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集団自決を生き延びて アさんの場合

2018年10月21日 10時30分09秒 | 取材の周辺

 これまでインタビューしてきた中で、集団自決を奇跡的に生き延びる事ができた人が5人おりました。北海道に住む麻山事件の鈴木幸子さん以外は、あまりマスコミに取り上げられることもないので、紹介しようと思います。是非、ご本人の語りを聞いていただきたいと思います。

 

アさんの証言

「アーカイブス中国残留孤児・残留婦人の証言」アさんの場合http://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/about1-cysu

【満洲生まれ】

昭和15年(1940)1月18日、中国で生まれた。父は開拓団の先遣隊で満州に行っていたが、日本に戻り、母と結婚して、数か月後また開拓団に戻る。その時、私は母のお腹の中にいた。満州で生まれた。田んぼではお米を作っていた。小さい頃はお米を食べていた。

【終戦】

終戦の時、私は5歳。その時の記憶は全部覚えている。父は、終戦前の3月に兵隊に行った(徴兵された)。家は母と私と弟の3人だった。隣に住んでいたSさんと村の人みんなで集まって、歩いて本部に行くことになった。一晩大きい家に泊まった。次の日、朝ご飯はなかった。本部まで何時間かかるかわからなかったけど、ずっと歩いて山の中で、みんな日本人のSさんに殺された。その村だいたい60人くらい。みんな殺された。なんで殺したかわからない。おばあちゃん、お母さん、年寄り、子供、病気のおじいさんとかいた。最初泊まった夜、みんなに白い薬を渡して飲んだが、次の朝、誰も死ななかった。次の日、山に行って皆をナイフ(短刀)で殺した。Sさんの他に女の人二人いたけれど、わからない。弟がお腹すいたというので、弟をおんぶしてとなりのトウモロコシ畑に入って、トウモロコシを生で食べていた。もどったらお母さんはナイフで殺されていた。みんな死んでいた。なんで殺されたのかわからなかった。私はSさんに鉄砲で撃たれて気絶した。雨が顔に降ってきて生き返ったら、おんぶしていた弟は顔が血だらけで顔が分からなかった。お母さんは生きていなかった。私は5歳、弟は3歳の時だった。私は目が覚めて殺されるかと思ってその山から逃げた。二晩くらい逃げた。水を飲んでお腹がすいたら、新芽や草を食べて、二晩くらい山の中にいた。

養母が山でまきをとりに来たときに私を発見して家へ連れて行った。養父は私の体が血だらけで、ハエの卵がたくさん付いていたので、その卵、ウジ虫が動いていたのをナイフで着物を切って、古い肉を取ってくれた。そして、柔らかいごぼうの葉を揉んで、ごま油ぬって唾をつけて、傷口に貼ってくれた。毎日毎日痛くて泣いていた。それを見た隣の人は「日本人ひどいことするなあ」と言ってた、と、養父に後で教えてもらった。2年くらいその傷が治らなかった。養父には感謝している。

終戦の一,二年後、Sさんが養父母のうちへ来て日本におじいちゃん、おばあちゃんがいるからと言って、私を日本に連れて帰ろうとしたが、私はまた殺されるかと思ってこわくて一緒に帰らなかった。

【中国での生活】

中国が飢饉で大変な時、小さい頃はどんぐりの粉、木の葉とトウモロコシの粉とまぜてむしたものを食べていた。大変だった。

1957年頃、一人ひとり中央政府が調べた。その頃私はハルピンの病院で働いていて病院の寮に住んでいた。調べられても私は小さくてわからない。日本に誰おるかわからない。といった。養父母が中国の戸籍に入れた。養父母、なぜ日本の子を育てたかわからない。スパイかと思われて調べられても私は小さいから何もわからない。でも私は日本人だからスパイだから仕事ダメと言われた。結局調べても分からないからまた仕事をした。介護や看護婦さんの手伝いやった。

【結婚】

19歳で結婚し、子どもは三人生まれた。近所にも結構日本人(残留孤児・婦人)がいて、おばさんたちが教えてくれた。会ったりもした。KさんとかTさんとか。文化大革命の時、私は中国籍だから何も変わったことはなかった。

