「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」ゲストブック&ブログ&メッセージ

左下のブックマークをクリックするとホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」にアクセスできます。

山形取材報告

2016年11月22日 23時30分02秒 | 取材の周辺

 

 

 

 

 10月30日(日)から、11月5日(土)まで、山形に取材に行って来ました。北陸取材の報告もまだでしたが、山形に雪が降らない内に取材に行きたいと思い、急いだのでした。山形に近づくと高速道路上からは、まさに錦繍の山々が広がって、幸福感に浸りながら山形入りしました。
支援者・協力者に恵まれ、11人の方にインタビューすることができました。まだお礼状も出していないのに、お土産にいただいたおみ漬け、つや姫に頬を膨らませ、山形の人々の温かさを味わっているところです。特に、「平和の碑 中国残留帰国者墓苑建設委員会」の事務局長 高橋幸喜様、奥様には大変お世話になりました。ご自宅にお招きいただき、芋煮のお昼御飯をご馳走になりました。帰国者が持ち寄ってくださった餃子と共にいただく芋煮は最高でした。どんなレストランよりも美味しかったです。大変有り難く、この場を借りてお礼申し上げます。また、様々な制約の中、県の担当者様、関係者様には多くのご教示、ご協力をいただきました事、大変有り難く感謝申し上げます。 


 時間に余裕があったので、県立図書館で古い開拓団の資料や郷土史、自費出版された体験記などを探すこともできました。同行の夫と共に、斎藤茂吉記念館をたっぷり楽しみ、蔵王連峰のロープウエイにも乗り、中腹の紅葉や、山頂の雪景色も楽しんできました。充実した滞在でした。

 昔から、数年に一度、扁桃腺が腫れて発熱し、寝込むことがありました。山形から帰って、喉の痛みがあり、ルゴール液でうがいを続けていたのですが、ついに1週間ほど寝込んでしまいました。これまでの経験上、扁桃腺が腫れて発熱するのは決まって、ストレスや難題に悩まされている時でした。1週間寝込んでいる間に、別の視点でものが見られるようになったり、悩みそのものが消えていたりするのでした。熱は下がり、平常どうりの生活に戻ったのに、まだどこか上の空で、依然としてその問題は消えたわけではなく、ぼんやり漂っています。
 インタビュー内容をそのまま公開してしまっていいのだろうか。という疑問。「NO.28さん」からは、失言2点を削除してほしい旨、連絡をいただきました。ピーを入れたりという編集作業はしたことがないのですが、頑張って勉強し、取材を受けてくださった方の意向に沿うように、2点を直さなければなりません。公開はその後になります。
 これまでも公開できないインタビューは数件ありました。例えば、ご本人(残留婦人)は強い公開の意志(大勢の人に聞いてもらいたい)を持っているのですが、息子さんは、「その証言で近所の人が文句を言ってくるかもしれない。町の広報誌に満州の事を書いたら、それだけで○○さんが押しかけてきた。」と、インターネット公開には反対でした。貴重なお話だっただけに私としては残念でしたが、息子さんのお気持ちは十分理解できます。また、残留婦人の公開したい思いはもっと理解できます。時間が経ってから息子さんに再度お願いをしてみようと思い、保留になっております。また違う例、「アさん」の場合で言えば、団長さんが集団自決を先頭だって指揮して約60名が亡くなった。ご自分のお母さんも目の前で団長さんに斬り殺された。弟を負ぶって、畑に逃げる途中、「ズドン!」とやられ、目が覚めたら、弟の頭は無くなっていた。中国人養父母に助けられて暮らしていると団長さんが「日本に帰ろう」と迎えに来た。また殺されると思って泣いて養父母にすがりついて残留孤児になった。このお話も事実ではありますが、団長さんのご遺族が聞いたらつらいのではないかと思う。
 ひとつひとつ指摘しきれないくらい関係者に聞かせたくないお話は、正直たくさんある。そのひとつひとつに理由があり反論があるかも知れない。インタビューの前に、インターネットで公開するという事の説明をし、「誰に聞かれてもいい話をしてください。後で苦情が来ると困りますから。」と、冗談めかして注意を促すお話をする。しかし、インタビューが始まると、ほとんどの方はそのことを忘れてしまうようだ。

