「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」ゲストブック&ブログ&メッセージ

左下のブックマークをクリックするとホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」にアクセスできます。

毎日新聞山形版 連載記事

2017年12月25日 12時17分57秒 | 取材の周辺

 毎日新聞の山形地方版に、昨年取材した山形の帰国者の記事が連載されていると、関係者が教えてくださった。幸いウェブサイトで読むことができるので、ここに紹介します。

 また、毎日新聞の告知で、「来年スタート予定の第2部に向け、毎日新聞山形支局では引き続き、旧満州(中国東北部)と開拓団に関する情報、資料などの提供をお願いいたします。」とありますので、何かご存知の方は、yamagata@mainichi.co.jp。【毎日新聞山形支局】 まで。

 昨年の取材については、このブログにも書きました。「山形取材報告」(2016年11月22日)

 思い起こすと山形取材では、小林百合子さんに大変お世話になりました。短期間でとても充実した取材ができましたこと、この場を借りて深くお礼申し上げます。

 

 新聞記事は新しい記事から古い記事への順番になっています。

 高橋令子さん、小林百合子さんのお父様 寺崎平助さん、笹原キヌコさん、佐藤安男さんについては、私のホームページでお話を聞くことができます。全員、本名でのホームページ掲載を承諾していただいておりますので、リンクを張りました。

高橋令子さんhttp://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/no-26-1

寺崎平助さんhttp://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/blank-7

笹原キヌコさんhttp://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/no-26

佐藤安男さんhttp://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/no-26-4

 

https://mainichi.jp/articles/20171222/ddl/k06/040/094000c

満州と山形 第1部・孤児たちは語る/6止 平和の碑 貧困と差別、言葉の壁も /山形

毎日新聞2017年12月22日 地方版

中国残留帰国者墓苑に建つ「平和の碑」=山形市柏倉で

「棄民」の歴史刻み、友好願う

「日本の中国侵略戦争で、国策として旧満州に送り込まれ、敗戦で荒野に見すてられました」

「帰国しても孤児らの多くは日本語を習得できず、貧困と差別の境遇におかれました」

 (一部抜粋)

 その石碑は物言わず、山形市柏倉地内の高台にひっそりとたたずんでいる。中国残留帰国者墓苑の「平和の碑」。約1200人の寄付金を集め、日中友好協会県連合会と中国残留帰国者山形の会が2014年11月に建立した。終戦から、70年を迎えようとしていた。

 中国残留婦人が日中国交回復2年後の1974年にせきを切ったように帰国を果たしたのに比べ、残留孤児は取り残された。日本語を忘れ、実の両親も特定できないことが原因だった。身元引受人制度が整ったのはさらに11年後の85年。一方で国の腰は重く、不十分な自立支援法が改正されたのは2008年になってからだった。「国はなぜ、もっと温かく迎え入れてくれなかったのか」(日中友好協会県連の高橋幸喜常任理事)。今もまだ、疑問の声は上がる。

 そして、言葉の壁。ある程度の意思疎通ができるのは1割程度だろう。夫婦でホテルに住み込みで働きだした高橋令子さん。「中国人の夫が夜中に逃げ出そうとしたこともある。説得し、力合わせて勉強しようと約束した」。厨房(ちゅうぼう)にある野菜の名前から覚えたという。孤児たちの帰国後のエピソードは苦労に満ちている。

 手を差し伸べたのは国ではなく、市井の人々だった。国籍は関係ない。敵国の戦争孤児をこき使う養父母もいれば、わが子のようにかわいがった養父母もいた。佐藤安男さんの養父母は小学校で「小日本鬼子」といじめられるたび、転校のために2回も引っ越しをしてくれた。帰国してからは世間並みの生活ができるよう、手弁当で支援したボランティアがいた。

 「平和の碑」には「夢にまで見た祖国に眠りたい」と刻まれている。願いはかない、孤児たちは支援者に支えられた穏やかな老後を過ごしている。一方で、碑には「とわの日中友好と再び戦禍の起こることのないように」ともある。そのためには「棄民」と呼ばれた満蒙開拓団の歴史を、さらに明らかにしていくことが必要だ。【佐藤良一】=おわり

 

 ◆満蒙開拓団に関わる県民数◆=2017年11月現在

 

                全国    山形県

 

団員数        約270000 約17000

犠牲者         約80000  約7000

残留孤児          2818      -

国交回復後の永住帰国    6721    142(孤児2556)

生存孤児             -     46

現残留者             -     18

 ※「満蒙開拓史」、厚労省、県の資料など参考

 

https://mainichi.jp/articles/20171221/ddl/k06/040/046000c

満州と山形 第1部・孤児たちは語る/5 交流の場「いきいき広場」 恩師と再会「今は友人」 /山形

毎日新聞2017年12月21日 地方版

再会を果たし、手を握り合う木村春代さん(右)と小林武子さん=山形市の霞城セントラルで

自立研修で日本語を学ぶ

 夜来香 白い花

 夜来香 恋の花

 ああ胸痛く……

 中国語で、夜来香(イエライシャン)のフレーズが情感豊かに歌い上げられた。李香蘭こと、山口淑子(2014年死去)の名曲。11月中旬のある日曜日、山形市の霞城セントラルビル2階・県国際交流協会研修室には70歳を超える30人ほどの男女が集まっていた。

 この「いきいき広場」は毎月1回、中国残留孤児のための定例の交流の場だ。かつては県中国帰国者自立研修センターがあったが、新支援法の成立に伴い、役割を終えたとして2007年に閉鎖されている。

 自身は孤児2世で、「県中国帰国者を支援する会」の笹原堅会長(60)は「帰国者は日本語を十分に話せず、コミュニケーションが苦手。広場があることで、引きこもり防止にもなっている」と語る。芋煮会、新年会、花見会などの年間行事も頻繁に開いている。

