「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」ゲストブック&ブログ&メッセージ

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本日の毎日新聞埼玉版

2020年11月28日 10時58分56秒 | 取材の周辺
 本日の毎日新聞埼玉版に本の紹介記事が出ました。米沢支局の佐藤良一記者から、昨日電話があり、埼玉版にもいつかその内載りますという連絡を受けていましたが、今日になったとは驚きです。
 いつも思うのですが、記者さんは、2時間くらいの長い時間、訴えたいことがあふれて行きつ戻りつした話を、非常にコンパクトにエッセンスを纏められる。どこの記者さんも同じ。仕事とはいえ天才ではないかと感心する。こんなふうに纏められたら、私の本も500頁を超える分厚い本にならないで、読者もまた楽なのではないかとさえ思われる。
 それでも中国帰国者たちの心象風景、出来事の細かなディテール、旧満州の記憶、帰国後の思いなどを、祈りを込めて記したい。具体的かつ精密に。後世の人が追体験できるように。それにしては誤字・脱字が多くて反省しています。
 知り合いの中国帰国者の通訳支援員をしている友人は、「この頃、残留婦人・残留孤児がなくなるたびに、私はいつも皆さんの人生は何だったのだろうと疑問がわきます。日本人なのに日本人ではないような、日本人と認められていないような複雑な思い。正直、職員も帰国者をよく思っていないのも事実。」と、メールをくれました。癌の告知についても日中間での相違に触れ、「中国では告知しないのが普通で、告知したら本人が耐えられないという考え方が支配的。一方、日本では、告知しその後の余生をどのように生きるかは自己決定権が保証されている。そこは大きな違いだ」という。彼女が最近見送った帰国者は、年金と新支援金を合計するとおよそ月14万円の収入があった。しかし自分では半分も使わないで二世、三世の生活を援助していた。癌が発見されても、親族全員が「告知しない」という判断なので、医師は抗がん剤も使えないでいたという。長い間中国帰国者を見てきた彼女は、「自分のためにお金を使うこともなく、外食も旅行もしたことがない。一生懸命貯金してきた。もし、余命がわかっているなら、今は新支援法で二か月間中国に帰ることもできるようになったのだから、一度死ぬ前に中国に帰って、中国の変化を見せたかった。貧しい農村に育ってお金を使うことを知らなかった人生だった。」と言う。それで、「彼の人生は何だったのだろう」というという疑問が、彼女の口から漏れたのだった。
最初はメールのやり取りだったのに、歯がゆくなってか、わざわざお忙しい中、長野の滞在ホテルまで、訪ねてきてくれた。久しぶりにゆっくりお話ができました。ありがとう。 


読売新聞九州版(11月24日)に九州の中国残留孤児のこと、本のことが少し紹介されました。

2020年11月26日 20時44分10秒 | 取材の周辺
 読売新聞の若くきれいな記者さんが、九州からわざわざ飛行機で拙宅まで来てくれて、取材を受けたのは確か9月17日でした。ニュースのような速報性はないので、なかなか記事にならず、このまま記事にならないで終わってしまうのかしらんとも思いました。
 先ほど送られてきた新聞を開いてみると、とても大きな記事で、九州の井手誠介さんと川添緋沙子さんにも取材し、記事にまとめられていました。内容はとてもよく纏まっていて安心しました。若い方が関心を持ってくれることは、とても嬉しいことです。
 この記事が皆さんの目に留まって、ついこの前の出来事だった満蒙開拓という歴史とその後の中国残留者の生活と、今に続いている思いなどを理解し、想像してくれたらありがたいと思いました。
 ただ、署名記事になっていないところが少し気になりました。これから頑張って欲しい記者さんです。また、本の紹介に出版社名が書いていないのも気になりました。前回の毎日新聞もそうでした。新聞では出版社名を書くというルールはないんでしょうか。ご存じの方は教えてください。
取り急ぎ、報告まで。

本日の毎日新聞山形版で、取材時のこと、本のことが紹介されました。

2020年11月15日 10時32分33秒 | 取材の周辺
 次の本の執筆に行き詰まり、気分転換も兼ねて、蔵王温泉に約3週間ほど行っていました。gotoキャンペーンの恩恵を受けて、しかも使い切れないくらいのお土産代(地域共通クーポン)まで用意してくださるという政府の大盤振る舞い!ありがたく享受して参りました。
 予定はしていなかったのですが、4年前にインタビューした皆さんにも、数人会うことができました。孤児編の本を送ると、真っ先に電話をくれた浅黄さん。「誰も俺の話なんか聞いてくれなかったのに、話を聞いてくれて、本にしてくれて、涙がボロボロ出たよ。今までで一番のプレゼントだ」と。また手塚さんは、近所の親しい人に私が贈った本を貸したら「手塚さんの苦労がよくわかった」と言ってくれたそうです。近くに住んでいるお姉さんは本を読んで泣いていたとのこと。妹さんも読みたがっているけれど、近所の人に貸し出し中とのことだったので、私の車に積んであった本を差し上げてきました。まわし読みしてくださっていることも嬉しいですし、近所の人が手塚さんの苦労、悲しみを理解するのに、本がその役割を果たしてくれているのも、何より嬉しかったです。
 4年前のインタビューでお世話になった支援者の方が、毎日新聞の記者に連絡をしてくれて、取材に至りました。
写真の記事は読みづらいので、以下にコピペします。
 
無念の声、後世に 中国残留孤児・残留婦人、証言集 過酷な体験200人から 埼玉の藤沼さん /山形
毎日新聞2020年11月15日 地方版
  • 社会一般
  • 山形県
 太平洋戦争の終結後に旧満州(中国東北部)に取り残された中国残留孤児と残留婦人から証言を集めてきた元上智社会福祉専門学校講師の藤沼敏子さん(67)=埼玉県川越市=が、証言集3冊を出版した。孤児と再会するために来県した今月、毎日新聞の取材に応じて「戦争で犠牲になった無念の声を一つでも多く残したい」と語った。【佐藤良一】
県内から満州へ1万7000人
 証言集は「あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち」(上・下)と「不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち」。北海道から沖縄まで巡り、中国や台湾も訪ね、約200人から体験を聞き取って、インターネットでビデオ映像を公開。それを基に書籍にまとめた。県内の残留孤児11人と残留婦人2人も証言した。
 戦前、国策として全国から旧満州に送り込まれた「満蒙開拓団」。約27万人が在籍し、約8万人が敗戦の混乱で犠牲となった。関東軍に青壮年の男性が根こそぎ召集され、残った高齢者や女性、子供らが旧ソ連軍や現地の盗賊から逃避行し、多くが集団自決や餓死、病死した。山形は長野県に次ぐ1万7000人を送り出した。
 藤沼さんは、埼玉県で在留外国人を支援する日本語講座のコーディネーターをしていた1990年ごろに残留婦人と出会い、中国での過酷な体験に衝撃を受けた。「多くの女性は逃避行中に暴行を受け、現地の貧しい農家の嫁となって生き延びた」と話す。「なぜ、こんな思いまでして生きなければならないのか」と訴える女性たちの声を聞き、証言を集め始めた。

 藤沼さんは今回、残留孤児7人と再会した。介護施設や病院に入ったり、認知症を発症した人もいて、高齢化が進む孤児の現状を痛感したという。
 浅黄勉さん(83)=河北町=は2016年に証言し、祖父母、母、妹3人との逃避行について語った。収容所で末の妹、引き取られた中国人宅で妹2人が死んだ。文化大革命をへて75年に永住帰国。会社に入ったが、同僚からは「満州」と呼ばれた。年金は生活保護の基準より少ないという。「それでも日本に帰ってきてよかった。自分の国だから」と証言した浅黄さん。藤沼さんから贈られた証言集を手に「誰も話を聞いてくれなかったのに本にまでしてくれて、人生で一番のプレゼントだ」と泣いて喜んだ。
 藤沼さんは「日本は国策としての満州開拓を総括していない。戦争の惨禍を繰り返さないためにも、記録を残して後世に伝えたい」と話す。青少年義勇軍や従軍看護婦などの証言をまとめた続編に取り組んでいる。
 証言集は単行本で、各2750円(税込み)。オンライン書店「アマゾン」で販売中。(津成書院はアマゾンでは販売していません。一般の書店で購入をお願いします)


「中日友好楼」2000年8月にインタビューした養母 催 志崇さんがお亡くなりになったとのニュース 

2020年11月01日 09時39分41秒 | 取材の周辺
今日の読売新聞 朝刊に、長春の「中日友好楼」、残留孤児 最後の養母が亡くなったという記事が出ていました。私は2000年8月2日から5日にかけて、「中日友好楼」を訪ねて7人の養父母にインタビューしました。あれから20年以上経ってしまいました。
 7月に上梓した『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(下)―関西・山陽・四国・九州・沖縄・中国の養父母編―』の中に、最後の養父母 催 志崇さんのことを書いています。この時には、養父 秦 家国さんもお元気でした。本から一部抜粋して転記します。