【日中国交回復】

お父さんは、終戦になって三年シベリア送りになり強制労働をして、その後日本に帰っていた。父は私が死んだか生きているかわからなかった。父が私を探してくれた。

1957年くらいに政府が当時中国にいた子(残留孤児)を調べて私のことがわかり、刑事さんは、日本人の子どもだという事を手続きしないと困るといって手続きをした。私は日本のこと、何も覚えていなくて手がかりはなかった。

実父が、一時帰国していたMさん(開拓団で一緒だった)に、娘(私)が生きてるか死んでいるか探して欲しいと頼んだ。そのことがきっかけで、そのおばさんは私をさがしてくれた。信じられなかった。お父さんが生きていることも信じられなかった。そのおばさんに電話して会いに行ったら、「あなたはお父さんの子どもよ。お父さんとあなたの顔が同じだから。」っていわれた。小さい時の写真を父に送って、「あなたは私のお父さんですか。」って、手紙を書いた。お父さんも小さい頃の写真、お父さん、お母さん、写真を全部送ってくれた。私は小さかったので覚えていなかった。養父母に写真を見せたら、山へ行ったときお母さんを見たことあるよと言った。父の顔を見たかった。父は一時帰国してくださいと言った。父は二度目の結婚をしていた。子供がひとりいた。

【一時帰国】

私は1976年に子供二人連れて一時帰国した。日本は素晴らしいと思った。また子供と中国に戻った。お父さんの日本の家が良くて、子供は「中国は嫌だ、日本に帰りたい。」とうるさいくらい日本に帰りたいと言った。それで公安局に相談に行った。その時は、主人は離婚しないと日本へ行けないと言われた。子どもは連れて行ってもいいと言われた。私は36歳、子供たちは16歳、13歳、10歳。子ども達はお父さんと一緒じゃないと嫌だといっていた。父は「身元引受人にならない。嫌だ。」といった。「日本に帰ってくるな。」と言った。おばさんたちにも手紙を書いて身元引受人を頼んだが、「お父さんが断っているのに、お父さんの手前、私たちはできないのよ。」といった。困っていたら、中国にいたことのある中国語のわかるおじさんが、「言葉わかるし保証人になってもいい。」と言ってくれた。その人が父に電話してくれた。「どうして自分の娘の保証人にならないのか。ならないならわたしがなるよ。」と言ったら、父が保証人になってくれた。

【永住帰国】

1981年、5人で永住帰国した。けっこう同じような境遇の人で離婚して日本に帰ってきた人もいた。1976年頃は離婚して女の子だけ連れて男の子は中国において帰国した人を見送ったこともあった。当時離婚して帰国した人は大勢いたと思う。

 帰国したあとも父のほうはいろいろ事情があって、友好協会を頼って実父とは離れて住んだ。私は41歳、子供は21歳18歳15歳だった。上の子は働いた。下の2人は中学校にいった。私と子供三人は国費で帰国。主人は中国人だからダメだって。夫の交通費は中国の仕事の退職金をあてた。駒ヶ根の日中友好の家のSAさんの家に入って、仕事しないと生活できないので、仕事を探した。帰国後10日ぐらいで、長男と主人と3人で工場で働いた。言葉も何もわからなかった。友好協会がバックアップしてくれた。あのころ賃金が8万円60歳以上10万円くらいだった。いじめられた。言葉わからなかったから障害者の扱いで働いた。下の2人の子は中学校で3年勉強した。先生が親切だった。半年くらいして、下平の養鶏場に転職したけどつらかった。たいへんだった。2年くらいして駒ヶ根に住んで福岡の会社で定年まで働いた。主人は別のところで定年まで働いた。

【定年後】

主人は定年後もつらかった。主人の年金は3万円くらい。主人は自分より年上で9年間働いた。自分は19年間働いて、2人で8万円ちょっとの暮らしで大変だった。田中知事になって3万円支援された。今は国からの支援金もでて医療費が無料になった。今は二人で年金で暮らせる。中国で苦労して日本に来て苦労したけど、今から考えると帰国してよかった。一番つらかったのは日本に帰って来て3,4年間がつらかった。買い物わからない、洗濯機もない、言葉もわからない。今は子ども達は自立して働いている。今の生活の楽しみは家でゴロゴロ。のんびり暮らして今が一番幸せ