 歓声が突然、上がった。広場を初めて訪れた小林武子さん(74)=山形市=に1人の女性が駆け寄った。「老師!」。孤児の木村春代さん(76)=山形市=は18年前に帰国した際、当時は自立研修センターの講師だった武子さんから、日本語を学んだという。

 終戦時には4歳で、日本人としての記憶がほとんどなかった。中国人の養父母に「親兄弟は亡くなった」と教えられ、中国人「王春霞」として育てられた。結婚し、1男2女を育てた。大阪府在住の女性が娘と認めてくれたが、帰国前に病没。満蒙開拓青少年義勇軍に所属していた山形市の男性が「木村」の姓を分けてくれたという。

 約10年ぶりの偶然の再会。「勉強は大変だったけど、あの頃は楽しかったね」と春代さん。武子さんは「当時は先生でも、今は老朋友(大切な友人)ですよ」と応えた。しわが刻まれた2人の女性の四つの手がしっかりと重ね合わされた。

 県によると、県内の中国残留孤児は現在、計46人(村山34人、庄内6人、置賜5人、最上1人)。75~87歳と高齢化が進んでおり、県は医療・介護のための通訳16人を配置するなど支援制度を設けている。【佐藤良一】=つづく

 

https://mainichi.jp/articles/20171218/ddl/k06/040/051000c

 

満州と山形 第1部・孤児たちは語る/4 山形市の小林百合子さん 文集で知った父の体験 /山形

2017/12/18 毎日新聞/山形

 

 ◇つらい思い、娘に話さず

 父の名前は白世全。中国人のはずなのになぜ、日本人からの手紙が送られてくるのか。中国遼寧省撫順市に生まれ、現地の中学校に通っていた小林百合子さん(51)=山形市=は当時、その疑問をぶつけてみたという。「子供は知らなくていい」。普段は優しい顔が無表情となり、会話は続かなかった。

 寺崎平助――。それが本名だと知ったのは間もなくのこと。1984年11月に生まれて初めて飛行機に乗り、両親と共に18歳で「祖国」の土を踏んだ。やがて、日本人と結婚。1男2女に恵まれることになる。

 平助さんは横浜生まれだった。黒竜江省の九江神奈川開拓団に入植した44年は既に日本の敗勢が色濃い。ソ連軍から逃れるためにハルビンまでの150キロを歩き、一家6人は継母、父、弟の順番に息を引き取った。兄は行方知れず。姉は中国人の養女となり、平助さんは撫順近くの農家に預けられた。

 養父からは野菜泥棒を強要され、失敗すると殴打された。12歳になると牛15頭、ロバ2頭の放牧が仕事。雨が降ると、てんでに駆け出し、泥まみれで泣きながら追い回した。日本の方向を向き、「お母さん」と叫んだこともあった。

 隣家の白世忠さんが弟として、引き取ってくれた。18歳で独り立ちし、鉄工所に勤務。高素芹さんとの結婚を契機とし、中国籍を取得する。育ての兄の姓と名前の一文字をもらった。日中国交回復がなければそのまま、中国の大地に骨をうずめていたかもしれない。

 「そうした半生を知ったのは帰国後20年もたってからでした」。百合子さんは振り返る。しかも、残留孤児の文集「すてられた民の記録」に寄せていた体験記を読んでのこと。「つらい過去を必死で忘れようとしていたのかもしれない」と涙を浮かべた。

 平助さんは帰国後に実母チヨノさんの兄を頼り、寒河江市に住んだ。旋盤工として大阪などで14年間働き、98年に退職。81歳の今も、1歳下の妻と元気に暮らす。孤児への新支援制度で年金が増え、月約14万円の収入となり生活は安定した。

 百合子さんはバイリンガルを生かし、県嘱託職員として高齢化した孤児を助ける日々。「2世だからできることがあり、やるべきことがある」。今の願いは両親がのんびりと残りの人生を過ごしてくれることという。【佐藤良一】=つづく

◆写真説明 <上>アルバムを手にしながら、思い出を語る寺崎平助さん(左)と娘の小林百合子さん=山形市桧町の県営アパートで<下>満州に渡る前の寺崎平助さん一家(左から兄、父、本人、弟、実母、姉)=本人提供

 

https://mainichi.jp/articles/20171217/ddl/k06/040/089000c

満州と山形 第1部・孤児たちは語る/3 山形市の高橋令子さん 背後の銃声、今も耳に /山形2017/12/17 毎日新聞/山形

 ◇ソ連軍侵攻、荒野を逃げ惑う

 飾り気はないが、きれいに整頓された山形市の市営住宅の一室。高橋令子さん(82)=山辺町出身=は遠くを見つめつつ、かみ締めるように口ずさみはじめた。

 一つちょうだいさくらんぼ

 胸の勲章にするのです

 さくらんぼ兵隊さんおいちにすすむ

 山形こどもは勇ましい

 この歌が、古里に連れ戻してくれたという。「王麗雲」の名前を持つ中国残留孤児。1972年の日中国交回復を受け、帰国を夢見るようになった。しかし、「自分がどこで生まれたのかはまったく、覚えていなかった」。

 「山形」という歌詞が重要な手掛かりとなった。80年6月に長男長女と共に成田空港に一時帰国。「迎えに行くと約束したのに、ごめんね」。奉天(現瀋陽市)の収容所で別れ別れになっていた同じ開拓団の女性が出迎え、しっかりと抱きしめてくれた。

 令子さんが家族と共に入植していたのは、ハルビンから800キロ離れた第6次北五道崗山形郷開拓団(東安省)。45年8月9日のソ連軍の侵攻を受け、荒野を逃げ惑う。

 匪賊(ひぞく)には衣類や食料など全てを奪われた。病気の父は「足手まといになる。殺してくれ」と他の団員に懇願した。母に連れられ、その場を去った令子さんと兄妹。背中をたたくように聞こえてきた銃声は今も、耳にこだましている。