「証言64  中日友好楼に住まう7人の養父母たち(長春市(チョウシュンシ))
(証言1)関 秀蘭さん以外の方のビデオテープは、劣化のため、再生、デジタル処理ができませんでした。関 秀蘭さんのビデオも、前半部分が復元できませんでした。一部、取材ノートのメモをまとめたものです。
              ~略~
(証言6)催 志崇さん(養母 1922年生まれ 78歳) 秦 家国さん(養父 84歳)
 1946年7月、第7道路で泣いていた女の子を拾ってきた。私が25歳、夫が30歳のとき。私たちには子どもがいなかった。あとで3人(男、男、女)生まれた。文革のときは何もなかった。
 1960年代の生活は大変だった。夫はチャーズのとき、中にいた。誰も死ぬまで出られない。食べ物がない。いっぱい死んだ。チャーズの6か月間が一番厳しく大変だった。
 養女は1986年、日本に帰った。親が見つかった。父母は元気で日本にいた。1990年に夫は1回日本に行った。東北地方の養父母40人くらいが一緒だった。日本政府から1回だけ1万元もらった。
 日本からの仕送りはない。夫は昔の会社の年金が300元。私は200元。3人の子ども(実子)は近くに住んで会社に行っているが、仕事はあまりない。仕送りもない。」

本日の東京新聞夕刊一面

2020年08月24日 21時23分06秒 | 取材の周辺
 本日の夕刊一面で、『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上)(下)』(津成書院)の記事が大きく紹介されていました。たくさんの方の目に留まって読んでくださる方が増えたら嬉しいです。東京新聞川越支局の中里宏記者は、こんなにぶ厚い本を読むのは大変だったろうと思いますが、よく読み込んでいてくださっていて、それがインタビューでこちらに伝わってきました。法政大の高柳俊男先生のご推薦から始まって、このような立派な記事にしていただきまして、感謝に堪えません。
 以下は東京新聞のネットニュース https://www.tokyo-np.co.jp/article/50777?rct=national

法政大学 高柳俊男先生のインタビュー記事(大正大学『地域人』No.60)と「推薦の言葉」

2020年08月18日 20時39分32秒 | 取材の周辺
拙著『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上)(下)』に、推薦の言葉を書いてくださった法政大学の高柳俊男先生のインタビュー記事が、大正大学『地域人』第60号に掲載されました。留学生のフィールドワークの様子を知ることができます。その中に、私の本の「推薦の言葉」に書かれていた三六災害の『濁流の子』碓田栄一氏のことも、郷土史の文脈の中で紹介されていましたので、全体像を探ることができました。感想を寄せてくださった多くの方が、高柳先生の「推薦の言葉」に感動したと記していますので、ここに一緒に紹介することにします。







《推薦の言葉》                         
藤沼敏子著『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち』に寄せて
「不条理な過去を未来へとつなぐために」
                   法政大学教授 高柳俊男
藤沼敏子さんとの出会い
 私が藤沼敏子さんという人物を知ったのは、いまから四年前の2016年だった。その春、私は前年に歌集『伊那の谷びと』を自費出版した小林勝人さんをお招きして、歌に込めた想いなどを伺うイベントを、長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館で開いた。というのは、私の所属学部では2012年度以来、伊那谷を舞台に夏休みの学生研修を実施しており、私がその担当者を拝命している。満蒙開拓や中国人強制連行をはじめ、かつて生業だった養蚕や近年の過疎化など、小林さんの詠んだ短歌を媒介に、伊那谷の経てきた近現代史の歩みや精神史のようなものを、ともに考える場が設けられないかと思ってのことだ。
イベントの終了後、ネットを見ていて、藤沼敏子さんという方が自身のブログでこの件を詳しく紹介しているのを知った。そこにはこのブログで以前、小林さんの歌集を紹介したことに続けて、「小林さんは目立たない地味な仕事を労を惜しまずなさっていらした」「お二人は、かつて旧満洲を訪ねる旅で同行して以来の交流仲間とのこと。高柳先生は、小林さんの地道な努力を研究者として高く評価してきたと言い、先生からこの対談企画を申し出たという。嬉しい!」などと、きわめて好意的に綴られていた。そこで、ブログ宛てにお礼を書き送ったり、藤沼さんがどんな方かを小林さんに尋ねたりするなかで、初めて交流が実現した。同年夏、同趣旨のイベントを東京でも開催した際には、藤沼さんも足を運んでくださって、お目にかかることもできた。
それ以来、約四年間。ご本人は1953年、栃木県生まれの由だが、私も栃木県が郷里で生年が1956年なので、奇遇に感じる(ついでに名前の読みも?)。立教大学で教え、小さな民の発想で歴史を学ぶ意義を説いた故・森弘之先生(インドネシア史)を、藤沼さんは「尊敬する恩師」と書いているが、私も台東区谷中のお寺の住職でもあった森先生に学部時代以来お世話になってきたので、その意味でも身近な存在に思う。
その割には、いまも藤沼さん個人の経歴については知るところが少ないのだが、ここで何よりも強調すべきは、彼女がかつて満州(中国東北部)で暮らした体験者を全国に訪ね歩き、二百人前後から聞き取りを行い、その映像を自身のホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」(https://kikokusya.wixsite.com/kikokusya)上にアップするという、地道な作業を永年にわたって続けてきたことである。そのことを知り、実際に映像のいくつかを見るに及んで、私は正直圧倒された。研究機関に籍を置く恵まれた立場の研究者でもないのに、どうしてここまでできるのだろうか? もちろん、こうした作業を可能にする前提として、時間的な余裕や一定の経済的な裏付けは必要かもしれない。しかし、日本の満州政策の下で過酷な人生を送らざるを得なかった人々の声に耳を傾け、それを聞き書きとして残さねばという強い意思、さらには一種の使命感のようなものがなければ、そもそも不可能な営みなのではないか?
それ以来、私にとって藤沼さんは、一目も二目も置く人物であり、脱帽の対象であり続けている。

前著『不条理を生き貫いて:34人の中国残留婦人たち』刊行をめぐって
藤沼さんが、ネット上に映像をアップした聞き書き記録を文字化する作業を進めていることは、本人からしばしば耳にしていた。そして、全四部作を見込んだ最初の一冊『不条理を生き貫いて:34人の中国残留婦人たち』が、昨年刊行された。その際、これまでの不断の努力が少しでも報いられるよう、私も何かお力添えできないかと考えた。
幸い、私の本来の専門である朝鮮関係でその頃たまたま知り合った人に、「東京新聞」記者の五味洋治さんがいる。出身は長野県の茅野市で、満蒙開拓にも大いに関心があるという。彼に相談を持ちかけたところ直ちに快諾、藤沼さんの居住地を担当する同社の中里宏記者に話を回してくれ、大きめの紹介記事が年末の同紙(二〇一九年十二月二二日付)に掲載された。ここでは、本書が「貴重な口述の歴史資料」だとしたうえで、藤沼さんが日本語ボランティア講座のコーディネーターとして活動する中で日本に帰国した中国残留婦人と親しくなり、インタビュー調査が始まった旨を記している。末尾には、本書がオンライン書店のアマゾンで販売中とも付記されていた。
この記事掲載で、藤沼さんにこれまでのご恩返しが多小なりともできたかと、いったんは胸をなでおろした。ところが、全国の大学図書館などの蔵書が一度に検索できるCinii Booksで調べると、現時点で所蔵が確認できる大学はわずか五校しかない。しかも「東京新聞」配布の中心エリアと思われる東京都内では、私がこの記事を添えてリクエストした法政大学のみである。もっと宣伝して、藤沼さんの仕事を幅広く知ってもらわねばとあらためて思う。
ちなみに、都内の公共図書館の所蔵を横断検索できるサイトによれば、区立ないし市立の図書館でヒットしたのはあいにく品川区のみ。都立図書館所蔵本が貸出中で、予約も三件入っていたのがせめてもの救いだった。

