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正誤表『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上巻)(下巻)』(津成書院 2020.07.12)

2020年12月17日 11時25分12秒 | 取材の周辺
 平素からズボラな行動パターンながら、こと本に関しては、細心の注意を払ったつもりでしたが、たくさんの誤記が見つかりました。
 証言者の皆様、取材協力者の皆様、関係者の皆様、本を買ってくださった皆様に、大変申し訳なく存じます。正誤表ができましたので、お手数をお掛け致しますが、誤記を訂正し、ご高覧頂けますようお願いいたします。

『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち―北海道・東北・中部・関東編―(上)』(津成書院 2020)
p.11 16行目、p.13 11行目、 p.148 3行目、p258 3行目、p.504 南都留郷(広富山)開拓団 → 広富山南都留郷開拓団 
p.13  3行目、p.415 1行目、p.418 2行目 苗地(ビョウチ)→(ビョウテイ
p.34 注28 容疑をかけられ者、下放されたもの → 容疑をかけられ者、下放された
p.37 注33 1957(32)→ 1957(昭和32)年
p.39  5行目 9月末現在 → 2019年9月末現在 
p.46  12行目 彼らこそ戦争の犠牲であり → 彼らこそ戦争の犠牲であり
p.67  15行目~17行目 姉さんの子ども12~13歳だったの。… お金ないから。 削除
p.118 5行目 一時帰国 → 一時帰国 兄が見つかる 
p.119 13行目 1972(昭和47)年、日中国交回復になったあと、東京に住んでいた兄が、電話で連絡を~→ 1988(昭和63)年肉親捜しで東京に住んでいた兄が見つかったあと、兄が電話で~ 
    14行目 兄は一生懸命捜したみたいです  削除
p.121 7行目 「これ何ですか?」って聞くと → 「これ何ですか?」って聞く人もいる。
「わかんなかったら、市のほうに聞きなさい」って。→ 「わかんなかったら、市のほうに聞きなさい」って、私は言います。
p.122 3行目 おじさん、おばさんたち → おじさん、おばさんたち
p.123 6行目 奥さんと子ども3人で永住帰国 → と子ども3人で永住帰国(自費)
p.125 9行目 向う→向う   9月の始め頃は →9月の初め頃は
15行目 おじさん、おばさんたち → おじさん、おばさんたち
p.165 16行目 p.166 3、7行目 開放 → 解放
p.228 2行目 おとう(夫)ちゃん → おとうちゃん(夫)   10行目 務めた → 勤めた
p.238 13行目 中国開放 → 中国解放 
p.244中国在住38年 → 37年  一時帰国を永住帰国に切り替える
p.254 2行目 太古洞 → 大古洞
p.259 13行目 こんな苦労をさせてきたことを → こんな苦労をさてきたことを
p.263 12行目, 20行目 1997(平成8)年 → 1997(平成9) 年
p.306 9行目 7人で帰国 → 7人で永住帰国
p.324 7行目 日本人に助けていただいたところ → 日本人助けていただいた
8行目 旗をもっとらんようなね → を持っとらんようなね  
p.337 10行目 10歳年の → 10歳の  14行目 次男 → 長男
    15行目 次男28歳  → 31歳
p.352 一時帰国後、4、5年で永住帰国 →2回目の一時帰国(自費)を永住帰国に切り替える 
p.361 2行目 そのお兄さんは → そのお兄さん(異母兄)は (関係をはっきりさせるために)
p.364 3行目 p.366 9行目 話とった → 話とった
p.374 一時帰国から2年後、永住帰国に切り替える →一時帰国から1年3か月後、永住帰に切り替える  
p.375 10行目 39歳 9月 永住帰国に切り替える→ 38歳 1月 永住帰国に切り替える 
p.379 18行目 上郷のルビ かみごう → かみさと
p.388 中国在住34年 戦後中国在住47年 戦後在住44年  線部分削除
一時帰国から永住帰国へ → 一時帰国から9年で永住帰国 
p.418 証言者プロフィール   全面修正
  1942(昭和17)年 両親が渡満 (苗地(ビョウチ→ビョウテイ)伊南郷(いなんごう)開拓団)  
1945(昭和20)年 苗地伊南郷開拓団で生まれる 
 終戦 父はソ連軍に足を撃たれ、その後感染症で亡くなる
1948(昭和23)年 3歳 母が中国人と結婚 その後、弟が生まれる
1959(昭和34)年 14歳 母の日本国籍抹消
   (不詳)       中国人と結婚(子どもは2人)
1974(昭和49)年 29歳 母が1人で一時帰国(国費) 9か月滞在、親族と会う  
1993(平成5)年  48歳 9月5日に母が12人と強行帰国、永住帰国 (自費)を果たす
          母と自分の国籍取得
1995(平成7)年  50歳 家族全員で永住帰国 夫婦(国費) 子ども家族(自費)
2005(平成17)年 母が92歳で亡くなる
インタビュー 2013年11月3日  68歳  場所 
p.422 脚注73 阿南日中友好協会→南日中友好協会
p.470 12行目 太古洞開拓団 → 古洞開拓団
p.481 最後の行 親父は、真の親父(継父)じゃないけど → 親父(継父)は、真の親父じゃないけど
p.487 5行目~7行目 本当の親じゃないから…だから、家内と喧嘩にならないように 「 」を削除
p.488 1行目 妹弟6人 → (義理の)妹弟6人  
p.493 14行目 怪我がしたり → 怪我したり
p.495 p.496 小八浪のルビ ショーパラン  →  ショウパラン
p.505 3行目 南都留郷のルビ みまみつるごう → みなみつるごう 
p.530 8行目 1984(昭和51)年 → 1984(昭和59)年
p.550 2行目 10月14日生まれ → 10月 黒竜江省牡丹江市で生まれる 
p.550 15行目 2004(平成16)年 → 1996(平成8)年 
p.554 6行目 「弱い物はいじめたらダメ」→「弱いはいじめたらダメ」
p.560 16行目 その人の家に探しに行った → その人の家に捜しに行った 
p.565 18行目 2004年12月4日 →2004年(注)意見陳述書によると1996年。本人の勘違いか。 
p.571 15行目 18行目 20行目 探し → 捜し