 ソ連軍に入れられた収容所の部屋は、コンクリートの床にムシロを敷いただけ。栄養失調でまず、兄2人が亡くなる。母のいまわの際の言葉は「内地に帰るんだよ」。3歳の妹とは生き別れとなった。令子さんは中国人に引き取られ、朝6時から夜10時まで厳しい労働を課せられた。

 94年に永住帰国してからも闘いは続く。2005年には国家賠償請求訴訟の原告団の一人となり、国の責任を追及した。孤児への支援制度が一新されたのは08年。14年には配偶者への支援制度も整った。ただし、苦楽を共にした夫の任秀徳さんはその2年前に病死。日本語は話せなかった。それでも、共についてきてくれた。「どんなにさみしかったことか。ありがとう」。令子さんはいつも、仏壇に語りかけているという。【佐藤良一】=つづく

◆写真説明 開拓地にあった北五道崗山形国民学校の児童と教師ら=高橋令子さん提供

◆写真説明 「体験を語り継いでいきたい」と高橋令子さん=山形市南松原で

 

https://mainichi.jp/articles/20171216/ddl/k06/040/145000c

傷痕は消えない:満州と山形 第1部・孤児たちは語る/2 山形市の笹原キヌコさん 

2017/12/16 毎日新聞/山形

 

 ◇解放軍入隊、文革後差別も

 中国で撮影された1枚の写真が残っている。4人の年若い女性。身に着けているのは中国共産党指導者の毛沢東が率い、日本軍、国民党軍と死闘を繰り広げた歴史を持つ人民解放軍の制服だ。後列右側の10代後半の女性は現在、山形市内に暮らす。上山市出身の笹原キヌコさん(84)。かつて、中国名で「石桂珍」と呼ばれていた。

 「14歳で入隊しました。今の自分があるのも、人民政府のおかげ」。もうすぐ米寿を迎えるとは思えないほど背筋がピンとしていた。軍では食事が保障され、教育も受けさせてくれたという。「党の宣伝隊にも所属しました。歌うことが大好きだったので、舞台で活躍しましたよ」

 1941年3月、第8次太平山山形郷開拓団(黒竜江省)に入植。ソ連参戦後の逃避行で、両親と一番上の姉が亡くなり、生き延びた4人の姉妹とは離れ離れになった。10歳を過ぎたばかりだった。

 キヌコさんは一人、地主の家で働くことになる。1日の食事はトウキビのマントウ2個だけ。ネズミやカエルも食べたという。「小日本鬼子」とさげすまれ、棒でたたかれることもあった。夜はゴザ一枚。世話をする牛5頭と豚15頭が友達。家畜小屋で寒さをしのぐ。5斗のトウキビと交換で売られそうになったところ、人民解放軍が受け入れてくれたという。

 入隊時は国共内戦が最後の段階を迎えつつあった。衛生隊では負傷兵を看護し、満州から海南島まで大陸各地を従軍した。互いの苦しみを打ち明ける定例の「訴苦会」での証言に衝撃を覚えた。「戦時中の日本軍による犯罪行為を知りました。祖国の侵略行為を深く、恥じました」

 しかし、文化大革命の中国は、日本の戦災孤児に手を差し伸べてくれた中国ではなかった。「日本人であることが理由で、息子が大学受験で落とされました。露骨な差別を受け、自由がほしかった」。日本に帰国できた4番目の姉から、手紙が届いた。80年8月、子供2人と共に永住帰国する。

 ゴミ収集、ビル掃除、皿洗いなどで生活をつないだ。2年後に戸籍が回復し、「石桂珍」にサヨナラを告げた。「国家という権力は信じられない」。養父母もなく、一人で生き抜いてきた自負がある。「子供たちも独立しました。朝昼晩食べることができ、今が幸せです」【佐藤良一】=つづく

◆写真説明 人民解放軍時代の笹原キヌコさん(後列右)と同僚=本人提供

◆写真説明 「人生が私を強くしてくれた」。笑顔の笹原キヌコさん=山形市飯田西の市営アパートで

 

https://mainichi.jp/articles/20171215/ddl/k06/040/036000c

満州と山形 第1部・孤児たちは語る/1 高畠町の佐藤安男さん 感謝の念、複雑な思い /山形2017/12/15 毎日新聞/山形

 

 ◇「中国では日本人、日本では中国人」

 中国東北部に日本が樹立した傀儡(かいらい)国家「満州国」にはかつて、山形県民約1万7000人が開拓団員として送り込まれた。2017年は日本と中国の国交正常化45周年にあたり、来年には平和友好条約締結40周年を迎える。この節目に県内の開拓団生存者の生涯を軸とし、両国の絆を考えていく。【佐藤良一】

 引きつったケロイド状のやけどの痕がくっきり、背中の腰の辺りに残っている。焼け落ちてきた屋根の破片が直撃した痕跡だ。「死ぬのは嫌だ。その一念で、火の海から逃げ出しました」。佐藤安男さん(80)=高畠町=は当時8歳。その痛みのせいで、惨劇の記憶は鮮明に焼き付いてしまった。

 1945年8月18日夜、匪賊(ひぞく)に包囲された開拓地の学校。約380人の日本人が身を寄せる教室に灯油がまかれた。集団自決だった。生存者は三十数人。母、安男さん、弟、妹の2カ月間の逃避行が始まる。隠れていたトウキビ畑で、泣き声が匪賊を引き寄せないように女性たちは泣きながら幼子の首を絞めた。妹は1歳になったばかりだった。安男さんは無言でやけどの痛みに耐えた。その後に病弱だった母も力尽きた。

 満州に行けば誰でも20町歩(約20ヘクタール)の地主になれる――。その日本政府の宣伝文句を信じ、家族6人が高畠町から移住したのは40年のことだった。第9次板子房置賜郷開拓団。山形時代に比べ、一家の生活は向上した。しかし、もともとは他人の土地。各地の開拓団を襲った匪賊の中には土地を奪われた農民もいたとされる。

