4月24日(月)から5月16日(火)までの22日間、四国、関西、山陽、九州と取材旅行に行って来ました。22日間というのは、リタイア直後のイギリス カントリーサイドドライブ旅行(24日間)に次ぐ長さでした。何もかも車に積み込んで出発し、27名の方にインタビューする事が出来ました。
当初は6月に計画していたのですが、一番会いたいと思っていた方が、3月に風邪をひいたと聞くと、居ても立ってもいられなくなり、日程を早めたのでした。
旅行から帰ると、礼状も出す前なのに、数人の方から先にお便りをいただきました。取材で言い忘れたことを補強する内容だったり、関連資料を送ってくださったり、単に取材の疲れを癒すための温かい心のこもった絵手紙だったりしました。大変有り難く、まだ旅の余韻に浸っております。
大まかな旅程は、東京港からフェリーで徳島港へ。淡路島を通って大阪、京都。岡山、福山、広島。広島からフェリーで松山。宿毛港からフェリーで佐伯港。熊本、長崎、福岡(北九州市、筑紫野市)、新門司港からフェリーで東京港でした。
毎年5月の薔薇の季節は、我が家で一番お客様の多い月で、旅行に行っていたからと言って恒例行事を取りやめるわけにはいきません。1年に1度、今年も8組の方がいらっしゃいます。その他にも不意の夫のお客様もあり、毎年この季節を連れも楽しみにしています。
そんな中で、細切れの時間をつなぎ合わせて取材ビデオを聞いていたら、自分が取材したにもかかわらず、初めて聞いたように驚いている自分がおり、如何ともしがたい記憶力の低下に愕然とするばかり。とにかく記憶が消えてしまわない内に早くに記述しておかなくてはなりません。文字起こしもインタビューの2,3倍の時間がかかります。派生する疑問点の解明にも時間がかかります。ご協力くださった皆さんには、しばらくお待たせしてしまいますが、お許しくださいませ。
満蒙開拓青少年義勇隊 特殊訓練所の事は存在さえも知りませんでした。開拓団の中で集団リンチ殺人があったという事も、初めて聞きました。731部隊にひと夏いらしたという元従軍看護婦さんの話も興味深い。引揚途中、多くの方が壱岐の島で足止めされ、自分の家族だけ奇跡的に助かったという方の話も驚きでした。山口県の「中国残留婦人交流の会」の山田忠子さんにお会いしたいと長い間思っていて、やっと連絡先が分かったのに、昨年お亡くなりになったとご遺族から連絡があり、大変残念でした。多くの残留婦人が彼女の支援で日本に帰国できた事、忘れてはいけない事だと思っています。
最後に訪れた福岡では、これまで自分が二世の生活問題に目を背けていたことに気付かされた。もともと私のホームページは、「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」で、一世のインタビューが中心だった。高齢化し、年々鬼籍に入られる方々が多い中で、時間との戦いと思い、「急がなくちゃ」とやってきた。そうして私は結果的に二世の生活問題に気付くことなくのほほんと生きてきてしまったのだった。
日本語教室の終了後に通訳を介して二人の方からインタビューをさせていただく予定だった。ところが、その2名がなかなか決まらない。そして思いもよらない展開になり、会場全体が二世の話を聞いて欲しいという事になった。流れにまかせて通訳を介してお話を伺った。音声のみで映像は出さないことで了承を得た。
拙稿「年表:中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開」(1998-05-29中国帰国者定着促進センター紀要. (6))で書かせていただいた通り、残留婦人・残留孤児たちは、日本への帰国を希望してもなかなか順番がまわって来ず、長く待たされた。順番を待っている間に、望郷の想いを抱えつつ亡くなっていった残留婦人もかなり多かった。その為、日本の親戚の援助や中国の親類縁者からの支援や借金で、自費帰国した残留婦人・残留孤児は非常に多かった。また、援護政策の変遷を調べるとわかるのだが、最初は18歳未満の子どもしか同伴帰国できなかった。中国人の夫とは離婚してなら帰国が許された時代もあった。それが20歳未満に引き上げられたり、残留婦人の老後の生活をみるという約束のもと、一家族の同伴帰国が許されたりと、帰国援護政策は少しずつ変遷して行った。当然、その時々の援護政策から漏れた家族は多数存在し、中国と日本に別れて、夫婦、兄弟、親子は生活することを余儀なくされた家族が多かった。戦争で家族が分断され、日本への帰国援護政策でもまた、家族は分断されたのです。残留婦人達は昼夜働き、旅費を溜めてはひとりずつ子どもたちを呼び寄せたのです。それが自費帰国の二世達です。
その自費帰国の二世たちの訴えは以下のようでした。
同じ母親から生まれたにもかかわらず、国費帰国の兄弟と自費帰国の兄弟では、受けられる帰国者援護政策に差が出来てしまうという理不尽な境遇に晒されている。国費帰国の二世たちは、日本語学習の交通費がでる。自費帰国者には出ない。国費帰国の二世達には医療通訳がつく。自費帰国者にはつかない。
二世は支援金の対象外なので、ほとんどの方が年金か生活保護で暮らしている。国費で早めに帰国できた方は、年金も満額貰える方が多いかも知れないが、長く待たされて、残留婦人の汗で捻出した旅費で帰国した二世達は、働く期間も短く、年金も満額には至らないケースが多い。また、年齢的なこともあり日本語学習も思うように進まない。生活保護受給では、「あなたたちは国に養われているんだよ。」と言われ、傷つき、人としての尊厳が保たれていないと感じている二世が多い。「あなたたちは自費だから、勝手に帰って来たんでしょ。国は面倒見ない。」と言われているようだ。中国では「鬼日本人」と蔑まれて来て、日本では「中国人」と言われる現実を生きている。と。
福岡の二世の皆さんのお話は、全国の二世の皆さんの問題でもあります。まず、多くの方に知っていただきたいと思います。拙稿「年表:中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開」(1998-05-29中国帰国者定着促進センター紀要. (6))のその後、1998年以降の援護政策の展開について続編を書かなければならないと常々思ってはいるのですが、なかなか果たせずにおります。書くことで果たして大きな宿題をくださった皆さんへの答えになるでしょうか。政治力も何もない私にできるアクションはどんな事があるでしょうか。
福岡の二世の皆さんのお話は、ホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」→「周辺の証言」最後あたりで聴く事が出来ます。http://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/blank-19