ホームページ Zさんの場合の感想

2018年10月19日 11時39分20秒 | 取材の周辺

アーカイブス中国残留孤児・残留婦人の証言  Zさんの場合 http://kikokusya.wixsite.com/kikokusya

 ホームページ視聴者様より感想が届いています。最近ブログも更新しておりませんでしたので、よい機会。このような感想は大きな励みになります。いくつか感想が届いていますので、ホームページの紹介も兼ねて、折々、発表していこうと思います。

 このホームページを本にしようとすると、膨大な文字起こしと膨大な調べ物が発生し、当初1冊に収めるつもりが2冊になり、ついには5冊(婦人編、孤児編2冊、周辺の証言、歴史と援護政策・検証)で何とか纏めることになりそうです。来春にはたぶん1冊目が出版できそうです。この仕事を終わらせないと、友人とランチを楽しむにも罪悪感が伴います。温泉に行きたい家族にも我慢を強いています。早くすべてを完成させて、身軽に自由になりたいと思っています。

感想は以下のようなものでした。以下転載。

 このような、日本語が話せない人たちが、通訳の方を交えて、自分のつらかった体験を話されるのは御本人にとってもありがたい事ではないかと思います。自分だけが大変な目に遭わされて、日本にいる人たちは、この方達の存在さえ知らないでいたのですからね。今でも、世界のあちこちに、日本兵の遺骨が放置されている事を考えても、この国は国民を大切にしない国だと思っています。この方達に,パスポートだけは発給して、帰国したら、「受け容れるかどうかは決めていない。」という。日本国民だから、パスポートを発行したはずなのに、自分の国にどうして帰国してはいけないのか。不思議です。政府にとっては、招かざる客のような存在だったのでしょうね。客ではないのに。こんな冷たい国に、どんな我慢をしてでも帰りたいと思った人たちが、本当に可愛そうに思えます。最近、NHKで、戦争孤児たちが声をあげ始めました。この夏は、NHKは『ノモンハン事件』を取り上げていました。今までも、夏は必ず戦争関連の特集があります。最近は民放もやってます。この人たちの声を残してくださるのは、大変ありがたいです。一人の人の話がたっぷり聞けるという事に、このホームページの意義があると思います。

 

以下は、私のホームページのアブストラクトの転載です。2013年11月にインタビューしました。

 昭和14年生まれ。残留孤児。インタビュー時74歳。天竜村出身。1歳の時、3人姉妹と両親の5人で満蒙開拓へ。19年に父親が招集。5歳で終戦。方正県に避難した。20日間くらい歩いた。道路脇に死んだ人がたくさんいたが誰もかたずけもしなかった。私も置き去りにされたが、母が思い直して連れて行ってくれた。 

 収容所では食べ物がなく、9歳、6歳の姉、5歳の私はそれぞれ貰われて行った。母はどこかでご飯炊きをしていた。半年で母の元に戻された。言葉もわからずそこにいたくなかった。その後、母は再婚した。農地改革があり、私が10歳の時、山東省へ引っ越した。3,4年後養父が亡くなった。養父との間の妹は学校に行けたが私は行けなかった。19歳までずっと農業をしていた。生活は苦しかった。食べられるものは、木の皮、草の根、何でも食べた。1969年、母は餓死した。大勢が餓死で亡くなった。

 母が亡くなってからは、中国人として生きてきた。日本人を隠し中国籍だったので、文革の時いじめられることはなかった。結婚する時、相手にも言わなかった。一時帰国を3回した。日本の叔父さん、叔母さんが判明した。

 1999年、次男家族(3人)と一家5人で永住帰国。私59歳、夫58歳。次男31歳、孫5歳。4か月帰国者センターで日本語の勉強。その後飯田市で8か月日本語の勉強をした。授産所で夫婦一緒に6年間、65歳まで働いた。収入は少なく生活保護も受けていた。三男も呼び寄せ、次男と三男は日本語も中国語もできるので、日本国籍も。会社から中国に派遣されて立派な仕事をしており家も建てた。