『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち―関西・山陽・四国・九州・沖縄・中国の養父母―(下)』(津成書院 2020)

p.22 16行p.164 1行目、p.165 3行目            柞木台(サクボクダイ)土佐郷開拓団 →下欧根土佐郷開拓団
p.22 17行 p.185 1行目  p.256 1行、15行 柞木台(サクボクダイ)土佐郷開拓団 →柞木台(サクボクダイ)開拓団
p.22 証言45冨樫ムツ子さん p.118 1行目 p.119 4行目   p.121  7行目、16行目   p.129  16行目 p.160 4行目、5行目 大田郷開拓団→田郷(おおたごう)開拓団 
p.37 12行目 『引き上げと援護30年の歩み』 → 『引き揚げと援護30年の歩み』
p.45 注30 容疑をかけられ者、下放されたもの → 容疑をかけられ者、下放された
p.50 6行目 9月末現在 → 2019年9月末現在 
p.54 15行目 一定の基準を満たない → 一定の基準満たない 
p.55 5行目 問題は数多くあります → 問題数多くあります 線部分削除
P57 11行目 彼らこそ戦争の犠牲であり → 彼らこそ戦争の犠牲であり
p.79  12行目発音は「ソウハンハ」相反派(反対派)か造反派(反逆者)か、不明 
p.83  16行目 終って → 終って    
p.103  一時帰国後2年で永住帰国 → 一時帰国なしで永住帰国 
p.113 後ろから6行目 三郷 → 3号 
p.141 一時帰国後5年で永住帰国 → 一時帰国後1年で永住帰国 
p.143 16行目 従姉妹に当たる妹の所 → 妹の所  線部分削除
p.154 11行目 1月 → ひと月 
p.156 1行目~2行目 唐山市での仕事は、また夜勤の仕事。鉄道を作る工場だった。  線部分削除
p.161  5行目 厳い寒さ → 厳い寒さ
p.164  一時帰国を永住帰国に切り替える → 2回目の一時帰国(自費)を永住帰国に切り替える
p.190 11~13行目 6つの郷でしたけど、…土佐郷と東予の2郷は出てこなかった。 → 線部分削除し、「土佐郷と東予の2郷は出て来なかった」をp.191  5行目の最後に移動
p.196【川を渡る】のパラグラフを【方正県に着く】の前に移動
p.209  7行目泊って → 泊って
p.212  14行目泊ったんや → 泊ったんや  
p.215  20行目泊って → 泊って
p.230 18行目 (トウフェ) → (土匪)
p.257 7行目 石川千代 → 石川千代さん
p.263 9行目 立って見ていね → 立って見ていね   12行目 もう1人の弟も妹も2人も斬られた → もう1人の弟も、妹2人も斬られた
p.286 4行目 子どもたちを連れて逃避行の末→連れて逃避行の末 線部分削除
p.287 琿春の難民収容所に → 西太廟難民収容所に
p.294  2行目~5行目 「日本語は…夜間の準看学校~家内は…話してます~戦争がなければ私も…」→  「上の子は、日本語は…夜間の準看学校。(中略)家内は。(中略)戦争がなければ私も…」 
p.296  10行目 当って → 当って
p.301 20行目 向った → 向った
P317 13行目ホウアン → 興安 
p.341 2行目 こんなことできよ → こんなことでき
p.357 2行目 行かないと行けない → 行かないといけない  14行目 お母さん → お継母さん
p.360 10行目 車の運手 → 車の運転
p.379 18行目 ウチは、34歳 →  34歳(数え)
p.382 3行目 2本持ってても → 2本持ってても
p.402  1938(昭和14)年 → 1938(昭和13)年  
   注87 2行目 統計的数字などは頼った → 統計的数字などはこれに頼った 
p.404 3行目 看手 → 
p.405 14行目の最後 いましたからね>(81頁) → いましたからね。 線部分削除
p.409 写真の説明 図佳(ズケイ)線 → 図佳(とか)線 
p.412 15行目 養父母は…1回だけもらった。養父母はまだ生きている。
→ 養父母たちは…1回もらっただけ。養父母たちはまだ生きている。
p.415 2行目 翌年か翌々年に → インタビューの翌年か翌々年に
p.418 1行目 証言63 58 → 証言63  線部分削除
p.426 12行目 大坂 → 大
p.434 1行目 川添緋沙子さんのように → 川添緋沙子さんの養父母のように
p.436 7行目 25年度 → 平成25年度
p.454 3行目 江本三男さん(小古洞蓼科郷開拓団)さん   線部分削除


