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お尋ね:昭和21年冬、大連港から高砂丸で一緒に引き揚げてきた山下さんを探しています。

2020年05月20日 23時56分17秒 | 取材の周辺
 私のホームページに、「大連引揚船の船名」というお便りがあり、何度かメールのやり取りをして、実は、小久保さんという方が、昭和21年冬、大連港から高砂丸で一緒に引き揚げてきた山下さんという方、三兄弟を探しています。

「大連では日本人は一人畳一畳が割り当てられた収容所と言うかアパートに収容され、そこで山下さんご夫婦とは一緒でした。 ご夫婦は現在は生きていたとしても100歳は過ぎていると思います。そのアパートは確か大連の朝日町とか言う街にあったと思います。 ヒロシは長男で、ヒデオは次男、ススムは3男、あと一人弟が居ましたが名前は記憶しておりません。 そのアパートからソビエト軍の監視下で、大連港から高砂丸で長崎に着きました。そこからどさくさの色々な経緯がありましたが、 山下さん家族と引揚列車に乗り、岡山の山下さんの親戚の家にしばらく逗留し、その後、大阪の山下さんの家に短期逗留しました。山下さんは大阪の人だと思います。私の記憶するかぎり彼らは標準語を喋っておりました。 私は当時小学校1年か2年生であったと思います。私はヒロシと親しくしておりました。彼は中学生であった思います。」

たぶん三兄弟も80代になられていると思いますので、インターネットに繋がっている可能性は低いと思われます。しかし可能性はゼロではありませんので、どなたか心当たりのある方は、ご一報くださいませ。

失礼ながら超多忙につき、ご本人の許可を得て、詳細はいただいたメールとそれへの返信をそのままコピペします。

①メッセージ: 恐らく昭和21年に大連港から確か引き揚げてきました。引揚戦の名称は失念しました。
長崎の佐世保港に上陸し、すぐに熊本の収容所に収容され、名古屋の親戚に保護されれました。 遠い記憶によれば満州里からハイラル、新京、奉天、大連と脱出して来たようで途中岡山、大阪、 東京とたどり着き名古屋で親戚の家に保護をされました。確か弟がいたようですが、今は記憶にあ りません。昭和21年冬だと思いますが、引揚船名前を知りたいのですが、同船していた 山下さん言う方を50年探しております。もうお亡くなりになったともいますが、藁を掴む思いで お便りをしております。 前田一
②返信:




前田様
メッセージありがとうございます。大変なご苦労をなさいましたね。開拓団で行っていらしたのですか?
大連港からですと、ネットで調べて以下の引揚船の名前が挙がりました。
第一次大連引揚船の船名(五十音順)お よび運航便数 雲仙丸 3 回、永徳丸 5 回、永禄丸 4 回、 英彦丸 4 回、栄豊丸 3 回、遠州丸 3 回、 恵山丸 4 回、信濃丸 6 回、信洋丸 2 回、 新興丸 3 回、宗谷丸 1 回、高砂丸 4 回、 辰春丸 2 回、辰日丸 3 回、第一大海丸 4 回、大久丸 3 回、大瑞丸 3 回、大郁丸 2 回、長運丸 3 回、日王丸 1 回、白龍丸 1 回、北鮮丸 3 回、間宮丸 1 回、明優丸 3 回、弥彦丸 3 回、米山丸 2 回 以上、延べ 26 隻/76 便で
この中にあればいいのですが。また、山下さんの故郷とか、下のお名前とか、乗船年月日とか、もう少し詳しい情報がわかれば、インターネットに投げかけてみるのもひとつの方法かもしれません。
ではまた。何かお役に立てることがあったらご遠慮なく、協力できることは協力させていただきます。
③藤沼様、
メールを有難う御座いました。
引揚船名は高砂丸でした。思い出しました。祖父の時代に渡満したらしく、私と血を分けた親族はもう居りません。私にとって満州は思い出したくない所で、記憶から排除しておりました。確か高校の頃でしたが、「アカシアの大連」とか言う小説が何かの賞を取り、そのころ確か「大連会」とか言う集まりが有った様な気がします。私は参加しませんでしたが、最近は私も余命幾ばくもなくなって来ると、妙に満州時代が思い出され、あの頃の知り合いに会えないものだろうか、とか、そのような集まりが現在でも存続しているのなら参加してみたいと思う様になりました。その様な集まりをご存知でしたらお教え頂ければ幸甚です。
山下さんの事ですが、確か3人の兄弟がおり、上からヒロシ、ヒデオ、ススムと言いました。そんな事がヒントで消息がたどれるかもしれません。ソビエト戦車隊や満人の匪賊に追われ、大連に到着した頃は街角で私と同じような子供達が売りに出されていたり、チフスで道端に倒れていたのを今でも鮮明に思い出すことが出来ます。最近までそのような記憶を忘却しようと努めた来ました。しかし今は私一人となり、寿命も尽きかけてくると死後満州の荒野に散骨でもしてもらおうかなどと冗談に考えたりしております。
色々とつまらぬ事を書き申し訳ありません。
お元気にお過ごしください。
前田一
④前田一様
もし、お差支えなかったら、私のブログやFacebook、ツイッターなどで呼び掛けてみましょうか?
ダメ元でもやらないよりはやった方が心残りはないのではないでしょうか?
乗船した頃の前田様の年齢、山下さんの年齢はおいくつでしたか。
山下さんは三兄弟のヒロシ、ヒデオ、ススム、のどの方ですか?
山下さんとどんなお話をしたか、覚えていることはありませんか?方言とか故郷のエピソードとか。
前田さんは現在おいくつでいらっしゃいますか?開拓団でしたか?
質問ばかりですみません。
ではまた。