 2歳下の弟と二人ぼっちになってしまった安男さんに救いの手を差し伸べたのもまた、中国人だった。開拓団と交流のあった商人に助けられ、兄弟はそれぞれに養父母に預けられた。11歳で小学校に入学させてもらったが、同級生に「小日本鬼子」(シャオリーベングイズ)とからかわれる。文化大革命では紅衛兵が「なぜ日本人を育てたのか」と養父を尋問し、安男さんも非難された。

 「養父母は喜んで、見送ってくれました。内心はどうだったでしょうか」。日中国交回復後の80年1月、日本に帰国する。義妹は「私がいるから大丈夫」と後押ししてくれたという。シベリア抑留後に帰国していた実父と、35年ぶりに高畠町の病院で再会することになる。

 ところが、日本語を一言も話すことができなかった。意思疎通ができず、泣くばかり。1年足らず後、実父は息を引き取った。政府の方針で、戸籍上は死亡扱いにもなっていた。職を転々とし、生活は安定しなかった。「中国では日本人、日本では中国人と呼ばれました」。さまざまに感謝の念を抱きながらも、安男さんは複雑な思いを抱き続けている。=つづく

◆写真説明 やけどの痕を指さす佐藤安男さん=高畠町安久津で

◆写真説明 旧満州に渡った当時の佐藤安男さん(前列中央)と家族=本人提供

 

 

https://mainichi.jp/articles/20171214/ddl/k06/040/117000c             

満州と山形(その2止) 満蒙開拓団、県内からは1万7000人 戦前の国策 大陸に取り残され /山形2017/12/14 毎日新聞/山形

 

 中国残留日本人は国際政治に翻弄(ほんろう)された。「五族協和・王道楽土の建設」という戦前の国策で送り込まれ、ソ連参戦と敗戦で大陸に取り残された。戦後は中華人民共和国が成立し、東西冷戦の影響を受けることになった。

 戦前に旧満州(現中国東北部)に住んでいた日本人は約155万人。そのうち、満蒙開拓団員は約27万とされる。敗勢著しい1945年6月以降、日本の関東軍は開拓団の男性約4万7000人を現地召集した。

 残された女性、子供、高齢者らはソ連軍、地元住民らによる暴力と略奪にさらされた。戦闘や集団自決で約1万2000人、寒さと飢え、発疹チフスなどで約6万7000人が死亡したとされる。

 戦後の集団引き揚げは46年5月に開始。国共内戦が激化する48年8月までに約104万7000人が帰国した。一時中断後に日本赤十字社など民間ベースでの日中交渉により、再開(53年3月~58年7月)。新たに約3万3000人が故国に戻ることができた。

 72年の日中国交正常化は戦後27年が経過していた。「残留孤児」(終戦時13歳未満)は日本語を忘れ、「残留婦人」(同13歳以上)は中国人と結婚するなどしていた。政府レベルでの交渉が可能になり、3年後には政府による初の身元調査を実施。81年には孤児47人が肉親を捜すために初来日した。

 しかし、失われた四半世紀余りは大きかった。帰国者自立研修センターの開所はさらに84年のことだった。「言葉の壁」が立ちはだかり、社会的孤立や2世の低賃金労働などの問題は現在も解消されていない。【佐藤良一】

…………………………………………………………………………………………………

 ◆中国残留日本人をめぐる年表◆

 1945年 8月 旧ソ連の対日参戦・ポツダム宣言受諾

 46年 5月 中国からの集団引き揚げ開始

 49年10月 中華人民共和国成立。東西冷戦激化

 52年12月 中国・北京放送が日本政府に対し、残留孤児問題への協力求める

 59年 3月 未帰還者の特別措置法を公布。生存・不明者1万3000人以上の戸籍抹消

 63年 5月 中国政府がハルビン市に「日本人公墓」を建立

 66年 5月 文化大革命始まる(~76年)

 72年 9月 日中国交正常化

 73年 3月 長野県の住職らによる「日中友好手をつなぐ会」設立。残留孤児の肉親捜しが始まる

    10月 残留日本人の一時帰国(里帰り)の旅費を国が全額負担

 78年 8月 日中平和友好条約調印

 81年 3月 残留孤児47人が来日。日本政府による第1回の肉親捜し

 83年 4月 「中国残留孤児援護基金」が設立

 85年 3月 永住帰国希望者への身元引受人制度設立

 94年 4月 残留日本人の帰国・自立支援法が公布

 2000年 9月 残留日本人らが「中国養父母謝恩の会」を結成

 02年12月 東京地裁で残留日本人ら629人による国家賠償訴訟。計15都市で提訴

 07年12月 残留日本人に対する改正支援法公布。老齢基礎年金の満額支給など

 ※厚生労働省、満蒙開拓平和記念館(長野県)などの資料を基に作成

…………………………………………………………………………………………………

 ◆ことば

 ◇満蒙開拓団

 中国東北部で、1932年に日本が傀儡(かいらい)国家「満州国」を樹立。45年8月の終戦直前まで、全国約27万人が送り込まれた。出身県では長野の約3万8000人が最多。山形県の約1万7000人が続いている。国内の人口問題解消と食糧増産に加え、ソ連との国境地帯強化を狙ったとされる。45年8月9日にソ連が対日参戦。約8万人の開拓団員が集団自決、餓死、凍死、病死などで犠牲になった。

◆写真説明 帰国した陳家東さん(中央)一家を迎える父親の冨井英男さん(左)=大阪空港で1981年

◆写真説明 政府に謝罪と賠償を求めて山形地裁へ提訴に向かう残留孤児、家族、弁護団ら(山形市で2005年6月17日に撮影)=日中友好協会山形県連より提供

 

https://mainichi.jp/articles/20171214/ddl/k06/040/094000c                                                                      

満州と山形(その1) 72年後の「再会」に握手 二つの家族・佐藤家と高橋家、逃避行で離れ離れ /山形2017/12/14 毎日新聞

 