前著『不条理を生き貫いて:34人の中国残留婦人たち』の内容から
では、前著についてごく簡単に紹介してみよう。本書は、いわゆる中国残留婦人(国の定義だと終戦時に一三歳以上の女性)からの聞き書き集で、五五〇頁以上におよぶ大冊である。章立ては、第Ⅰ部が満蒙開拓団(各開拓団ごと)、第Ⅱ部が農業以外の自由移民、そして第Ⅲ部 サハリン残留邦人(例外的に男性からの聞き書きを含む)、第Ⅳ部 大陸の花嫁、第Ⅴ部 日本に帰らない選択をした残留婦人、と続く。残留婦人等とされる計三四人の、満州渡航の経緯、現地での生活、ソ連軍侵攻後の逃避行、死と隣り合わせの収容所生活、新中国での暮らし、日本に帰国してからの日々などが項目別に記されている。ソ連軍による婦女暴行や中国での人身売買をはじめ、結婚・出産・育児など、女性ゆえの証言がとりわけ重たく響く。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦前の価値観が、現地の中国人に嫁ぐに至った女性たちを苦しめたことも、男性とは異なる点である。それぞれの聞き書きには、本人の語った特徴的な言葉がタイトルとして付され、差異化が図られている。
基本的には、ネット上に音声で載っている証言を文字化したものだが、こうした作業が必要な大きな理由として、インタビューに応じてくれた方々が高齢で、インターネットにアクセスできないためと説明されている。
一般的に言って、他者からの聞き書きは思うほど楽な作業ではない。私も自分の研究の必要上、特定の体験をもつ個人からお話を聞かせていただいたことが多々あるし、大学史委員会の業務として、学徒出陣を体験した卒業生からの聞き取り作業に、同僚たちと数年間、これがラストチャンスになろうとの予測のもと従事してきた。私が考える聞き書きの最大の難しさは、「こちらの器の大きさに応じてしか話を聞けない」こと、つまり自分の体験していない世界の話を聞くので、聞き手側に知性の点でも感性の点でも十分な備えがないと、相手の話を最大限に引き出すことができない、という点である。そして、一定の人間関係、つまり相手からの信頼がないと、奥深いところまで語ってくれはしないという問題もある。時間の経過による忘却・記憶違いや、意識的・無意識的な自己弁護もあり得る証言内容をどう整理し、いかに事実を確定するかも含めて、神経を使う作業の連続である。本書の場合も、証言者を探し出し、連絡を入れて取材のアポを取り、現地まで出かけることから始まって、全過程に費やされた時間や労力は想像を絶する。
私が本書で特徴的だと思う点を三点挙げると、まずはある個人の証言が、一つには本書における文字資料として、もう一つはその表情や語り口もわかるネット上の映像により、二つの媒体で確認できることである。これは、両者それぞれの長所を活かし、短所を補完するという意味で、なかなかユニークな試みだと思う。場合によっては、固有名詞の間違いなど、著者の作業の不備が露呈してしまうことにもつながるが、そのことを厭わず、むしろそうした検証の機会を読者に提供している態度を公明正大に思う。
第二の特徴は、一つもしくは関連する複数の証言のあとに「証言の背景」という文章を入れ、語られた内容をより理解しやすくするための解説を丹念に加えていることである。たとえば、「第Ⅳ部 大陸の花嫁」では、満州に移民した青年男性が「屯墾病」(一種のホームシックのような疾患)に罹らず現地に定着できるよう、未婚の女性を一定の訓練を施したうえで大陸に送る「大陸の花嫁」と呼ばれる政策があったことが、各種の資料から説明される、といった具合である。
そして、第三の特徴として挙げるべきは、戦前戦中の満州での日常や、死の逃避行の話以上に、戦後の人民中国や帰国後の日本での人生に多くの分量が割かれていることだと言えよう。新中国の荒波を、養父母の人間愛に支えられ、またときにはスパイ視されるなどの理不尽な扱いを受けながらも命を繋いできた行動力や、帰国後の「祖国」での悲喜こもごもの想いなどに焦点が据えられている。

記録を残すということ―過去を未来へとつなぐ
冒頭で、学部で実施する伊那谷研修の担当者だと書いたが、研修の引率だけでなく、週一回の事前学習授業も担当している。そこで毎年扱う項目の一つに、伊那谷を梅雨末期の集中豪雨が襲(おそ)い百人以上の犠牲者を出した、一九六一(昭和三六)年の三六災害がある。自然災害の事実だけでなく、そこからの復興の過程や、とくにその記憶や記録を後世にどう残し教訓化しようとしているかに重点を置いて講義している。
その際、恐怖の三六災害を経験した子どもたちの作文を集め、ガリ版刷りで記録集『濁流の子』を作成した、箕輪町の碓田栄一氏についても触れている。行政や学校関係者ではなく、一個人がこうした作業を黙々とこなしたことに驚くが、実は本人は当時まだ高校を終えて大学に入ったばかりの、十代末の若者だったのである。記録を残し、過去を未来に活かそうとしたこうした孤独な営み、無償の行為こそ、私たちが真に記憶にとどめるべき事柄であり、まさに森弘之先生のいう「小さな民」の歴史ではないだろうか。碓田氏はその後、寄せてくれたものの当時は収録できなかった作文を、続編や補遺として世に出している。こうした行為がようやく認められて、いまでは信州大学などが三六災害関連資料を集めてつくるデータベースが、「語りつぐ“濁流の子”アーカイブス」(http://lore.shinshu-u.ac.jp/)と命名されている。
年齢の違いはともかく、藤沼さんの場合もこれに等しい営みだと言えよう。満州移民関係の本は、開拓団のいわば正史や体験者個人による回想録から、外部のルポライターないし研究者がまとめたものまで、実に膨大にある。とはいえ、公の機関ではなく、専門の研究者でもない立場から、これだけ多くの場所を訪ね、これほど大勢の聞き書きを残すのはきわめて異例と言えよう。しかも、苦難の人生を生き抜いてきた一人ひとりの生に寄り添おうという姿勢が、ひしひしと感じられる。それら多くの証言を通して、日本の庶民にとって満蒙開拓とは何だったのか、先の大戦とは何だったのか、その真相を明らかにしたいという切情に溢れている。彼女たちが、語りにくい話も含めて自分に語ってくださったことへの感謝の気持ちが、聞き書き活動のエネルギーの源泉になっているかもしれないとも思う。
藤沼さんの仕事は、これからもまだまだ続けられる。読者は、満蒙開拓という「被害」と「加害」の入り混じった歴史の重さ、今も残る課題の大きさ、そしてこの聞き書き集の分量の膨大さの前に、一瞬たじろぐこともあり得よう。ただし、まずは一編でもいいので、証言者の生の声に耳を傾けてみてほしい。そこから何か新しい認識や発見が生まれるかもしれないし、時代や環境こそ違え、同じ人間としての喜怒哀楽や、辛酸を乗り越えてきた個々人の生き様から、心に沁みるメッセージが届けられるかもしれない。「若い人にも読んでいただきたい」(前著の「はじめに」)という筆者の希望が、少しでも達せられることを願いたい。
この小文を書きながら、いまの聞き書き集の仕事が一段落したら、藤沼敏子さんの自分史もぜひ読んでみたい思いに駆(か)られた。そのことで、彼女がこれほどまで精力を注いで中国帰国者の聞き取りをする深い背景、藤森成吉を借用すれば「何が彼女をそうさせたか?」がわかり、この聞き書き集がより立体的に理解できるのではないかと思うからである。



「証言22 池田肇さん」の故律子夫人の「旧満州開拓移民記録」が、古いパソコンから出てきた。

2020年08月14日 14時21分30秒 | 取材の周辺
『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上下巻)』を関係各位に送り、早1か月近く経つというのに、たくさんの手紙やメールが今も続いている。
「証言22 池田肇さん」から、「本にしてくれてありがとうございます。とても嬉しかった」という礼儀正しいお電話をいただいたのは、発送直後でした。その時に頂いた電話で、「インタビューの中で、奥様が手記をパソコンでまとめられていると伺いましたが、それは読むことはできますか?」とずっと気になっていたことを尋ねた。池田さんは、奥様は「自分よりもっと大変な生活をしてきた。生きてる間に藤沼さんに話を聞いてほしかった」と。それから三日ほど前に、息子さんの協力を得てプリントアウトして送って来てくれた。新聞の切り抜きは、後半が切れてしまったものしか見つからなかったそう。たぶん11年くらい前の信濃毎日新聞のようだ。

 奥様の律子さんは鹿児島県奄美大島出身、大羅勒密開拓団だった。旧姓は阿世知律子さん。二人とも残留孤児同士の結婚だった。律子さんは帰国当時、全く日本語が話せなかったそうです。息子さんが古いパソコンを持ってきてくれたのがきっかけで、「あいうえお」から勉強を始めたそう。中国帰国者の日本語教室や交流サロンに通い、字を書くことが苦手だったのに、キーボードを打って日本語の文章を書くことができるようになって、大変喜んでいらしたそうです。律子さんは、中国で夜間学校に三か月しか通っていません。
律子さんの渾身の努力が実を結んだ「終戦時記録」と「旧満州開拓移民記録」です。