⑤藤沼様。ご返事ありがとう御座います。       私の本名は小久保 〇と言います。前田一は偽名です。一度SNSで色々私のプライバシーが漏れ、えらく迷惑をした経験があり、現在は偽名を用いております。 引揚時期は昭和21年の冬と記憶しております。祖父は大仕立屋をしており、開拓団ではなかったと思います。当時私は小学校1年か2年であったと思います。8歳か9歳の時で、現在私の年齢は81歳です。 引揚のどさくさで、家族と離散し以後名古屋の親戚(母の姉)の家で成長しました。大連では日本人は一人畳一畳が割り当てられた収容所と言うかアパートに収容され、そこで山下さんご夫婦とは一緒でした。 ご夫婦は現在は生きていたとしても100歳は過ぎていると思います。そのアパートは確か大連の朝日町とか言う街にあったと思います。 ヒロシは長男で、ヒデオは次男、ススムは3男、あと一人弟が居ましたが名前は記憶しておりません。 そのアパートからソビエト軍の監視下で、大連港から高砂丸で長崎に着きました。そこからどさくさの色々な経緯がありましたが、 山下さん家族と引揚列車に乗り、岡山の山下さんの親戚の家にしばらく逗留し、その後、大阪の山下さんの家に短期逗留しました。山下さんは大阪の人だと思います。私の記憶するかぎり彼らは標準語を喋っておりました。 私は当時小学校1年か2年生であったと思います。私はヒロシと親しくしておりました。彼は中学生であった思います。彼から山本五十六元帥の話とか特攻隊の話を聞き、私も特攻隊に志願したいなどと思っていました。年下の子供に優しいお兄さんで今尚記憶に残っております。 満州は私にとっては悪夢の時代でしたが、いま私は肺癌と悪性リンパ腫に罹患し、危うく生き延びております。余命幾ばくもないと思うと満州時代も懐かしく思い出され、満州時代を肯定的な思い出としたいと思う様になりました。 又何かお便りをするかもしれません。その際は宜しくお願いいたします。これから暑くなるでしょう。お元気にお過ごしください。小久保 
⑥藤沼様、
パソコンが不調のようです。2度メールをしましたが
届いておるでしょうか?
⑦小久保 〇様
大丈夫です。届いています。
よくぞ生き抜いてここまで。
ご苦労を察するに余りあります。
日本に帰ってからも、必死で生きていらしたのですね。
三兄弟を探しているということを、SNSに投げかけてみましょうか?
小久保さんの下のお名前は書かず、小久保とだけ書いたらいかがでしょうか?
以前、同じような依頼があり、SNSに投げかけたことがあります。ストライクゾーンではなかったけれど、近い人が見つかり、メールのやり取りをしたようでした。
私は川越に住んでいます。今、「残留孤児編」を書いていますが、7月には出版予定です。その後でしたら少し時間も取れますので、もし、そんなに遠くなかったら、よかったらインタビューさせていただけませんか?『WWⅡ 先の戦争に繋がる51人の奇跡の証言集』という本を出す予定なのですが、これまで経験してきた引揚げの事など、話していただけないでしょうか?本は、ほぼ80%書けています。参考までに以下に目次を貼り付けます。ここに小久保さんの証言を追加し、『52人の、、、』となるわけです。国から意図的に満州が隠されているように感じられてなりません。もし、ご自分の経験を後世に伝えたいという思いがおありでしたら、ご一考くださいませ。
目次には覚書メモのようなものが紛れていますが無視してくださいませ。(省略)
⑧藤沼様、
ご返事が遅くなりました。私は年でもあり、パソコンのskillは大変貧しくfacebookやSNSでの捜索はお任せいたしますので宜しくお願い致します。
ただ、もう私の記憶もあいまいとなり、ポツリポツリで連続性がありません。かなり断片的です。例えば、無蓋列車に乗っていた時、突然満人か支那人の襲撃を受け、その時は必ず女性が襲撃され、凌辱されるのを見ているしかなかったとか、何処の土地かは忘れましたが、軍隊多分、八路軍ではなく国民軍の収容所に拘束されているとき、日の丸の鉢巻を巻き白線の入った学生帽を被った学生が「皆様私たちは表門を突破いたします。その時に裏門から脱出してください。皆様の無事祖国への御帰還をお祈り致します」と言って正面を突破して行ったのは鮮明に覚えています。後でその人達は大連一中か、奉天一中か新京一中かは忘れましたが、兎も角中学校の4年の生徒だと聞きました。以後の私の人生に大きな影響を与えた出来事でした。多分大連に入って一応安全な収容所に居たとき、何処かそこのお姉さんがこれを飲んだらすぐ死んでしまうのよ、と言って小さな小瓶を見せてくれました。赤い粉末で、あとで青酸カリだと言うのは聞きましたが、当時甘いものに飢えていた子供には砂糖のような気がして、私は舐めてみたいと本気で思いました。いまから思えば高等女学校の生徒さんだと思います。自決してしまったのか無事帰還できたのかは分かりませんが、この出来事も以後の私の生き方に大きな影響を与えました。等々断片的な記憶で、繋がりがありません。藤沼様のインタビューを受ける価値があるのかどうか、私には分かりません。それでも宜しければご連絡下さい。
何れも負の記憶ばかりですが、満州時代を生き抜いたと言う事実は戦後を生き残るための大きな力になったと言う事は間違いなく、何とか正の記憶に転換すべく
努力しているところです。
つまらぬことを沢山書きました。
間もなく梅雨に入ります。お元気にお過し下さい。
小久保 
⑨小久保様
メールありがとうございました。
満州国という、いわば現在の歴史史観からすれば、負の遺産である中を生きてきて、おぞましいことも見聞きしてきて、その現実を肯定できないようなこともたくさんあったかも知れません。
これまで親しい紹介者がいて、それでもインタビューできなかった方々は、口を揃えて「満洲のことは忘れた。思い出したくない」と言い、頑なに口を閉ざしています。 私のような若輩者が言うことではないのですが、誰かにすべて話してしまったら、どこかでその記憶が塗り替えられる(変化する)のではないかと思うのです。話しながらひとつの出来事を違う視点で見られるとか、そのようなことがもしかしたら起きるかも知れません。それが自己認識の変化になり、自己肯定感に繋がるかも知れません。
反対に、満蒙開拓義勇軍で満州に行っていらした方の中には、非常に自己肯定感が強く「素晴らしい青春だった」と語る方もいます。ご自身の中に加害者意識は微塵も感じられない方もたまにいらっしゃいます。
どのように歴史の中を歩んできたのか、人それぞれで否定はできませんが、興味深いです。
脱稿したら、是非、お話を伺わせていただきたいと存じます。
コロナ禍の中、くれぐれもご自愛くださいませ。
藤沼敏子