無言館、無言館第2 訪問

2020年12月05日 10時49分36秒 | 取材の周辺
 今朝は真っ白な雪景色。温泉大好きな夫と一時間でも長くパソコンにしがみついていたい妻の利害が一致。また温泉です。今回は長野の温泉、ジム、プールもあります。

ずっとホテルに籠っていたので、一昨々日、無言館に行ってきました。昨日の朝日新聞夕刊に大きく出ていたと、友人が記事をメールで送ってくれました。



無言館には第1と第2があって、けっこう若い人がたくさん見に来ていました。車椅子は両方に備えられていました。


<無言館>

<無言館 第2>
 絵画を見るのは問題ないのですが、ショーケースは高すぎて車椅子からは無理でした。ショーケースがもう少し、あと20~30㎝低かったら問題なく見ることができると思いました。そこで大事な資料を発見しました。写真はNGなので、メモしました。賞状には「志那事変に於ける勤労に依り 金参拾円を賜ふ 昭和十五年四月二九日 陸軍省」と、ありました。どのような勤労だったのか、想像するしかありませんが、何か事あるたびに報奨金のようなものが軍人に配られていたことが窺われます。
 
 絵ごとに、その人と背景が書き加えられていて、心動かされました。
例えば「裸婦」日高安典
「大正七年一月二四日生まれ、鹿児島県種子島に出生、昭和十二年四月東京美術学校油絵科入学、一六年一二月繰り上げ卒業し、一七年に出征、二〇年四月一九日ルソン島バギオにおいて二七歳で戦死。『あと五分、あと十分、この絵を描かせておいて欲しい』」と言って、出征直前まで恋人の裸身像を描いていたということです。
 
 また、自画像が多かった。それぞれの自画像は出征を前に静かに自分自身と対峙しているように思えるのだが、またそれは、絵を見る人(私)に自分自身の内面を覗かせるという役割も果たしていた。
 ほとんどの方が20代前半でなくなっている。特に目についたのは、南方諸島。フィリピン、ビルマ、ニューギニアなど。それから沖縄、満州など。結核による病死も多かった。
 絵の作者名しか記録のないものもあり、できるならばその背景、人となり、絵にまつわるエピソードなどを調べて記録しておいてほしいと思いました。