石井小夜子弁護士 本日の東京新聞記事から

2020年08月10日 11時45分38秒 | 中国残留孤児
今日の東京新聞に、中国残留婦人裁判立ち上げ時にご一緒した石井小夜子弁護士が少年法改正について取材された記事が載っていました。厳罰化が再犯抑止に役立つという考えには疑問を呈している。「少年法は教育基本法、児童福祉法と共に子どもの育ちを支援する法律として、戦後の日本国憲法下で定められた。一時の世論や熱狂で変えていいはずがない。大人の側が問われているのです」と。
日中国交回復後の中国残留孤児の帰国ラッシュ後、受け入れた日本側には何の施策もなかった当時、残留孤児二世三世の非行や事件が頻発した。石井先生は、ほとんど手弁当に近い形で彼らの弁護をした。その時も、「問われているのは日本社会なのです」と主張されたように記憶している。
当時の残留孤児二世三世が置かれていた環境を、残留孤児二世のシンガーソングライター小山卓治さんの「イエローワスプ」という楽曲を聞いていただくと、端的に理解していただけるように思う。YouTubeで聞くことができます。 https://www.youtube.com/watch?v=JXv2uXWySsM
中国残留婦人裁判は、中国残留孤児国家賠償訴訟の先行裁判として、NPO法人中国帰国者の会の会長 鈴木則子さんを原告に裁判が行われたが、孤児裁判に隠れてあまり知られていないかも知れない。しかも先日石井先生からの手紙で、裁判記録が破棄されたと知った。今となっては中国帰国者の会のホームページでしか、知ることができなくなっている。
ずいぶん昔のこと、これこれ20年以上前のことですが、中国残留婦人裁判立ち上げの相談で、鈴木則子さん、中国帰国者の会の事務局長長野浩久さん、庵谷磐さん、岩田忠先生、石井小夜子弁護士等と集まりを持って、会の後、カラオケ店に行った時、石井先生は、岡林信康の「私たちの望むものは」を歌われた。 https://www.youtube.com/watch?v=3SP1uzBdGKk
去年の献本(『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』)の時に、そのことに触れたら、先生は「今でも時々歌っています」と。2番のアンビバレントな歌詞も含めて、いや2番があるからこそいい歌だと思えて、私も時々歌っています。


『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上)(下)』を上梓して

2020年08月06日 16時04分06秒 | 中国残留孤児
                    
 献本作業が終わり、その後戻ってきた本、「宛先に尋ね当たりません」「保管期間が経過したためお戻しします」の新しい発送先を調べるのに、想像以上に手間取りましたが、大半の行き先が決まりました。お亡くなりになった方の本はご遺族を捜しご遺族の元へ。病院・施設に入所中の方へは、支援者が届けてくださることに。転居した方は新住所へ発送し、肩の荷がおりました。「保管期間が経過したためお戻しします」は、住所はそこにあるのですが、コロナ禍でデイサービスが使えなくなり、足腰が弱くなったり、体調がよくなかったりで、息子さんや娘さんの家に行って生活しているケースです。支援金受給の関係(同居している家族の収入の合算金額が基準を上回ると支援金が貰えなくなる)で、公言は差し控えなければなりませんが、それが現実です。献本した方からの注文もあり、それらもやっとひと段落しました。
 頭を切り替え、次の本、『WWⅡ 50人の奇跡の証言集』執筆にかかり始めた途端に、今の思いを区切りとして、推薦の言葉を書いてくださった高柳俊男先生と寄稿を書いてくださった小林勝人さんへ報告しておかなくてはと思いました。書いているうちにブログ記事にしようと思い至りました。

 証言してくださった方から、たくさんのお電話をいただきました。お名前を聞くと、電話の向こうのお顔を想像し、話し方の癖、方言が懐かしく蘇って来ます。皆さんとても喜んでいらして「ありがとう。感動した」「感激して泣いたよ」「こんなに嬉しいのは初めてだ」「夜眠れないくらい嬉しい」「孫に三回読んでもらった」「今までの人生で一番のプレゼントだ」というような内容でした。話してる間に電話の向こうの声が泣き声になってしまって、私も声を震わせて再訪の約束をして電話を切るということもありました。証言者の皆さんが喜んでくださっていることで、私のこれまでの努力はおおかた報われたと、小さな幸福感を味わっていました。その上、献本した方からも、胸が熱くなるような礼状をいただきました。この仕事をやってきて、目・肩・腰の不調、睡眠障害に悩まされ、幾度となく、「なんでこんなことをしているのだろう。お金もかかるし、辞めたら楽になるのに」と思ったか知れません。しかし、その度に、「証言者の皆さんの苦労に比べたら」と思い直して自分を叱咤激励してきました。そして証言者の皆さんから直接たくさんの電話をいただいて、やってきて本当に良かったと思いました。

 礼状の中に、上智の高祖敏明先生のものもありました。上智社会福祉専門学校に社会福祉主事科があった頃、私は非常勤講師をしていました。高祖先生は上智学院の理事長で、入学式や卒業式では必ず先生のスピーチを聞くことができました。恒例のありきたりな祝辞ではなく、魅力的な、何か心に残るお話を毎回してくださいましたので、式典が苦ではなく楽しみだった気がします。神父さんというだけで、「世事に疎い」という印象を持つ方が一般的かも知れませんが、高祖先生は全く逆で、世の中の動きに敏感な方で、スピーチの後、毎回「そうだ、そうだった」と感慨深く思わせるような示唆に富んだお話をしてくださいました。
 2013年12月26日、紀尾井ホールでオペラ「勇敢な婦人 細川ガラシャ」が上演されました。東京に住んでいる次女を誘って見に行きました。ガラシャ生誕450年と上智大学創立100周年が重なり上演が実現したとのことで、最初に細川佳代子さんと髙祖先生との対談がありました。元細川首相と佳代子夫人の学生時代の出会いの話や、細川ガラシャを佳代子夫人が、ご自身の発案で高校の演劇で上演された話など、まさにお二人の出会いは運命であったと感じさせるお話で、興味深く拝聴させていただきました。高祖先生の席は目と鼻の先、すぐ近くだったので、幕間にご挨拶だけさせていただいた記憶があります。
 その先生からいただいた葉書には、「今回の大著は、貴重な歴史証言ですね。『人は誰でも語るべきストーリーを持っている』とは教皇フランシスコの言葉ですが、一人ひとりのストーリーを聞き出して、私たち皆で共有できるものにしてくださり、その意味でも感謝申し上げます。少しずつ読み進めている毎日です」と書かれていました。尊敬する高祖先生からいただいた葉書を何度も何度も読み返していたら、「皆で共有できるものにした」という言葉が浮かび上がってきました。たくさんの人に証言者の経験を共有していただきたいという思いが強くなってきました。たくさんの人に読んでいただきたいと。
 もうすでに証言者の皆さんからたくさんの見返り(感謝の電話)をいただいているのに、仲間内で終わらせたくない、広く世間の人に彼らの経験してきたことを共有して欲しい、わかって欲しいと思うようになりました。このような悲しい体験が二度と再び繰り返されることがないように。
 さりとて無名の私の本が売れるはずもなく、最初から覚悟していたことなのですが、日々、嬉しい電話や手紙があるたびに、どんどん欲深くなっています。知る人ぞ知る世界ではなくて、広い世界に、日中の狭間でもみくちゃにされてきた彼らを、歴史の中に一人ひとり誇り高くすっくと立たせてあげたい、歴史の中に埋もれさせたくないという思いが強くなっています。どうしたら本が売れるようになるかと悩ましい課題と向き合っています。

 昨年上梓した『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』は、第23回日本自費出版文化賞に入選しました。603の応募があり、7部門70冊が残っています。9月2日に、部門賞、特別賞、大賞が選ばれます。次の報告はないかも知れませんので、今のうちに報告しておきます。

 さて、頂いたお手紙やメールを一部紹介しておこうと思います。最初20通くらい貼り付けましたが、読み返すと何か自慢のように感じるので、数通にしました。それでもやっぱり自慢みたいですけれど。

①古い友人 日本語教師時代の同僚から
 昨日「あの戦争さえなかったら」上・下2巻、献本くださりありがとうございました。歴史の教科書には載らないそこに生きた人々の、もっと言えば時代に翻弄された人々の生の声を丁寧に掬い取り、活字に起こされたお仕事、ただただ敬服するのみです。誰にでもできることではなく藤沼さんだからこそできることではと改めて感じ入りました。
 一見ほんわかとした藤沼さんのどこにそんなエネルギーが秘められているのかと、私の中の「七不思議」の筆頭です!尊敬の念を禁じえません。
 本の構成にも工夫が見られ、きめ細かな配慮がそこここに感じられ、やっぱり藤沼さんのご本だと納得です。表紙の装丁も温かみがあり、苦しい過去の体験を記したものでありながら、どこか温かいものを感じるのはやはり著者の「お人柄」によるものと思いました。
 コロナ禍で気の滅入る日々を送る中で元気とエネルギーを頂きました。いつかこの状況が収束した暁には是非お会いして、いろいろお話を伺いたいものです。
しばらくゆっくりされる由、どうぞお疲れを癒されますように!