 2017/12/14 毎日新聞/山形

 

 旧満州(現中国東北部)に戦前日本政府が送り込んだ「満蒙開拓団」の県内関係者2人が13日、米沢市内で対面した。ソ連国境近くの同じ開拓地に植民し、逃避行のうちに離れ離れになった二つの家族。72年後の“再会”となった。2017年は日本と中国の国交正常化45周年。来年には平和友好条約締結40周年を迎える。【佐藤良一】

 板子房(ばんずふぁん)置賜郷開拓団の佐藤家と高橋家。佐藤安男さん(80)=高畠町=は自身も入植した。渡辺憲一さん(77)=米沢市=は、投身自殺した故高橋やおさん=当時31歳=の夫、力介さんのめいの息子。公益財団法人「農村文化研究所」(米沢市六郷町)が仲介した。

 「いろいろつらい体験をなさったのでしょう」。同研究所の運営する戦争資料館。しわの刻まれた2人の手と手がしっかりと合わさった。安男さんは中国残留孤児。中国では日本人としていじめられ、帰国してからはたどたどしい日本語のために差別を受けた。そうした人生が語られ、憲一さんは目頭が熱くなった様子。「二度と戦争を起こしてはいけません」。2人は声を合わせた。

 板子房置賜郷開拓団はソ連侵攻4日後の1945年8月13日、75キロ離れた西南の中核都市・佳木斯(チャムス)へと出発。しかし、地元民の匪賊(ひぞく)に襲撃され、開拓団は二分された。佐藤家は開拓地に戻ることを選択。父親は関東軍に現地召集されており、母親、安男さん、弟、妹の4人だった。高橋家はやおさんの夫が同様に現地召集され、やおさんは娘の弘子さんと共に予定通り、佳木斯に向かうことを選んだ。

 しかし、開拓地も匪賊に囲まれ、合流組を含めた約380人は集団自決を選択。佐藤家は脱出するが、逃避行の過程で安男さんと弟だけが生き延びる。高橋家についてはやおさん、弘子さんが松花江に身投げしたとされる。

 この日の対面に先立ち、憲一さんは亡くなった母が持っていた1枚の写真を同研究所の戦争資料館に寄贈している。やおさんの家族3人が旧満州に旅立つ直前、旧国鉄・米坂線の羽前小松駅で親族が見送ったという。3人のほか、当時2歳の憲一さんも写っている。

◆写真説明 固く握手する渡辺憲一さん(左)と佐藤安男さん=米沢市六郷町の農村文化研究所・戦争資料館で

◆写真説明 旧満州に出発する高橋やおさん一家と見送る親族ら(前列右から1人目が2歳の渡辺憲一さん、同3人目が高橋力介さん、同4人目が高橋弘子さん、後列右から4人目が高橋やおさん)=川西町の米坂線羽前小松駅で1942年6月に撮影、渡辺憲一さん提供



「アクタス村の阿彦ーカザフ人になった日本人」

2017年12月22日 23時18分25秒 | 取材の周辺

 12月21日(木曜日)2時半から、赤坂区民センターで行われたカザフスタン共和国大使館主催のミュージカル劇「アクタス村の阿彦ーカザフ人になった日本人」に行ってきました。阿彦哲郎さんご本人もいらしていて、最後に壇上に立たれた。この劇を、北海道に住む三浦正雄さんと伊藤實さんに見せたいと思いながら観劇した。

 カザフ語はもちろんわからないのだけれど、同時通訳があると聞いていた。受付でイヤーホーンを渡された。音楽の音量が大きすぎて、時々同時通訳が聞き取れないところがあったが、初めての試みとの事。26日の公演では改善されているといいと思う。

 内容は、実話とは微妙に違いがあるように思う。それでドラマとして成功しているのだろうと納得する。収容所で詩人から詩集は預かったけれど、その娘さんと結婚したわけではないのではないかと思う。(まあ、ここはドラマなので。)

 終戦直後、阿彦さんはサハリンから、いわゆるシベリア送りになる。いくつかの収容所(ウラジオストック、ハバロフスクなど)を回されて、最後はカザフスタンのカルラグ収容所に。1956年には一緒にいた6人の日本兵は帰国することができたが、民間人の阿彦さんは帰国できなかった(三浦正雄さんも同じような経験をしている)。その後、現地の女性と結婚し、一男一女に恵まれる。1980年代に奥様が事故で亡くなり、現在の奥様とは再婚。1994年、64歳で、一時帰国が実現する。2009年に、以前取材したことのある伊藤實さん、三浦正雄さんの住む同じ団地に永住帰国をするが、日本に馴染めず(「特に奥様が」と聞く)、またカザフスタンに帰ることになった。

阿彦哲郎さんと同じように軽微な罪でシベリア送りになり、長い年月、日本に帰ることができずアフガニスタンで暮らした伊藤實さんと三浦正雄さんの半生も、是非多くの方に知っていただきたいと思います。伊藤さんは今年90歳になります。

私のホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」

伊藤實さんhttp://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/about1-cyio

三浦正雄さんhttp://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/about1-c1ghb


指田忠司さん 塙保己一賞を受賞

2017年12月17日 15時29分53秒 | 日記

 昨日、埼玉県主催 塙保己一賞の授賞式が本庄市児玉文化会館において行われた。受賞者の指田忠司さんとは古い友人で、ガイドヘルパーを依頼され、行ってきました。彼はヘルパーの必要がないくらいご自分で何でもできてしまう。当日もショートメールでやり取りし、予定より1本早い電車の6号車にいることがわかっていた。電子機器の発達で、障碍者の自由度は格段に向上した。昔はパソコン操作も、オプタコンという2、3千万円する機器が必要だったと記憶している。大宮駅で乗り込み、すぐに彼を見つけた。私の第一声、「髪が薄くなったね」。すると彼は、間髪を入れず「白髪が増えたね。」と応酬した。「へへへ、残念でした。しっかり染めてきました。」とかわした。昔からずっとこんな調子だった。