<以下は朝日新聞12月4日夕刊より転載>
「無言館」を残したい 79歳館主、私財投じても「あと6年」 長野・上田、戦没画学生の作品展示
戦争で亡くなった美術学生の絵画などを集めた美術館「無言館」(長野県上田市)が、作品や遺品を次世代にどう引き継いでいくかの模索をしている。遺族の多くは世を去り、作家で館主の窪島誠一郎さんは79歳になった。根強いファンがいるとはいえ、来館者数は年々減り、今年は新型コロナウイルスの影響で激減。資金面での苦境が続く。そんな中、作品をデータベース化する構想も始まった。
10月下旬、色づいた里山の中に立つ無言館に着くと、平日にもかかわらず120人あまりが訪れていた。だが、窪島さんは「冬は一人も来ない日もある。維持費などを考えると、一年中開館するべきかどうか迷っている」と打ち明けた。
無言館に展示されている画学生らの絵は、画家の卵たちの未熟な作品とも言える。しかし、遺族が語った学生の生い立ちや、戦地から恋人や家族に宛てた手紙などとともに見ると、日本が国を挙げて戦争へと突き進んでいた時代に、夢中で絵を描いていた若者たちの姿が浮かび上がる。
「無言館にはファンが多い。それは窪島さんと分かちがたく結びついているから」。そう話すのは無言館の財団の理事で、分館を持つ立命館大学国際平和ミュージアム(京都市北区)の名誉館長、安斎育郎さん(80)だ。
窪島さんは、戦後の混乱の中で養父母に育てられた。作家の故・水上勉が実の父親だと知ったのは、35歳のときだ。水上との再会で養父母をないがしろにしてしまったとの思いや、高度経済成長の波に乗りスナック経営で金もうけ一筋に生きたうしろめたさ。「画学生の遺族を回り、感謝されることで、そんな悔恨が一つずつ消えるように感じてきた」。窪島さんは、全国の講演先や著作でも、そう赤裸々に語ってきた。
自らの「戦後処理」という私的な感情と結びついた美術館。その物語が多くの人を引きつける。
しかし、戦後75年が経ち、戦中や戦後の混乱期の記憶は薄れつつある。入館者数は、ピーク時には年間約12万人を記録したが、昨年は約2万8千人。今年は新型コロナの感染拡大もあり、11月末までで昨年の約半分だ。絵の修復や施設の維持管理にも費用がかさむ。
開館時に220人以上が存命だった学生の遺族は、いまや6人。窪島さんもこの数年、病気を患い、無言館の行く末は重い課題となってのしかかる。
無言館は一般財団法人になっており、収益を支えるのは主に寄付と1人1千円の入館料だ。昨年には、窪島さんが私的に収集した絵画などのコレクションを長野県に約2億円で売却することで当面の資金を確保した。ただ、運営は苦しく、「入館者数が回復しなければ、あと6年ほどで運転資金が底をつく」と窪島さんは明かす。
公的な資金援助の話もあったが、あえて受けてこなかった。「国に命を奪われた画学生の美術館を、国のお金で運営するわけにはいかない。市井の人がお金を出してくれることに意味があると思ってきたんです」
しかし、安斎さんは「無言館の社会的な存在意義は大きい。戦争の記憶を残す責務を第一に考えるべきだ」との考えだ。
将来が見通せないなか、次の世代が少しずつ動き始めている。昨年8月、東京・神田の出版社「皓星(こうせい)社」社長の晴山生菜さん(33)が、絵や遺品のデータベース化を持ちかけた。
昨春、初めて無言館を訪れた晴山さんは「ぼろぼろになった絵を見て、作品や遺品を写真でデータベース化し、どこからでも見られるようにしたらどうかと考えた」と話す。窪島さんの長男でIT系の会社を経営する剣璽(けんじ)さん(46)も、作品や作者に関する基本情報をデータベースとして整理しようと、システムの構築に着手し始めた。
窪島さんがこだわるのは、作者の学生に関する正確な情報を残すことだ。どのような状況で絵が描かれ、学生たちはどのように死んでいったのか。それは戦争の記憶が薄れゆくとき、無言館が「戦争で美しく散った学生たちの美談」になることへの警戒心からでもある。(宮地ゆう)
 <無言館> 1997年5月、長野県上田市に開館。画廊を経営していた館主の窪島誠一郎さんが、画家の野見山暁治さんから「多くの有望な美術学生が戦争で亡くなった」と聞き、2人で遺族を回って作品を集めた。現在も作品や遺品が持ち込まれており、2008年には近くに第2展示館を開館。現在、約130人の作品や遺品約600点を展示・保管している。(以上)

マディソン郡の橋のような屋根付き橋を散歩の途中で見つけました。