②古い友人 群馬時代の娘の幼稚園のママ友から
 土曜日の夕刻に、本をいただきました。まずは2冊セットで、とにかく圧倒されて感嘆しました。昨日は群馬往復の用事があり、本日夕刻になって開いてみると。
 「はじめに」で藤沼さんの活動のきっかけや一途な思いが文字列のここかしこから溢れているのに感動しました。・・・私自身中国史を学んだことはあります。帰国者向けの日本語教室の手伝いを頼まれて少しだけ教室に立つことになった時、満州開拓や残留孤児の本を何冊か読んでいます。Kさんとの個人的な交流も経験できました。
 しかし、藤沼さんの立ち位置の確かさ、視線の鋭さ、愛情の深さ、正義感の強さ、エネルギーの豊富さ・・・とにかく脱帽・敬服・拍手喝采です。現代史の狭間に隠された、置き忘れられた事実をこのような形で、たくさんの「小さな人」に心を込めて寄り添う形で「大きな声」にされる姿勢に敬意を表すと同時に、古代史を明らかにしたい人間のひとりとして、学ばせていただきます。
 高柳俊男氏の推薦の言葉も、まさに藤沼さんの活動を正面から理解され応援されて、素敵です。
わたしもコロナ禍による規制が解除された暁には、明治大学図書館に推薦購入依頼を書きます。
 新型コロナが、今まで見えなかった事を思わぬ形で暴露してくれると感じます。
習近平・トランプ・金正恩・プーチン・そして安倍首相・・・何処を見て何を考えて政治をしているのか、益々露わになっていて、危険度も増しています。
 ニュージーランド・フィンランド・ドイツ等の女性トップは、その寄り添う言葉が国民に届いて、人々が協力しています。
 人の心を大切にする姿勢は、これからのキーワードになると思っています。
 藤沼さんの活動は、愛そのものです。心を込めてインタビューなさったこともですが、渾身の力を注いでまとめられる貴重な本は、後世に残る財産として輝くと思います。
感謝と敬意を込めて。

③関係者から
 このたびはご著作「あの戦争さえなかったら」をお送りいただきました。心から感謝申し上げます。早速、一組は私たちのKに納めさせていただきました。今年度着任したばかりのSも、この連休自宅に持ち帰り読みたいと、スタッフに先に読む承諾を求めていました。
 たいへんなご労作を纏め上げたご努力に敬意を禁じえません。そのお一人お一人の記録が、まさしく歴史の証言です。ここ数年、「残留婦人」「残留孤児」そしてその配偶者で他界する人が増えてきました。ほんとうに寂しさを感じます。戦後75年を経てそういう時代になりました。失われていく人生を思わずにはいられません。この歴史を後世に伝えるということの重要性を思い知らされます。映像記録も貴重ですが、こうして活字で残されるとさらに意義深いと感じています。ありがとうございます。(中略)
 次回のご出版、大いに期待しております。あらためまして今回のことに厚くお礼申し上げます。コロナ感染拡大の続く折から、どうぞご健康に注意してお過ごしください。

④夫の古い友人から
 ご著作「あの戦争さえなかったら、62人の中国残留孤児たち(上、下)」お送り頂きありがとうございました。
 前にお送り頂いた「不条理を生き貫いて:34人の中国残留婦人たち」に続いてこの様な大変なお仕事をまとめられたこと、心から尊敬の念をいだきます。
 高柳先生の「推薦の言葉」を拝読し改めて藤沼さんのお仕事の意義の重さを知りました。
お体に気を付けてこの大切なお仕事を続けられるようお祈りいたします。
末筆ながらHさん(夫)によろしくお伝えください。
長野にお出での節はお声掛けください。Hさんにもお会い出来ればうれしいです。

⑤協力者から
 昨日、本が届きました。ありがとうございます。
つい、いろいろ見てしまいまして、返事が遅くなって申し訳ありません。
 私が無理を言った地図なども載せていただきましてありがとうございます。最初のに比べれば、随分良くなっていると思いました。自分なりにいろいろ工夫されたようで、苦労の跡が忍ばれました。なんだか、動画を一生懸命観ていたのが、すごく遠い夢のような感じがします。この本の意義は、日本語もうまく喋れない中国残留孤児の方々が、意に添わないまま行った中国では、地獄のような現実の中、置き去りにされ、いじめに耐えながら、やっとの思いで、帰国した祖国は、冷たい対応で、満州の出来など誰も知らず、戸籍があっても中国人扱いされ、言葉の問題から、自分たちの思いを言えないまま、日々の生活に追われ、年月だけ過ごしてきたのでしょう。だけど、今の日本の様子を見るにつけ、自分たちの二の舞をさせたくないと切実に思われたはず。今まで隠したかった事も明らかにして、これまでの思いを話してもらえたと思います。体験談だから、重みが違いますね。藤沼先生がこの仕事をされたのは運命ですよ。先生も大変だったと思いますが、この本を手にされた方々は、心底ほっとされたと思います。心が少し楽になったことでしょうね。先生はそのお手伝いをされたのです。長い間、よく頑張ってこられたと思います。また、御家族の御協力もいかばかりだったろうとお察しいたします。私が関わったのはほんの少しですが、いい仕事をさせて頂いたと感謝してます。
 まだまだ、先は長いでしょうが、道はもう半ばです。もう少し、体と相談しながら、最後までぜひやり抜いて下さい。影ながら、応援しております。必要な時はいつでもお声かけ下さい。
どうぞくれぐれも御自愛下さいませ。

⑥団体から
「あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち (上)、(下)」拝受いたしました。200人前後に及ぶ在留邦人等に対するインタビューをされたご尽力に心から敬意を表します。
 まだ、上巻の途中までしか読み進んでいませんが、過酷な人生を体験された方々の悲痛な思いが胸に迫ります。
 自国の負の歴史に目を背ける私たち日本人に貴重な教材です。
私は、引揚者ではありませんが日本最大の引揚げ港を持つ福岡市民が、その歴史を記憶に留めていないことから、1992年から博多港に引揚モニュメントの建立や引揚資料館の開設等を求めて運動を進めてきた「引揚港・博多を考える集い」のお世話をしてきました。
 96年に引揚モニュメント「那の津往還」は実現しましたが、資料館については福岡市の施設のコーナーにミニ展示場を設け、収集している2600点余の引揚資料のうちわずか120点を展示しているにすぎません。
 今後は、福岡大空襲(1945年6月19日)や広島・長崎の原爆、さらに植民地支配や侵略戦争など負の歴史もしっかりと見据えた平和資料館の建設を、有志の個人や団体の方々と共に進めていく準備を進めているところです。
 いただいたご本は、来月3日に開く「引揚港・博多を考える集い」世話人会で皆さんにご紹介させていただきます。ありがとうございました。

⑦施設から
 『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上)(下)』のご出版、おめでとうございます。
 先ほど各10冊、計20冊、確かに拝受いたしました。貴重なご本のご寄贈をありがとうございます。Kでは何のご協力もできず申し訳ありませんが、前作も反響が大きく増刷されたとうかがっております。(中略)皆さん、藤沼さんの熱意に心を動かされ、協力されておられます。全国各地のさまざまな開拓団の方のお話しが掲載されており、参考になります。(下)の方には2000年の養父母へのインタビューもあり驚きました。ビデオテープ劣化とのことで残念でしたが、だからこそ、活字化の必要性を感じます。
 貴重な記録をありがとうございます。次作の準備に入っておられるのですね。梅雨が明けると暑い夏がやってきます。どうぞお身体に気をつけてお過ごし下さい。

⑧知人から
 昨日、ご著書、拝受しました。ありがとうございました。
 こうして立派な本を拝見しますと、ライフワークとお書きになっていたことを、はっきりと理解します。
 英語の書名もお入れになったのを拝見し、やはりこれは良かったと思います。どこでだれが見ているか、分かりませんから、外国人がこの本に到達する助けになると思います。
 お読みになっておられないと思いますが、2年半前に出した、北京を知るための52章に、戦前戦中に北京にいて、現地召集され、戦後行方不明になった人の話を載せましたが、この人の発見談でした。シベリアで亡くなっていたのでたす。
 藤沼さんの対象とされた方々とは、違いますが、大陸の日本人ということで、共通の背景も感じました。(略)


新刊『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上巻)(下巻)』(津成書院 2020.07.12)