  出会いがいつなのかはっきりとした記憶がない。たぶん大学3年生の時、京都で日本社会福祉学会があり、その時、ライトハウスに泊まったメンバーと、その後も自主的な研究会などがあり、そのメンバーだったのではないかと思う。彼に確認すると、彼も記憶が曖昧で、「たぶんそうだろうと思う。」との事。大学時代、何度か彼のガイドヘルパーもした。

 古い友人というのは、相手の人生と自分の人生を合わせ鏡のように映し出す作用があり、10年会わなくても若いころに議論した社会福祉に対する共通の思い、理想や夢を共有しているという安心感がある。彼は私に弱点を見せるし、私は遠慮なく私の意見を言う。研究に行き詰った時、何時間も愚痴を聞いてもらったこともあったそうなんだけれど、そんなことはすっかり忘れている。

  彼は、川越高校時代、体育の授業中、腕立て前方回転の補助をしていた時に、足が勢いよく目に当たって、網膜剥離で失明した。教育大付属盲学校に転校し、素晴らしい先生方に出会ったそうだ。その後早稲田ゼミナールに通い、早稲田大学法学部に入学する。最初は司法試験を目指していたが、独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構 障害者職業総合センターの研究員になる。定年退職後は特別研究員として現在も勤務している。

  忘れられない出来事がいくつかある。

 大学時代、彼のガイドヘルパーとして社会学者(経済学者)の高島善哉氏のお宅をお訪ねしたことがあった。高島先生も全盲で、池田先生(かろうじて名前だけ憶えているが、所属がどこか何を教えていた先生か記憶がない。)が、彼を励ますために連れて行ってくれたのだろうと思う。その家はとてもクラシカルで素敵な洋館だった。床の木肌がピアノのように磨かれて光っていた。奥様が紅茶とケーキを出してくださり、冬だったので、私にはひざ掛けまで掛けてくださった。そのふるまい、物腰、気遣いにいたく感激し、21歳の私は美しく老いたいものだと思ったことを覚えている。それなのにその時の話題は何ひとつ覚えていない。にわか仕立てで高島先生の「社会科学入門」を読んで行ったように記憶している。

  また彼の結婚式での出来事。仲人は、元早稲田大学総長 西原春夫先生で、私のテーブルには、夫の知人であるYさんも座っていらしていて驚いた。Yさんは彼の職場の上司になっていた。夫とYさんは、国家公務員 同期入省(彼は厚生省、夫は通産省)で、府中かどこかの研修所で一緒に研修を受けたことがあったらしい(夫は2,3年後、方向転換)。その後、「身障友の会」「柏朋会」などで私もご一緒したことがあったので、Yさんもびっくりなさっていらした。私は結婚式の最後のスピーチに感動して号泣したのだけれど、その内容は覚えていない。思い出せない。Yさんは、長い間柏朋会の中心的幹事を担っていらした。編集委員の求めに応じて、夫も機関誌『ザ・トド』に寄稿したことがある。ある大学の学長を最後に、引退なさって郷里に帰られたと聞いていた。そして車いすで散歩中、崖から落ちてそれが遠因でお亡くなりになったと、柴又に住むこれまた古い古い「身障友の会」の友人に伺った。

  それから、上智社会福祉専門学校で講師をしていた時の出来事。指田さんを外部講師として、一度お招きし、「障碍者雇用の現状と課題(たぶんこんなテーマ?)」についてお話していただいたことがある。すると、学生のひとり Hさんのお父さんが、大学時代、指田さんの点字翻訳や朗読ボランティアをしていたということがわかり、やはり不思議なめぐりあわせに感嘆したものだった。

  今回の授賞式には、彼の川越高校時代の恩師(80代)、川越に県立図書館があった頃の朗読ボランティア、点字図書館関係者や福祉関係の友人・知人など、実に沢山の方が、彼の受賞を喜び、お祝いに来てくださっていた。その人たちの「指田さん」という声かけを聞いただけで、彼は瞬時に声の主が誰なのかを理解し挨拶していた。平凡な言い方だけれど、こんなに多くの方々が来てくださったのは、彼の人徳なのだろうと思う。1月20日には、周りの人々が受賞祝賀会を予定してくださっている。長年会いたいと思っている共通の友人に会えるチャンスでもあるが、残念ながら変更の出来ない予定が入っていて、私は参加できない。 盛会をお祈りしています。

 

<以下は埼玉県のホームページより抜粋 >           

 

第11回(29年度)受賞者について(年齢は平成29年4月1日現在)

 ○ 大賞 指田 忠司(さしだ・ちゅうじ)氏(64歳)

   視覚障害(全盲)。障害者職業総合センター特別研究員、日本盲人福祉委員会常務理事。

 

県立川越高校時代に両眼失明となるが、盲学校を経て早稲田大学に進学、その後卒業。

平成20年~23年まで世界盲人連合アジア太平洋地域協議会の会長を務める。視覚障害者の国際団体会長に日本人が就任するのは初めて。

平成6年より週刊点字新聞に海外の視覚障害者事情に関するコラムを連載するなど、視覚障害者の国際理解と文化交流の推進に貢献している。

 


アウシュビッツ博物館ガイド 中谷剛氏 母校佐野高校で講演

2017年12月05日 12時33分56秒 | 取材の周辺

 先日、満蒙開拓平和祈念館の関係者から電話があり、アウシュビッツ博物館ガイドの中谷剛氏が来館予定であると教えてくださった。私は早速中谷氏本人にメールを出し、関東近県での講演予定を伺った。すると、彼の母校である栃木県の佐野高校で12月4日、講演すると言う。

