昨日、TBSラジオ「荻上チキ セッション」に出演しました。
ラジオ出演は、実に20数年ぶり。以前、『日本語ジャーナル』(アルク)という雑誌に「ちきゅう家族の生活術」という連載を書いていた頃、NHKから取材が来て、夕方の時間だったと思いますが、「国際化」に関することをお話した覚えがあります。その時、NHKのロゴ入りのCDウオークマンを記念に頂き、当時はけっこう使っていました。
緊張して心臓はドキドキバクバク。言おうと思っていたことを言い忘れ、言うつもりのなかったことがスルスルと口をついて出て来てしまって、自分でも驚き、聞き返すと後悔の嵐!補足したいことがいくつかあります。
【補足したいこと その1】
中国残留婦人たちが、当初日本に帰って来られなかった理由は、いくつかあります。
①中国人と結婚したため、日本国籍があるのに外国人として取り扱われ、「身元引受人」が必要だったから。帰化をさせられた人もいました。(のちに法改正あり)「身元引受人」の重要キーワードがなぜ出てこない?
②一時帰国で帰って来た時、その振る舞いが「中国人的」であるとして、親戚から総スカンを食らい、だれも親戚が「身元引受人」になってくれなかったから。
③相続の問題。今さら帰って来ても、兄弟の分け前が少なくなるという考えから帰国を歓迎しなかったから。
④帰国後、生活保護を受給する時、親族への資産調査があり、「援助できない理由」を書かされた。支援法ができてからは親族への資産調査はなくなったが、親族に生活保護受給者がいるということが、小さな村では話題になり、肩身が狭くなるという考え。
【補足したいこと その2】
荻上チキさんは、従軍看護婦の「引き揚げの混乱」について聞いてくれたのに、私は婦人公論の澤地久枝さんの発言について話をしてしまいました。本当は、『7,000名のハルピン脱出』(嘉悦三毅夫著)について、話したかったし話すべきだったのに。
この本は非売品である為、現在は国会図書館から取り寄せないと目にすることができないかも知れません。
2015年頃、友人が『七〇〇〇名のハルピン脱出 』(嘉悦三毅夫 著、1971年 非売品)という本を貸してくれました。満州国軍事顧問であったハルピン第一陸軍病院院長によるものです。題名にもある通り、ハルピン第一陸軍病院の傷病兵、衛生兵、従軍看護婦たち七〇〇〇名を早々にハルピンを脱出させて、終戦の翌月、9月末には仙崎・博多に無事帰還していたということが、嘉悦院長の筆致で描かれていました。敗戦から1か月半で七〇〇〇人もの傷病兵、衛生兵、看護婦さんたちが無事帰還できたということに驚きました。その中に赤松しづゑさんも金城文子さんもいたのです。本当に無傷で帰還できた唯一の部隊でした。
話の流れとしては、そのことを話すべきでした。なのに、婦人公論8月24日号の『対談 元軍国少女が封印した「終戦」 昭和20年夏、満州で起きたことを今こそ語ろう 澤地久枝×上野千鶴子』を読んで、心に違和感を抱え続けていることができなくて、どこかで吐き出してしまいたいという衝動に駆られたのではないかと自己分析します。
澤地久枝さんは、対談の中で「満洲に最初に入って来たソ連軍は、囚人兵だと言われています。でも、2か月ほどで正規軍に変わり、軍規も厳しくなった。そして46年1月頃には撤退している。つまりソ連軍による性被害は、最初に進駐してきた2か月程度じゃないでしょうか。ずっとあったわけじゃないと思います」と。
拙著『WWⅡ 50人の奇跡の命』185頁コラム3「日赤従軍看護婦の筆舌に尽くしがたい運命」で、さいたま市の青葉園霊園の青葉地蔵尊について記しました。ソ連兵の蛮行(レイプ)から逃れるために22人の看護婦さんが自決しました。遺書の日付けは昭和21年6月21日でした。その顛末が碑に刻まれています。
チキさんがまとめてくれたように、たくさんの人の証言を集めて様々な角度から検討しないと事実に到達できないと思います。
また、加藤聖文先生が書いてくださった推薦の言葉の中に、黒澤明の映画「羅生門」を例に、以下の記述があります。
引用「黒澤明の映画「羅生門」は、芥川龍之介が今昔物語を下敷きにして書いた短編「藪の中」をモチーフにしたもので、私が好きな映画の一つです。一人の武士が死んだという事実をめぐって、その場にいた三人の当事者(盗賊・武士の妻・武士の霊)がそれぞれ全く違う話をします。しかも、それを目撃していた四人目の男(杣売り)にとって三人の話はどれも真実ではありませんでした。人間とはなかなか一筋縄ではいかない存在で、彼らの行為の真実を明らかにすることは容易いことではありません。その一方で、人間は歴史の真実に迫りたいという気持ちを押さえることができないのも事実です」引用終り
インタビューのそのままを記述し残すと言っても、そこには必ずインタビュアーの解釈が入ります。従軍看護婦の赤松しづゑさんは、インタビューの中で、「ひと夏、731に行っていた」と、証言していました。そこで何をしていたのかを尋ねても、「たいしたことはしていなかった」という応えでした。その時は、731の医療従事者は口外禁止令がかかっているから応えられないのかも知れないと思いました。その後、『戦争・731と大学・医科大学―続 医学者・医師たちの良心をかけた究明 』を読み、滋賀医科大学の西山勝男先生に
赤松しずゑさんが、1945年1月作成の731の名簿にあるかどうか、調べていただきました。旧姓で調べていただきましたが、名簿にはありませんでした。
西山先生のメール、一部引用「ご承知かと思いますが、ハルピン陸軍第一病院と関東軍は別組織です。2004年時の調査でハルピン陸軍第一病院跡は駅などになっていてあとかたもありませんでした。しかも私が入手した関東軍防疫給水部の名簿は1945年1月1日に作成されたものですから、仮にそれ以前に隊員であったと場合には、名簿には記載されていないはずです」
これでは「いなかった」証拠にはなりません。149頁に載せた写真は、赤松さんの字で、「S,18年夏 平房」と書き加えられています。にこやかに夏野菜を収穫している赤松さんと、その後ろで5人の衛生兵とみられる男性が、釣り竿を持って談笑している写真は、穏やかそのものです。何度もビデオで証言を聞き直し、今思うことは、赤松さんは731の人体実験に加担していた訳ではなくて、731の職員のための診療所が平房にあって、そこにひと夏行っていたのではないかと私は解釈しています。「お産の時には何度も駆けつけた」とも言っていました。職員のご家族のお産だったのだと思います。
731の事は、知りたくないと思う気持ちが正直強いですが、知らなければいけないことだと思っています。