2020年07月20日 18時11分23秒 | 取材の周辺
 この度、やっと、『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上巻)(下巻)』上梓いたしました。二冊同時というのは、校正の段階がかなり大変でした。昼も夜も寝ても覚めてもという感じで、「疲れた」が口癖になってしまいましたが、娘の前では禁句で、30連勤とか、33連勤とかしているので、「疲れた」と言うと怒られます。
 最初は1冊の予定でしたが、削ることができず、2冊になりました。それでも原稿はかなり削りました。ルビも振ることができたので、婦人編よりもかなり読みやすくなっていると思います。
 一昨日と昨日、近所の友人に手伝っていただいて、証言者・支援者・関係各機関への発送作業をしました。

 今朝は、一番に池田澄江(中国残留孤児国家賠償訴訟団長)さんから、電話がありました。続いて支援者、証言者、研究者、証言者の奥様、友人…と、献本へのお礼の電話やメールがひっきりなしにあり、対応していました。嬉しかったのは証言者の皆さんの電話です。独特の日本語で「感動した。涙出るよ」や「人生で一番のプレゼントよ」や「苦労多かったね」の慰めの言葉や、「夜寝られない(嬉しくて眠れない)」と言ってくれた皆さん。私も嬉しくてウルウルしてしまいました。皆さん本当に苦労してきた分、情が厚いのです。皆さんの言葉で、疲れも何のその、また頑張ろうという気になります。
 また、古い友人からは昨夜、面白くていっきに上巻を三分の二まで読んだと電話が来ました。前作よりも読みやすいという感想も添えて。
 もう一人の友人からは、「森本毅郎 スタンバイ!」というラジオ番組で、前作の私の本が紹介されたというお話を伺いました。ご主人様がラジオを聴いていたとのことで、詳しい内容はわかりません。残念です。どんなふうに紹介されたのか聞きたかったですが、当方には全く連絡はありませんでした。
 昨年、東京新聞に『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』が取り上げられましたら、驚くほどの反響がありました。まだまだこのような分厚くて地味な本を読みたいと思ってくださる方がいることが嬉しくて、今回の孤児編を書く上で大きな励みになりました。
 次回作、『WWⅡ 50人の奇跡の証言集』では、満蒙開拓青少年義勇軍、元軍人、従軍看護婦、満州からの早期引揚者、サハリン残留邦人、台湾の元軍人等が登場します。
 JRC人文社会科学書流通センターが取次店となり、注文すれば、日本中の書店で買えるようになりました。アマゾンは当分お休みします。
 世界一小さな出版社、津成書院のこのような地味な本が、本当に読みたいと思ってくださる方の手に渡ることを願っています。
 


間もなく『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち』(上)(下)二冊、刊行。

2020年06月20日 07時12分13秒 | 取材の周辺

 コロナ禍の中、いかがお過ごしでしょうか。
 昨年7月、『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』を書きあげてから、ずっと家に籠って『孤児編』を書いていました。途中、2か月ほど、食事を作るのが面倒になって、熱海に避難しました。しかしそこでも、熱海市内に感染者が5人出たということで、食堂で食べられなくなり、お弁当になってしまいましたので、帰って来ました。

 やっと、間もなく『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち』(上)(下)二冊、出版されます。たぶん7月12日頃になるかも知れません。500ページ以上の分量の校正を二冊同時期にするので、何時とはっきり言えません。

仕上げの段階に入って、図書館が使えない、調べ物ができないというアクシデントに見舞われましたが、何とか初稿まで漕ぎ着けました。

今回から、(株)JRC(旧人文・社会科学書流通センター)が、発売元になって、流通を一手に引き受けてくださいます。ご不便をおかけいたしましたが、どこの本屋さん、生協からでも注文できます。
一冊目の『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』も、同様の扱いになります。

また、昨年、各都道府県立図書館にはすべて献本しましたが、すべての図書館で蔵書扱いをしてくれていません。どこかに眠っているようです。
どうぞ、是非地元の図書館に、一冊目の本も含めて、発売前からリクエストしてくださいますようお願いいたします。そうすれば利用者の目から消えてしまうことはなくなるように思います。

今回は(上)に法政大学教授 高柳俊男先生が、推薦の言葉を書いてくださいました。読みながら泣いてしまうほど身に余る推薦の言葉をいただきました。また、(下)には、飯田日中友好協会理事長で歌人の小林勝人さんが、これまでの飯田日中友好協会の活動とご自身の活動をまとめた文章を、こちらの依頼に対して寄稿してくださいました。この文章を読むと、これまでの飯田に限らず長野県の中国残留邦人に対する取り組み、姿勢がよくわかります。

目次は以下の通り。
あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上)
                   ―北海道・東北・中部・関東編―
はじめに              
推薦の言葉           高柳敏男(法政大学教授)
 第1章 北海道(7人) 
 証言1 國井榮治さん(花園開拓団)       
 証言2 仲野嗣男さん(開拓団名不明)    
 証言3 林 文雄さん(開拓団名不明)    
 証言4 仲野繁郎さん(開拓団名不明 )              
 証言5 木口屋菊夫さん・桂子さん(開拓団名不明)           
 証言6 木村京子さん(開拓団名不明)    
 証言7 高島久八さん(南靠山屯開拓団)              
 《証言の背景》              
第Ⅱ章 東北(9人)            
 証言8  浅黄 勉さん (北靠山屯村山開拓団)              
 証言9  浅黄千代子さん(南都留郷広富山開拓団)           
 証言10 笹原キヌコさん(大平山開拓団)           
 証言11 佐藤安男さん (板子房開拓団)           
 証言12 高橋令子さん (北五道崗山形郷開拓団)           
 証言13 伊藤伝助さん (北靠山屯村山開拓団)              
 証言14 伊藤満子さん (開拓団名不明)           
 証言15 寺崎平助さん (九江神奈川開拓団)    
 証言16 手塚智恵子さん(開拓団名不明)           
 《証言の背景》              
第Ⅲ章 中部(18人)      
 証言17 勝元桂子さん、浩さん(石川県 白山郷開拓団)              
 証言18 島田登美子さん(山梨県 父は軍人)    
 証言19 池田忠さん(仮名 山梨県 日高見開拓団)       
 証言20 北原美智子さん(水曲柳開拓団)           
 証言21 高島金太郎さん(大八浪泰阜村開拓団)              
 証言22 池田 肇さん (大八浪泰阜村開拓団)              
 証言23 宮沢順子さん (大八浪泰阜村開拓団)              
 証言24 牧 國子さん (大八浪泰阜村開拓団)              
 証言25 松原喜美江さん(中和鎮信濃村開拓団)              
 証言26 牧内春重さん (濃々河飯田郷開拓団)              
 証言27 多田清司さん (新立屯上久堅村開拓団)           
 証言28 小石峰幸男さん(新立屯上久堅村開拓団)           
 証言29 松下トシさん (新立屯上久堅村開拓団)           
 証言30 江本三男さん (小古洞蓼科郷開拓団)さん       
 証言31 横田花子さん (苗地伊南郷開拓団)    
 証言32 井原澄子さん (北哈嗎阿智郷開拓団)              
 証言33 丹羽千文さん (新立屯上久堅村開拓団)           
 証言34 澁谷幸子さん (東横林南信濃郷開拓団勤労奉仕隊、未認定残留孤児)       
 《証言の背景》
第Ⅳ章 関東(6人)        
 証言35 山田正宏さん (小八浪中川村開拓団)              
 証言36 斎藤ヨネ子さん(小八浪中川村開拓団)              
 証言37 萱沼康晴さん (南都留郷開拓団)       
 証言38 高橋秀哉さん (父親は軍人)              
 証言39 大友愛子さん (南靠山屯開拓団)       
 証言40 池田澄江さん (父は軍人)    
 《証言の背景》              

あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(下)
  ―関西・山陽・四国・九州・沖縄・中国の養父母編―
はじめに
寄稿  「伊那谷の中国帰国者とともに」    小林 勝人(飯田日中友好協会理事長・歌人)           
第Ⅴ章 関西(4人)        
 証言41 奥山朋子さん(内モンゴル自治区ハイラル市)奈良県        
 証言42 奥山イク子さん(北靠山屯村山郷開拓団) 京都府 
 証言43 村田日出子さん(廟嶺開拓団) 京都府 
 証言44 林 千鶴子さん(廟嶺開拓団) 京都府 
 《証言の背景》 
第Ⅵ章 山陽(3人)        
 証言45 冨樫ムツ子さん(大田開拓団) 広島県   
 証言46 高杉久治さん(七虎力開拓団) 岡山県 
 証言47 重山 厚さん(七虎力開拓団) 広島県
《証言の背景》 
第Ⅶ章 四国(4人)        
 証言48 高橋公子さん(柞木台土佐郷開拓団)高知県        
 証言49 小原茂さん (柞木台土佐郷開拓団 高知県
 証言50 大西慶子さん(開拓団名不明)香川県    
 証言51 中野ミツヨさん(江川崎開拓団)高知県 
 《証言の背景》 
第Ⅷ章 九州(5人)        
 証言52 原田育子さん(黒頂防長開拓団) 福岡県            
 証言53 川添緋沙子さん(軍事郵便局) 福岡県   
 証言54 木村琴江さん(開拓団名不明) 福岡県   
 証言55 井出誠介さん(興農合作社)熊本県        
 証言56 庄山紘宇さん(父は県庁事業課)熊本県 
 《証言の背景》 
第Ⅸ章 沖縄(5人)       
 証言57 上間敏正さん(今帰仁開拓団) 
 証言58 島尻昇一さん(伊漢通開拓団) 
 証言59 伊波盛吉さん(伊漢通開拓団) 
 証言60 平得永治さん(台北生まれ)    
 証言61 宮里竹子さん(臥牛吐開拓団) 
 《証言の背景》 
第Ⅹ章 日本に帰らない選択をした人           
 証言62 王 振山さん(瀋陽市)           
 《証言の背景》 
第Ⅺ章 中国の養父母       
 証言63 中国の養父母  白 淑雲さん(撫順市)            
 証言64 中日友好楼に住まう7人の養父母たち(長春市) 
 《証言の背景》 
おわりに 
謝辞       
著者のプロフィール           