 佐野高校は、父の叔父がその昔、「博物(生物)」を教えていた。小学生の頃、お彼岸やお盆に、バス停に彼を迎えに行くのは私の仕事だった。そして家までの道のり、ポケットから明治の板チョコを出して私を喜ばせ、道端の雑草の名前や由来を教えてくれるのが常だった。栃木中学(現 栃木高校)時代の教え子が国会議員になり、彼の忖度で、亡くなる前に勲4等瑞宝章を受章したことを、父は自分の事のように喜んでいた事を思い出す。その父も亡くなり、実家の家屋敷は菩提寺に寄進し、永代供養をお願いしている。

 私は佐野女子高の卒業生なのに、故郷の教育事情にとんと疎遠になっていた。クラス会もしばらく開かれていない。現在は、佐野高校も佐野女子高も共学になっていて、母校は佐野東校と名前も変わっていた。佐野高校は中高一貫校になっていて、中学で3クラス、高校入試で1クラスの募集だという。私の頃には9クラスあったので、その話を聞いて今更ながら少子化を実感する。隣の足利高校と足利女子高も、近々統合されて1校になるという。

 また、佐野高校は、平成28年度から、文部科学省のスーパーグローバルハイスクール(SGH)の指定を受けたそうで、今回の中谷さんの講演は、その一環であった。

 体育館には、中高生、700名以上と教職員、PTA関係者、報道関係者など、総勢800名近くが集まっていた。講演全体が中高生向けのものなので、最初は、ご自分の子供時代の経験から現在の自分につながる出来事を話してくれた。

 「よそ者」という言葉が講演全体のキーワードになっていたように思う。中谷氏はもともと関西の出身で、小学生の時、足利市の御厨小学校に転校してきて、関西弁しか話せない自分を「よそ者」と意識し始めたという。それが、ご自分の強みにもなって、現在につづいていると。

 詳細は、講演のビデオを直接見ていただきたい。本人の了承を得ましたので、私のホームページで期間を区切って、12月10日から31日まで、公開します。http://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/blank-35

 2年前の10月にアウシュビッツを訪ね、中谷さんの案内でアウシュビッツ博物館を見学した。その時の様子はこのブログに書いたことがある((2015年11月01日 )。その旅行の前に、現・飯田日中友好協会理事長の小林勝人さんから歌集『伊那の谷びと』が送られてきた。その本を読んでいたことが影響していたのかも知れないが、アウシュビッツ訪問時、「短歌のようなもの」が、降りてきた。短歌など作ったこともなく、短歌とは無縁に生きてきたので、ルールも何も知らない。ただ泣きながら作った。いい機会なので、このブログの最後に記録しておくことにする。

 中谷さんは、アウシュビッツ・ビルケナウに毎日いてガイドをしていて苦しくないのかしらと思う。私は3時間余りしかいなかったが、とても苦しかった。

 また、中国残留孤児・残留婦人のインタビューをして背景など調べるために先人が書いた手記など読んでいるととても苦しくなることがある。最近の事では、『さいはてのいばら道―西土佐村満州開拓団の記録―』を読んでいた時もそうだった。「おかあちゃん、死んじゃいややー」と叫んでいるのがいつの間にか自分になってしまっているかのように、感情移入してしまう。そうするとしばらくそういう事の一切合切、すべてから離れて、ミシンを出して悪戯したり、無心に草取りしたり、シフォンケーキを焼いたり、タルトタタンのレシピを探したり、友達を呼んで海の幸の贅沢カレーを作ったり、温泉に行ったりして、気分転換をする。時々気分転換が長引くこともあるが、自分の精神衛生が一番大事と割り切って、気の進まないことは敢えてしない。我が儘を貫いている。今、その真っ最中にいる気がする。彼はそういうつらさに襲われることはないのだろうか?生活の糧と割り切れるのだろうか?アウシュビッツ・ビルケナウの大地からのエネルギーに負けそうになる時はないのだろうか?そんな時はどうするのだろう。抜け出すにはどうしたらいいのだろう。この頃は、抜け出さずにグズグズしている自分と馴れ合って「まーだだよ!」と、しゃがみこんで頬かむりしている自分がいる。

 

<以下、アウシュビッツ連作短歌>

 

七十年アウシュビッツの地に生きる白樺大樹の水脈の音聴く

 

「働けば、自由になれる」逆さのB 込めし反骨わずかな自由

 

一瞥できめられしとふ労働かガス室送りかそこに医師居り

 

博物館(ミュージアム)にジェノサイドの記憶ありありとメガネ、革靴、毛髪の山

 

ありありふれた 家族 日常 そのどれも 愛しきものと遺品は語れり

 

立ち尽くすわが目の前の靴の山小さき靴の赤つきまとふ

 

やわらかき髪を梳きつつ明日を語る果たせぬ明日持つ幾万の髪の毛

 

命を生み育むといふ平凡を生き得ず毛髪の山を残せり

 

毛髪で織られし絨毯見てしより無声映画の中をさまよふ

 

諦めて抗うことなくガス室に走る少女らの裸体「よく見よ!」

 

 クレマトリウムの煙突からは人燃ゆる煙見えけむ人燃ゆる煙

 

生き抜こう生きたいといふ強い意思で死体運びす特命労働隊

 

「死の門」に生への渇望運び来て引き込み線の錆荒びおり

 

降車場の有蓋貨車はそこにある百六十万余の命を運びて 

 

 落ち葉踏み己が呼吸を整えよホロコーストのありしこの地で

 

「死の壁」に花束供えし人のあり近寄りがたき祈りのすがた

 

幾百も連なるビルケナウの収容棟みぞれ降るなり墓石なき墓地

 

 想念をショパンのエチュードに乗せて胸苦しさを回避せんとす

 

土曜には隣の小さな教会で結婚式もある絶滅収容所

 

誰も皆泣くわけではないうろたへる自己をこっそりしまふ午後あり

  

ワルシャワはあまた戦禍を越え来たり修復痕もつ煉瓦に触るる

 

