ブログの更新をしばらく怠けている間に、季節は確実に春から夏に代わってしまいました。5月の薔薇の季節は、例年、 旧知の友人達が代わる代わる遊びに来ます。1年に1度の行事のように会う方が多いです。庭の薔薇と友人達に囲まれて賑やかに過ごしている間に、6月も中旬になってしまいました。
4月下旬に1週間ほど京都、奈良でのインタビューと、前から一度行きたかった舞鶴引揚記念館に行ってきました。その報告もまだでした。
なかなかホームページにアップロード出来ず、今になってしまいました。それとて完全ではありません。データの一部が消えてしまいました。たぶん私の誤操作によるものと思われます。SDカードがいっぱいになり、内臓メモリーに記録したつもりが、データが見つからなかったりしました。あるいはまた、インタビューが始まって直ぐ「記録容量が少ない」と言う表示が出て、新しいSDカードに換えてインタビューを始めから撮り直したにも拘らず、編集作業で本番を捨ててしまって、最初のビデオが何故か残っているという状態。または編集作業中にアップロードが終わったと勘違いして削除してしまったのかも知れません。何とか復元が出来ないものか、電気屋さんに2枚のSDカードを預けましたが、そこにはデータがありませんでした。残っているカードをすべて電気屋さんにお願いするとたいへんな金額になりそうだったので、「消失データの復元ソフト」なるものを買ってきて、1枚づつ気の遠くなるような作業を試みました。もともとパソコン操作の苦手な私は、そんな日が1週間くらい続くと、頭がモヤモヤしていろんなことが嫌になり、しばらくそのままにして置くことにしました。もう少し元気が出たら、再度挑戦してみます。このままでは取材に協力してくださった皆さんに申し訳なくて、何とかしなければ、と、思います。出来る事なら。自分の非力さに「もう限界かも」と、弱気になってしまいました。
今回の取材では、大阪中国帰国者センターの理事長を引退なさった竹川先生と奈良の竹田さんにお会いしてお話を聞くことを楽しみに、取材の中心に据えて計画しておりました。しかし、両方とも果たす事が出来ませんでした。竹川先生には、20数年前、文化庁の中国帰国者定着促進センターのプロジェクトでインタビューさせていただいたことがあります。細かなことは覚えていないのですが、破天荒で壮大な、それまでの稀有な人生経験に圧倒されたことを覚えています。全国残留孤児問題同門会の庵谷巌氏の紹介でした。今回の取材申し込み時、お忘れになっていると思い、そのことも伝えましたが、ご自分が書かれた「本を読んでもらえばわかる」とのご返事が繰り返されるばかりでした。ご本に書かれていない初期の引き揚げ支援の実態や支援団体の全国的な組織化とその終焉の経緯などについて、お尋ねしたかったのですが、頑なに断られてしまいました。当時の事を知る支援者はほとんどの方がお亡くなりになってしまいましたので、大変残念です。
*参考『帰り道は遠かった ―満洲孤児三十年の放浪―』竹川英幸著 毎日新聞社
また、竹田さんは、ご年齢を考えると健康状態も優れないかも知れないし、今回が私にとっては最後のチャンスと思って、支援者の方にかなり前からお願いをしておりましたが、残念でした。支援者の方は、「自分の責任において、手記も裁判の時の意見陳述書もホームページで公開していい。」と、おっしゃってくださったのですが、本人の同意を得ておりませんので、私にはそれもできません。しかし、彼女は非常に稀有な人生を生きて来られたので、是非多くの方に知っていただきたいと思います。満洲と朝鮮とモンゴルと日本、、、。ここに11年前の毎日新聞の記事がありますので、それを公開させていただきます。これからも、お会いできる方法を模索したいと思います。
毎日新聞 2005年8月13日の記事。以下斜字は転載
戦後60年:中国残留孤児・帰国者、竹田順子さん(64) /奈良
◇「日本人」隠し生き延びた日々