お尋ね:昭和21年冬、大連港から高砂丸で一緒に引き揚げてきた山下さんを探しています。

2020年05月20日 23時56分17秒 | 取材の周辺
 私のホームページに、「大連引揚船の船名」というお便りがあり、何度かメールのやり取りをして、実は、小久保さんという方が、昭和21年冬、大連港から高砂丸で一緒に引き揚げてきた山下さんという方、三兄弟を探しています。

「大連では日本人は一人畳一畳が割り当てられた収容所と言うかアパートに収容され、そこで山下さんご夫婦とは一緒でした。 ご夫婦は現在は生きていたとしても100歳は過ぎていると思います。そのアパートは確か大連の朝日町とか言う街にあったと思います。 ヒロシは長男で、ヒデオは次男、ススムは3男、あと一人弟が居ましたが名前は記憶しておりません。 そのアパートからソビエト軍の監視下で、大連港から高砂丸で長崎に着きました。そこからどさくさの色々な経緯がありましたが、 山下さん家族と引揚列車に乗り、岡山の山下さんの親戚の家にしばらく逗留し、その後、大阪の山下さんの家に短期逗留しました。山下さんは大阪の人だと思います。私の記憶するかぎり彼らは標準語を喋っておりました。 私は当時小学校1年か2年生であったと思います。私はヒロシと親しくしておりました。彼は中学生であった思います。」

たぶん三兄弟も80代になられていると思いますので、インターネットに繋がっている可能性は低いと思われます。しかし可能性はゼロではありませんので、どなたか心当たりのある方は、ご一報くださいませ。

失礼ながら超多忙につき、ご本人の許可を得て、詳細はいただいたメールとそれへの返信をそのままコピペします。

①メッセージ: 恐らく昭和21年に大連港から確か引き揚げてきました。引揚戦の名称は失念しました。
長崎の佐世保港に上陸し、すぐに熊本の収容所に収容され、名古屋の親戚に保護されれました。 遠い記憶によれば満州里からハイラル、新京、奉天、大連と脱出して来たようで途中岡山、大阪、 東京とたどり着き名古屋で親戚の家に保護をされました。確か弟がいたようですが、今は記憶にあ りません。昭和21年冬だと思いますが、引揚船名前を知りたいのですが、同船していた 山下さん言う方を50年探しております。もうお亡くなりになったともいますが、藁を掴む思いで お便りをしております。 前田一
②返信:




前田様
メッセージありがとうございます。大変なご苦労をなさいましたね。開拓団で行っていらしたのですか?
大連港からですと、ネットで調べて以下の引揚船の名前が挙がりました。
第一次大連引揚船の船名(五十音順)お よび運航便数 雲仙丸 3 回、永徳丸 5 回、永禄丸 4 回、 英彦丸 4 回、栄豊丸 3 回、遠州丸 3 回、 恵山丸 4 回、信濃丸 6 回、信洋丸 2 回、 新興丸 3 回、宗谷丸 1 回、高砂丸 4 回、 辰春丸 2 回、辰日丸 3 回、第一大海丸 4 回、大久丸 3 回、大瑞丸 3 回、大郁丸 2 回、長運丸 3 回、日王丸 1 回、白龍丸 1 回、北鮮丸 3 回、間宮丸 1 回、明優丸 3 回、弥彦丸 3 回、米山丸 2 回 以上、延べ 26 隻/76 便で
この中にあればいいのですが。また、山下さんの故郷とか、下のお名前とか、乗船年月日とか、もう少し詳しい情報がわかれば、インターネットに投げかけてみるのもひとつの方法かもしれません。
ではまた。何かお役に立てることがあったらご遠慮なく、協力できることは協力させていただきます。
③藤沼様、
メールを有難う御座いました。
引揚船名は高砂丸でした。思い出しました。祖父の時代に渡満したらしく、私と血を分けた親族はもう居りません。私にとって満州は思い出したくない所で、記憶から排除しておりました。確か高校の頃でしたが、「アカシアの大連」とか言う小説が何かの賞を取り、そのころ確か「大連会」とか言う集まりが有った様な気がします。私は参加しませんでしたが、最近は私も余命幾ばくもなくなって来ると、妙に満州時代が思い出され、あの頃の知り合いに会えないものだろうか、とか、そのような集まりが現在でも存続しているのなら参加してみたいと思う様になりました。その様な集まりをご存知でしたらお教え頂ければ幸甚です。
山下さんの事ですが、確か3人の兄弟がおり、上からヒロシ、ヒデオ、ススムと言いました。そんな事がヒントで消息がたどれるかもしれません。ソビエト戦車隊や満人の匪賊に追われ、大連に到着した頃は街角で私と同じような子供達が売りに出されていたり、チフスで道端に倒れていたのを今でも鮮明に思い出すことが出来ます。最近までそのような記憶を忘却しようと努めた来ました。しかし今は私一人となり、寿命も尽きかけてくると死後満州の荒野に散骨でもしてもらおうかなどと冗談に考えたりしております。
色々とつまらぬ事を書き申し訳ありません。
お元気にお過ごしください。
前田一
④前田一様
もし、お差支えなかったら、私のブログやFacebook、ツイッターなどで呼び掛けてみましょうか?
ダメ元でもやらないよりはやった方が心残りはないのではないでしょうか?
乗船した頃の前田様の年齢、山下さんの年齢はおいくつでしたか。
山下さんは三兄弟のヒロシ、ヒデオ、ススム、のどの方ですか?
山下さんとどんなお話をしたか、覚えていることはありませんか?方言とか故郷のエピソードとか。
前田さんは現在おいくつでいらっしゃいますか?開拓団でしたか?
質問ばかりですみません。
ではまた。

