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本日の日経新聞文化欄に記事が掲載

2022年09月15日 23時30分59秒 | 中国帰国者
本日の日経新聞文化欄に記事が掲載されました。
以下は日経新聞のウェブサイトです。

普段は、私のホームページ「アーカイブス中国残留孤児・残留婦人の証言https://kikokusya.wixsite.com/kikokusya」の閲覧数は4.5名なんですが、今日はたった一日で、350人越えです。

本はともかく、生の声を聞いてください。
記事に出てきた鈴木サダさんは、Eさん。以下のアドレスです。最初にまず、聡明で強烈な個性が光る鈴木サダさんから。彼女が語らなかった艱難辛苦に思いを寄せて。

中島千鶴さんは、Hさん。以下のアドレスです。

佐藤安男さんは、No.31さん。以下のアドレスです。

一日に1人の方のお話を聞くだけで、精一杯。聞いた後は、その方の人生に思いを巡らし、ぼんやり考えながら一日が終わります。
興味を持っていただけたら、ゆっくり時間をかけて聞いてみてください。せっかちな方は、やはり本の方が早いです。お近くの書店に注文するか、図書館で借りて読んでくださいますように。たくさんの図書館に寄付いたしましたのでお近くの図書館にリクエスト申し込みしていただけましたら、地元の県立図書館などから取り寄せてくださると思います。





「NPO中国帰国者の会」企画の写真展が2月19日から21日まで開かれる

2021年02月09日 11時50分15秒 | 中国帰国者
昨日の東京新聞「こちら特報部」の記事。

 昨日、新聞を開くと、中国帰国者の会の創設者であり、長年、会の代表を務めてこられた鈴木則子さんの写真が目に入った。長年、会の事務局長を務めてこられて若くして急逝された長野浩久氏の紹介で、何度かお会いさせていただきました。彼が司会を務めた新年会にも参加させていただいたことがありました。
 慈愛に満ちた眼差しで私の話を聞いてくださり、私に欠落していた視点をアドバイスしてくださった。それから数年後に、残留孤児の国家賠償訴訟の先行裁判としての残留婦人裁判を模索している時、庵谷磐さんから、埼玉の「紅梅の会」の「村上米子さんを連れて来て。皆で一度会いましょう」と、言うことになった。この時には、鈴木則子さんも村上米子さんも杖を突いていて、かなり体力の衰えは見られたが、知力・気力とも充実していて、話が尽きることはなかった。
 最終的に、東京都の残留婦人の国家賠償訴訟ということで裁判方針が決まったようだった。
 鈴木則子さんは、日本に帰国したくても帰国できない残留孤児たちに絶えず心を砕き、中国東北部で日本への帰国を待つ孤児たちのために日本語教室を開き、身元引受人を探し、国がやらない帰国後の問題にも個別に対応してきた。80年代、90年代には、それを支える高齢のボランティアも多数存在していた。長野さんから聞いたひとつのエピソードを思い出す。帰国者のボランティアに熱心な方が帰宅すると、家から締め出されて入れない。そこで庭の柿の木を登って家に入ろうとしたが、枝が折れ落下。それが元で亡くなったと。このエピソードももう誰も覚えていないのかも知れない。
 鈴木さんの人望に支えられて「中国帰国者の会」を支えた高齢ボランティアの存在も忘れてはならないと思っています。
 鈴木さんの歴史を見る目、さまざまな状況を俯瞰し、目標に向かって効果的な対処法を編み出す力は素晴らしかった。それを実践面で支えた長野浩久さんの行動力も素晴らしかった。お二人の話をもっともっと聞いて置くべきだったのに。
 フォトジャーナリストの山本宗補さんは、長野県御代田出身とのこと。二十数年前に、御代田に住む中国帰国者にインタビューしました。当時のビデオテープが癒着のため復元できず、残念でなりません。訪問すると庭の井戸でトマトを洗っていた。声をかけると手を休めることなく振り向いてくれた。その一瞬の不可思議そうな表情が、私の思い出写真館に今もあり、いつでも思い出すことはできます。