えは今のぼくには出せないのですが、しかし確かだと思われるのは、紅の豚からハウルに至るまでの、宮崎駿の中における魔法観の成熟です。

ハウルにおける魔法は、驚くべきものでした。ソフィーにかけられた魔法は、結局のところ解けたのか解けなかったのか、そもそもいかなる魔法がかけられたのか、いまだに論争の余地があります。一つの可能性として、ソフィーにかけられた魔法とは、心も持ちようが体に反映される魔法、という回答を想定することができますが、とすると、ソフィーにかけられた魔法は結局解かれなかったのかもしれません。魔法使いが人の姿を変える魔法をかけて、それが最後には解かれる、という当たり前の魔法の構図はここでは当てはまりません。これは、少女が異世界に行って帰ってきたときには成長している、という当たり前の成長物語を髣髴とさせます。千と千尋は、実はこの成長神話を壊した映画でした。千と千尋は成長神話を破壊し、ハウルは「魔法神話」を破壊しました。

紅の豚という作品は、このような宮崎駿の既成概念をひっくり返す思想のまだ成熟していない頃の作品なのではないか、という気がします。映画では、ポルコが最後人間に戻ったようなことが暗示されますが、その成否は分からずじまいです。宮崎駿において魔法というものが心の持ちようと密接にかかわっているのならば、ポルコは自らを豚としてみなしてきたが、最後には再び人間とみなすようになった、と言うことができます。もちろんそのきっかけはフィオであり、彼女のおかげでポルコは(もはやポルコではなくマルコと呼びましょう)人間を再評価し始めたのでした。

しかし、紅の豚ではこのあたりのことが曖昧で、魔法のその世界の中での位置づけが定まっていません。魔法によって豚になったその外観は本当に心象を表しているのか、などは推測の域を出ません。現実世界にあってマルコ一人が豚であることの奇妙さも解決しません。いったいこの映画は何なのか。ぼくは、『紅の豚』は宮崎駿の長編映画史の中で前期から後期への「移行期」の作品だと捉えていますが、そのあたりにこの作品を読み解く難しさがあるような気がしています。

宮崎駿における魔法。そういうテーマの本を書くとしたら、『紅の豚』は間違いなく非常に重要な作品であり、そして位置づけが最も難しい作品となるでしょう。ただ、そういう小難しいことは考えずに、映画に時折り挿入される美しい抒情的な風景と切ない旋律に恍惚となるのもまた楽しい。「きれい・・・世界って本当にきれい」(フィオ)。