⑤藤沼様。ご返事ありがとう御座います。       私の本名は小久保 〇と言います。前田一は偽名です。一度SNSで色々私のプライバシーが漏れ、えらく迷惑をした経験があり、現在は偽名を用いております。 引揚時期は昭和21年の冬と記憶しております。祖父は大仕立屋をしており、開拓団ではなかったと思います。当時私は小学校1年か2年であったと思います。8歳か9歳の時で、現在私の年齢は81歳です。 引揚のどさくさで、家族と離散し以後名古屋の親戚(母の姉)の家で成長しました。大連では日本人は一人畳一畳が割り当てられた収容所と言うかアパートに収容され、そこで山下さんご夫婦とは一緒でした。 ご夫婦は現在は生きていたとしても100歳は過ぎていると思います。そのアパートは確か大連の朝日町とか言う街にあったと思います。 ヒロシは長男で、ヒデオは次男、ススムは3男、あと一人弟が居ましたが名前は記憶しておりません。 そのアパートからソビエト軍の監視下で、大連港から高砂丸で長崎に着きました。そこからどさくさの色々な経緯がありましたが、 山下さん家族と引揚列車に乗り、岡山の山下さんの親戚の家にしばらく逗留し、その後、大阪の山下さんの家に短期逗留しました。山下さんは大阪の人だと思います。私の記憶するかぎり彼らは標準語を喋っておりました。 私は当時小学校1年か2年生であったと思います。私はヒロシと親しくしておりました。彼は中学生であった思います。彼から山本五十六元帥の話とか特攻隊の話を聞き、私も特攻隊に志願したいなどと思っていました。年下の子供に優しいお兄さんで今尚記憶に残っております。 満州は私にとっては悪夢の時代でしたが、いま私は肺癌と悪性リンパ腫に罹患し、危うく生き延びております。余命幾ばくもないと思うと満州時代も懐かしく思い出され、満州時代を肯定的な思い出としたいと思う様になりました。 又何かお便りをするかもしれません。その際は宜しくお願いいたします。これから暑くなるでしょう。お元気にお過ごしください。小久保 
⑥藤沼様、
パソコンが不調のようです。2度メールをしましたが
届いておるでしょうか?
⑦小久保 〇様
大丈夫です。届いています。
よくぞ生き抜いてここまで。
ご苦労を察するに余りあります。
日本に帰ってからも、必死で生きていらしたのですね。
三兄弟を探しているということを、SNSに投げかけてみましょうか?
小久保さんの下のお名前は書かず、小久保とだけ書いたらいかがでしょうか?
以前、同じような依頼があり、SNSに投げかけたことがあります。ストライクゾーンではなかったけれど、近い人が見つかり、メールのやり取りをしたようでした。
私は川越に住んでいます。今、「残留孤児編」を書いていますが、7月には出版予定です。その後でしたら少し時間も取れますので、もし、そんなに遠くなかったら、よかったらインタビューさせていただけませんか?『WWⅡ 先の戦争に繋がる51人の奇跡の証言集』という本を出す予定なのですが、これまで経験してきた引揚げの事など、話していただけないでしょうか?本は、ほぼ80%書けています。参考までに以下に目次を貼り付けます。ここに小久保さんの証言を追加し、『52人の、、、』となるわけです。国から意図的に満州が隠されているように感じられてなりません。もし、ご自分の経験を後世に伝えたいという思いがおありでしたら、ご一考くださいませ。
目次には覚書メモのようなものが紛れていますが無視してくださいませ。(省略)
⑧藤沼様、
ご返事が遅くなりました。私は年でもあり、パソコンのskillは大変貧しくfacebookやSNSでの捜索はお任せいたしますので宜しくお願い致します。
ただ、もう私の記憶もあいまいとなり、ポツリポツリで連続性がありません。かなり断片的です。例えば、無蓋列車に乗っていた時、突然満人か支那人の襲撃を受け、その時は必ず女性が襲撃され、凌辱されるのを見ているしかなかったとか、何処の土地かは忘れましたが、軍隊多分、八路軍ではなく国民軍の収容所に拘束されているとき、日の丸の鉢巻を巻き白線の入った学生帽を被った学生が「皆様私たちは表門を突破いたします。その時に裏門から脱出してください。皆様の無事祖国への御帰還をお祈り致します」と言って正面を突破して行ったのは鮮明に覚えています。後でその人達は大連一中か、奉天一中か新京一中かは忘れましたが、兎も角中学校の4年の生徒だと聞きました。以後の私の人生に大きな影響を与えた出来事でした。多分大連に入って一応安全な収容所に居たとき、何処かそこのお姉さんがこれを飲んだらすぐ死んでしまうのよ、と言って小さな小瓶を見せてくれました。赤い粉末で、あとで青酸カリだと言うのは聞きましたが、当時甘いものに飢えていた子供には砂糖のような気がして、私は舐めてみたいと本気で思いました。いまから思えば高等女学校の生徒さんだと思います。自決してしまったのか無事帰還できたのかは分かりませんが、この出来事も以後の私の生き方に大きな影響を与えました。等々断片的な記憶で、繋がりがありません。藤沼様のインタビューを受ける価値があるのかどうか、私には分かりません。それでも宜しければご連絡下さい。
何れも負の記憶ばかりですが、満州時代を生き抜いたと言う事実は戦後を生き残るための大きな力になったと言う事は間違いなく、何とか正の記憶に転換すべく
努力しているところです。
つまらぬことを沢山書きました。
間もなく梅雨に入ります。お元気にお過し下さい。
小久保 
⑨小久保様
メールありがとうございました。
満州国という、いわば現在の歴史史観からすれば、負の遺産である中を生きてきて、おぞましいことも見聞きしてきて、その現実を肯定できないようなこともたくさんあったかも知れません。
これまで親しい紹介者がいて、それでもインタビューできなかった方々は、口を揃えて「満洲のことは忘れた。思い出したくない」と言い、頑なに口を閉ざしています。 私のような若輩者が言うことではないのですが、誰かにすべて話してしまったら、どこかでその記憶が塗り替えられる(変化する)のではないかと思うのです。話しながらひとつの出来事を違う視点で見られるとか、そのようなことがもしかしたら起きるかも知れません。それが自己認識の変化になり、自己肯定感に繋がるかも知れません。
反対に、満蒙開拓義勇軍で満州に行っていらした方の中には、非常に自己肯定感が強く「素晴らしい青春だった」と語る方もいます。ご自身の中に加害者意識は微塵も感じられない方もたまにいらっしゃいます。
どのように歴史の中を歩んできたのか、人それぞれで否定はできませんが、興味深いです。
脱稿したら、是非、お話を伺わせていただきたいと存じます。
コロナ禍の中、くれぐれもご自愛くださいませ。
藤沼敏子

薔薇の香りに包まれて

2020年05月16日 14時05分22秒 | 薔薇
 しばらく留守にしておりました。主なき間に、薔薇は盛りを迎えていました。
毎年恒例の友人たちを招いてのお茶会を三々五々して来ましたが、今年は残念ながらできません。それで、親しい友人に、留守でも庭に入って薔薇を摘んで行ってとメールしたところ、「大きな目立つ枯れ枝があったので、取っておいた。ついでに少しだけ草取りもしておいた」とのありがたいメールが返って来ていました。それがこの枝。イングリッシュローズのモーティマー サックラーです。紙切り虫が入り込んで、瀕死の状態です。





「人と会ってはいけない」と、国から号令をかけられ、不要不急の外出は避けるようにと言われておりますが、私の場合、もうずいぶん前から引きこもりを続けているので、何の変化もないのですが、後期高齢者グループの友人知人たちは、年ごとに少なくなっているので、ここで1年会わないと、高齢ゆえに元気だろうかと気を揉むことが多く不安が増幅します。会って他愛無い世間話をするだけなのに、会えないことの頼りなさ、漂流感のようなものは何なんでしょう。
例えば古い友人の Iさんご夫妻と会うことで私は自分を確認しているような気がしますけれど、それができないからでしょうか。

 まったく手入れをしない薔薇たちですが、健気に今年も咲いてくれましたので、紹介します。庭に来られない友人たちには写真を見て頂ければと思います。

これは、ルージュ ピエール ド ロンサールの咲いているところと蕾。雨の多い年だと、蕾のままで長くおりまして咲かずに枯れてしまいます。

ミニ薔薇のさおり

紫玉



名前を失念 古い古いイングリッシュローズ


もっとも古いイングリッシュローズの名花 グラハム トーマス


シティー オブ ヨーク


ピエール ド ロンサール

フランソワ・ジュランビル 
とても丈夫で長く伸びます。蕾も可愛いです。


後は庭の風景



































一日も早いコロナの終息を願いつつ。


本の購入方法が増えました。

2019年12月30日 23時09分11秒 | 取材の周辺
 世界一小さな出版社、津成書院は出来たてほやほや。出版した本はまだ1冊だけ。取次店も相手にしてくれません。
 そこで、アマゾン以外の販売方法を模索していたのですが、郵便局の郵便振替で買えるようになりました。郵便振替番号 00230-8-107058 津成書院。通信欄に住所、氏名を記入し、2,500円(送料込み)を振り込んでください。通常ですと1週間以内に発送いたしますが、例年、冬休み、夏休みを1か月半ほど取ります。
 津成書院のホームページでご確認ください。

https://kikokusya.wixsite.com/website


本日の東京新聞に『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』(津成書院)の紹介記事が載りました。

2019年12月22日 15時03分59秒 | 取材の周辺
 本日の東京新聞に『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』(津成書院)の紹介記事が載りました。
 法政大学の高柳俊男先生が新聞社に推薦してくださり、取材に至った経緯があります。
 川越支局の中里記者からメールでお知らせを受けていたので、親しい人にはメールしておいたのでした。
 早朝6時、叔母から電話があり、記事が大きく載っているとのこと。叔母の声は泣き声でした。ここのところつらいことがあったので「嬉しいことがあったら10倍喜ぼう」の約束通り、叔母はとても喜んで販売店に電話をし、なんと30部も取り置いてもらったとのこと。
 家族の反応は、写真を見て「老けたねぇ、お婆さんみたいだ」と。中里記者が写真を何枚も撮ってくださった帰り際に、壁に飾ってあったたくさんの家族写真の中の20代の写真を指差し「この写真はどお?」と言ったら、まじめに「それはダメです」と断られました。残念!

 続編を書くことに多くの時間をとられ、様々な雑事がおろそかになっています。『孤児編』では、『婦人編』のガサツさを払拭し、少し丁寧に仕上げたいと思っています。『WWⅡ証言編』も首を長くして待っていてくれる証言者の皆さんの催促に、謝罪ばかり。急がなくてはなりません。
 この記事を励みにいっそうやるべき仕事に邁進します(私のペースで)。