ルブリンの野生林檎の落葉やまず林檎残れり初雪抱きて 

 

ゲットーのあまたありけむルブリンで乳母車坂を登りて消ゆる

 


「日中国交正常化45周年・「中国残留邦人新支援法」成立10周年 記念のつどい」

2017年12月02日 00時14分49秒 | 取材の周辺

 

 11月11日、高知市自由民権記念館で、高知県中国帰国者の会主催の「日中国交正常化45周年・「中国残留邦人新支援法」成立10周年 記念のつどい」が開かれた。私は参加できなかったが、四国に住む大学時代の友人が参加して、その時の配布資料をわざわざ送って来てくれた。自由民権記念館は平和資料館・草の家のすぐ近くだそう。会場は満席で立っている人もいたという。長い間、県内の分校の教員をしていた友人は、どこに行っても知り合いが多い。この日も受付に友人がいて言葉を交わしたそうな。配布資料は中国語と日本語で用意されていたが、中国語の方はすぐになくなってしまったということだ。

「中国残留孤児がたどってきた道と日本社会に問いかけたこと」というテーマで、最初に神戸大学の浅野慎一先生の講演があったとの事。レジメでは丁寧に時系列に沿って問題点が、整理されていた。そして、たぶん国家賠償訴訟を通して見えてきた政府の考え方と帰国者の受け止め方の違いには、多くの時間を割いて問題点を投げかけたのではないかと推察される。そして、「新支援法の意義と限界」では、「国の責任を明確にしたものではなく、恩恵的な自立支援」と、その例を列挙されたと思う(レジメにあるので)。最後に、「「中国帰国者が日本社会に問いかけたこと」とは何か?」では、「語り継ぐべき戦争被害者」だけでなく、「言葉と文化の壁」だけでなく、歴史・社会・政治・行政・国際平和の問題にまで踏み込んで考えるべき問題と。

 あー!聞きたかったなぁー。20年以上前に会ったきりなので、挨拶しても気付いてもらえないだろう。昔は家人にトドと呼ばれていたが、今は「うちのクマさん」と呼ばれている。時々娘が宇多田ヒカルの「ボクはクマ」を私をからかいながらふざけて歌うと、原曲を聞いたことのない夫まで、相和して歌う。所沢の帰国者センターが閉鎖になる少し前、コピーしたい本があり、伺ったが、先生方は20年間の私の太りように唖然としておられた。その時お会いできなかった先生に、今年4月の聖蹟桜ヶ丘の拓魂祭でお会いし、挨拶をしたら、「誰ですか?」と、言われてしまった。数年間、プロジェクトで月1回は会っていたというのに。

 話を戻そう。レジメを読んだ私の感想。常に帰国者の立場に立って研究を進めてこられた浅野先生らしい講演だったのではないかと推察します。中国帰国者は、ともすれば「語り継ぐべき戦争被害者」としての側面にのみ、多くの光が当てられてきたのかも知れません。それは一番大事なことに違いありません。まず知ってもらう事。彼らのひとりひとりの人生が、日々、どのような喜び悲しみで彩られ形成されてきたのか。日本人には想像もできないことを彼らは経験してきたのですから。そして、そこから彼らは立ち上がった。国家賠償訴訟では、ただ泣いているばかりの戦争被害者から、力強く各地で戦う姿を示した。

 長く中国帰国者問題と言われてきたのは、実は帰国者を受け入れ始めて見えてきた日本社会の問題だった。そしてそれが、ともすれば、言葉(日本語習得)と異文化障壁の問題に安易にすり替えられてきたのだ。それが、押し込めきれず噴出した80年代、各地の第二種県営住宅などで発生した地域コンフリクト、子どもの居場所をめぐる問題として顕在化したチャイニーズドラゴンの発生(暴走族のTOPに残留孤児二世が)、日本語学習に夜間中学が果たした役割(岩田先生はお元気かしら?)、様々な出来事が思い起こされる。

 日々様々な記憶が薄れていくので、覚えていることを記しておこうと思う。最初に東京で先行裁判をしようという話になって、当時の中国帰国者の会の事務局長・長野さんと会長・鈴木則子さんを中心に、岩田先生、庵谷巌さん、石井小夜子(弁護士)さん、私で集まった(名前は忘れたが、もう一人、都の福祉行政に長年携わっていらした方がいたと思う)。

 その後、何度か話し合いがもたれたが、私は一身上の都合(たぶんこういう時に使うのがもっとも適切な言葉なんだと当時を振り返る)で参加できなくなった。その後、結審してから裁判記録が送られてきた。私の修士論文が、裁判の証拠品として使われたことも知った。それは、昔、東京都作成の「自立指導員の手引き」に書かれていた『中国帰国者は、自分が自立(生活保護脱却)してからでないと、家族を呼び寄せてはいけない』という内容だったと記憶している。そのように言われた帰国者の証言と共に、記されていた。

 同志としていろいろなことを話し合った長野さんが亡くなったことも知らずに年月は過ぎた。

 当時、飯田橋にあった弁護士会に呼ばれ、帰国者の援護政策について話をさせていただいたこともあった。その場に弁護士ではないけれど、菅原幸助さんもいらした。資料をたくさん持って行って、しばらくお預けしていた。2年前にそのことを思い出して返していただいた。その資料を見ると、その頃の情熱がどこから湧いて来たのか不思議な気がする。今は、やりかけの仕事を、「やらなきゃ、やらなきゃ。」と思いながら、いっこうに進まないのである。

 老害に入りつつあると感じる日々。大学生から卒論のために問い合わせなどあると、嬉しくてホイホイ協力してしまいます。ただし、紹介依頼があった時は、メールだけでなく学生本人に会って帰国者の承諾を得てから紹介しています。若い人が興味を持って調べてくれるのはとても嬉しいことです。この仕事も、若い人に引き継いでいきたいと感じている今日この頃です。