私の養父母は朝鮮族です。養母は父親を日本人に殺されたのに、私を大学まで勉強させてくれました。私が日本人なのを隠すため、朝鮮半島北部で1年暮らして言葉を覚えさせられ、延吉に戻りました。
しかし小学校の算数の時間、黒板に書かれた数字を「いち、に」と読んでしまい、先生や友達に殴られ、黒板の前に立たされました。夕方養母が迎えに来て「私が教えなかったせいだ」と、抱き合って泣きました。それから教科書を丸暗記し、名前を変え、中学卒業まで7回引っ越しました。
近くの高校に入学を許されず、3000キロ離れた内モンゴルの朝鮮族の高校へ進学し、大学で初めて中国語を勉強しました。文化大革命では、弁当も凍るほど寒い製材所で、夫と一緒に労働しました。文革が終わり、少数民族や外国人がいじめられなくなりましたが、日本人では私の仕事に差し障る恐れがあり、日中が友好関係になっても秘密にしました。
私が38歳の時、養母が半身不随になり、私の本名は「まさこ」だと初めて詳しく教えてくれました。養母は、長年枕の中に隠していた小さなスカートと、実母が託した金の指輪を渡しました。
中国には「落葉帰根」ということわざがあります。外国で暮らしても、最後は故郷で死にたいという意味です。養母は故郷の韓国・慶州に一度も帰れず、88年に亡くなりました。「日本へ帰り、本当の両親を探して生活して下さい」が最後の言葉でした。
それから日本大使館などに手紙を書きましたが、帰国は53歳の時で、家族11人がそろうまでさらに5年かかりました。三つの言葉が話せるので就職面接を受けましたが、年齢で採用されません。若ければ就職できたでしょうが、苦労をかけた養父母や夫の親を看取るまで帰れなかった。孤児は日本人なのに保証人がいなければ帰国できず、何年も待たされました。
美しい夢を描いて帰国しましたが、生活保護のため自由がなく、近所付き合いも心苦しい。裁判をしているのは、残留孤児の老後の保障が何もないから仕方なくです。残りの時間は短いですが、祖国を信じたい。肉親とも会いたいです。
【聞き手・松本博子35歳】
■人物略歴
◇たけだ・じゅんこ
終戦時4歳ぐらいで中国吉林省延吉の通訳に預けられる。64年内蒙古大卒業後、公務員に。79年、預けられた経緯を初めて聞く。93年11月帰国。現在、奈良県中国残留孤児協会長、中国残留孤児京都訴訟原告団長。
毎日新聞 2005年8月13日
竹田さん家族とは長いおつきあいになりましたが,彼女の歴史を聞くと涙なしには聞けませんが,まさに1本の映画になるドラマです。概略を話しますと
「幼い頃に朝鮮族に拾われて,その後ある別な人に(売られてと聞いた記憶があります?)その方に育てられ、その方が本当に良い人で,「お前は日本人だから」と言ってかばってくれて、中国の大学まで出してくれたそうです。大学に在学中にその養父が亡くなった時も、村長からは帰ってこいと言われたが,「帰ってこなくて良い,勉強を」をいう手紙が来たそうです。
そして同じ大学の現主人と結婚をされたそうですが,このご主人もまたすごい方です。竹田さんが,残留孤児として帰国の意思を現した時,たまたまご主人の母親が病気で竹田さんが看病をしなければならないので帰国を止められたそうですが,お母さんがお亡くなりになってから,「あのとき自分の母親の世話のために帰国させる事が出来なかったので」といって、内モンゴル自治区ハイラル市の教育長、全人代委員の職を捨てて,妻のために日本に来られました。
幼くは,朝鮮語。大学生になって中国語。50数歳になってから日本語。語学の面だけを見ても本当にご苦労があった事と思います。また,「文革時代』の事は彼らは語ってくれませんが,その時代を生き抜いてきたのはすごい事だと思います。そして、妻のために自分の地位や名誉や過去をを捨てて,日本に来られたご主人。お二人の計り知れないご苦労を思うといつも私は辛くなるとともに,日本国に対して怒りを覚えます。しかし、竹田順子さんの前を向いて生きる生き方に勇気をいただきます。