薔薇の香りに包まれて

2020年05月16日 14時05分22秒 | 薔薇
 しばらく留守にしておりました。主なき間に、薔薇は盛りを迎えていました。
毎年恒例の友人たちを招いてのお茶会を三々五々して来ましたが、今年は残念ながらできません。それで、親しい友人に、留守でも庭に入って薔薇を摘んで行ってとメールしたところ、「大きな目立つ枯れ枝があったので、取っておいた。ついでに少しだけ草取りもしておいた」とのありがたいメールが返って来ていました。それがこの枝。イングリッシュローズのモーティマー サックラーです。紙切り虫が入り込んで、瀕死の状態です。





「人と会ってはいけない」と、国から号令をかけられ、不要不急の外出は避けるようにと言われておりますが、私の場合、もうずいぶん前から引きこもりを続けているので、何の変化もないのですが、後期高齢者グループの友人知人たちは、年ごとに少なくなっているので、ここで1年会わないと、高齢ゆえに元気だろうかと気を揉むことが多く不安が増幅します。会って他愛無い世間話をするだけなのに、会えないことの頼りなさ、漂流感のようなものは何なんでしょう。
例えば古い友人の Iさんご夫妻と会うことで私は自分を確認しているような気がしますけれど、それができないからでしょうか。

 まったく手入れをしない薔薇たちですが、健気に今年も咲いてくれましたので、紹介します。庭に来られない友人たちには写真を見て頂ければと思います。

これは、ルージュ ピエール ド ロンサールの咲いているところと蕾。雨の多い年だと、蕾のままで長くおりまして咲かずに枯れてしまいます。

ミニ薔薇のさおり

紫玉



名前を失念 古い古いイングリッシュローズ


もっとも古いイングリッシュローズの名花 グラハム トーマス


シティー オブ ヨーク


ピエール ド ロンサール

フランソワ・ジュランビル 
とても丈夫で長く伸びます。蕾も可愛いです。


後は庭の風景



































一日も早いコロナの終息を願いつつ。