 今回のケースでは、本人はこのまま実名で公開してほしいという希望を強く持っている。しかし、親族間の問題があからさまになってしまう。編集作業である程度軽減できても、全体像は変わらない。彼は、これまでも積極的にあからさまにしてきた。例えば、山形で映画「嗚呼、満蒙開拓団(羽田澄子監督)」が上映された時、ご自分のこれまでの詳細を書いた冊子を配ったりしている。「悔しくて山形の人に知ってもらいたかった」と。だからいいではないか、とも思う。彼等親族間の事は山形では公知の事実なのだから、と。本人も本名での公開を強く望んでいる。しかし、もし、反論があるなら、両方を掲載しなければ不公平な気もする。
 インタビューを聞き返してみて、私の態度がとても気にかかった。彼の話に寄り添い過ぎて客観性を失っている。怒っている。例えば、彼が半年間、東京の塗装業(壁塗り)の現場仕事に従事した時の話。仕事が終わって帰る時、頭の奥さんが預かってくれていたパスポートを「30万円よこさないと返さない」と言ったという。仕方がないので払ったと。話を聞きながら私は怒っていた。「帰国直後で日本語もわからない。右も左もわからないのに、騙すなんてひどい。同じ山形の人なのに悪徳ブローカーもいいところ。酷い!」と。しかし、この話を聞き返してみると、30万円はもしかしたら半年間の住居費及び食費として請求されたものが、日本語がわからない為に理解できず、「30万円払わないなら、パスポートは返さない」という理解になっていたのかも知れない。可能性としては否定できない。そこで、電話で本人に確認してみた。すると、食費などは別に払ったとの事でした。帰国直後でパスポートの再発行ができることも知らず、彼らに従わなければ、ひとりで山形に帰ることもできない状況下では、悔しくても従わざるを得なかったようでした。
 冷静にインタビューできていたら、後で電話で確認する必要もないものを、と反省しました。

「No.28さん」は養父母が1日に小さなモロコシパン2個しかくれず、毎日家畜の世話に明け暮れ、お腹が空いてお腹が空いて、ネズミや蛇、スズメ、蛙など、何でも食べたとの事でした。零下30度の真冬には、寝る時は豚2頭の間に納まって寝たとの事。もし10歳の私なら、、、と、考えると情けない。彼女はそんな私の気持ちを見透かしたように、「それが嫌なら、自殺するしかない。私はネズミを食べて生きてきた。」と。また、「NO.32さん」は、とつとつと話される話の中に「収容所にソ連兵が来て、5人の女性を連れて行った。その中に20歳の姉もいた。2日後に死んだと聞かされた。」と。私は胸が痛くなった。その方は、10代の頃、方正の収容所でその事を見聞きし、70年間その記憶と共に暮らしてきたのだ。また、No.29さんは「12人の強制帰国」メンバーのお一人。残留婦人固有のご苦労が多々あったことと思います。もう少し早くお話が伺えたら、また違った内容のインタビューになっていたかも知れません。そして、No.32さんは、幼少期、養父に毎日叩かれ、泥棒をさせられていた。白さんと出会い、そんな生活から救ってもらった。No.36さんは、帰国直後、15歳を頭に4人の子供がいた。地元の学校に入学手続きに行くと「言葉がわからない。教える先生がいないから、受け入れられない。」と、断られた。そ、そんな事があるの?あっていいの?私はアタフタしてしまった。子供たちは家でぶらぶらしていて、4か月後に新たな土地に引越しをし、そこの校長先生が満洲帰りで少し中国語もわかり、熱心に日本語の指導をしてくれたとの事でした。運よくその校長先生と出会えて本当によかった。帰り際にはいつの間にか家族全員揃っていて見送ってくださり、「ずっとずっと誰かに言いたかった。聞いてもらいたかった。胸がすーとした。」と話され、感激屋の私は嬉しくて泣きそうでした。庭の柿を採ろうとしましたが、それは断り、奥様手作りのおみ漬けのお土産をいただいて帰りました。皆さん、ありがとうございました。