「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」ゲストブック&ブログ&メッセージ

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沖縄取材報告②

2017年02月19日 08時43分24秒 | 取材の周辺

 


 昨年の沖縄取材では、3名の方に取材しましたが、その中のおひとり、No.5さんは、インタビューから3か月後にご病気でお亡くなりになっておられ、残念でなりません。今年お会いして、彼の疑問点を晴らすお手伝いをしたいと思い、資料を印刷して持って行ったのでしたが、役には立ちませんでした。

 今年は、「中国残留孤児・残留婦人の証言」で4名(実数は5名)、「周辺の証言」で、8名の方にお会いする事が出来ました。

 

 No,38さんは台湾生まれ。終戦後間もなく母親が再婚した義父の生家のある福建省で育った。帰国後は子供の教育などで苦労した。二胡の名士。

 No.39さんは自動車教習所で親身になってくれる先生と所長に導かれ、日本語が何もわからなかったのに、日本に帰国して8か月で運転免許が取れたとのこと。その恩は一生忘れないと。お母さんは永住帰国を希望していたが、許可がおりた直後に病気で亡くなり、あれほど帰りたかった日本に帰れなかった。

 No.40さんは文革の時、身の安全のため、中国籍をとった。中国の日本大使館に手紙を書いて、第2回目の訪日調査に参加した。テレビを見て、元開拓団の隣のおばさんが、「似ている」と見つけてくれた。

 No,41さんは「大陸の花嫁」だった残留婦人。「声だけ」を希望されました。残留婦人はもう数年でどこにもいなくなってしまいますから沖縄本島では貴重なインタビューです。

 実は、もうおひとり、インタビューさせていただきましたが、ご本人の希望で、ビデオは公開できないことになってしまいました。お会いするのに、待ち合わせ場所を2回変えられ、その意図がわかりませんでした。3回目の待ち合わせ場所である駅の近くの銀行の前で会う事が出来ました。それから彼の指示通りのファーストフード店に入りました。インタビューの趣旨を説明し、同意を得てビデオをまわしながらインタビューしましたが、後半では「戦犯の子孫たちや右翼に自分は狙われている」という不可解な話になってしまいました。インタビューの後、「インタビューは公開しないで欲しい」という風に変化しました。インタビューの中でも文化大革命の時の悲惨な経験は聞いていたのですが、再度当時の事をいくつか確認させていただいた。文革のトラウマを引きずってずっと生きてこられたのだろうと想像できた。昔、ほんの短期間、大学の留学生センターで「日本事情」を教えていた時期があった。その時、文革で下放され、ずっと後に大学・大学院と学び、中年になって中国の大学の講師になった留学生がいた。彼女は最初、時間が出来ると地元の日本語ボランティアサークルに出入りし、積極的に日本語を学んでいた。しかしそのうち、「つけられている」というようになり、日本語ボランティアサークルに行かなくなった。狭い町で、同じ日に同じ人に2度会うと、それは彼女の中では「見張られている」というように自動変換されてしまうらしかった。精神科医でもない私が、多くの言葉を労しても、そのトラウマから救い出す事が出来なかった苦い記憶がある。ビデオは公開できなくても、まだまだ文革のトラウマを背負った方がいるという事実を思い出させていただいたことは、感謝しなくてはならない。

 「周辺の証言」では「元ハルピン陸軍病院 従軍看護婦 金城文子さん」、「『沖縄と「満洲」の著者、山内ゆりさん、比屋根美代子さん』」、「沖縄満洲会の元会長 名城郁子さん」、「沖縄戦の戦災孤児だった神谷洋子さん」、「元白梅学徒隊の宮平義子さん」、「白梅学徒隊の山中さん」、「元伊漢通開拓団 川満恵清さん」の8名です。


元ハルピン陸軍病院 従軍看護婦 金城文子さんについては、2月6日のブログ、沖縄取材報告①に詳しく書かせていただきました。

『沖縄と「満洲」』の著者、山内ゆりさんと比屋根美代子さんについては、幸運な偶然が重なりお会いする事が出来ました。本当に素晴らしい本なので、多くの方に手に取って読んでいただきたいと思います。2年間、新聞の関係記事を洗い出すことに専念し、そこから派生する出来事を関係資料で調べ、人にあたり、その取材した人数は300人以上と伺いました。ジグソーパズルのピースをひとつひとつ埋めていくようにして、沖縄の中の満洲(一般開拓民)を完成させたのでした。この本は、沖縄の人々があの戦争をどう生きたか、客観的事実を集めて満洲を基軸に「小さき人々」の歴史を紡ぎ出すことに成功した。それはまさに空白の沖縄の歴史をしっかりと後世に伝えていく礎なのです。この本の存在によって沖縄の歴史が表情を持って浮かび上がってくる。沖縄の財産であるとともに、日本社会全体の財産です。それを歴史家でもない社会学者でもない4人の女性が長い時間をかけて丁寧に誠実に成し遂げたことに、深く深く敬意を表します。




沖縄満洲会の元会長 名城郁子さんは、昨年まで、沖縄満洲会の会長をなさって、沖縄平和記念公園でのシンポジウムなど、積極的に活動をなさっていらっしゃった。会員の高齢化やご自身の多忙、後継者がいないことなどから、閉会ではなく休会になさったとのこと。その活動の中で、貴重な体験記を綴った『沖縄・それぞれの満洲ー語りつくせぬ記憶ー(沖縄満洲会15周年記念誌)』と『戦時下の学童たち -那覇高六期生「戦争」体験記-』(琉球政府立那覇高校六期生(昭和28年卒)戦争体験記発行委員会)の出版は、大きな反響を生んだ。満州での豊かな子供時代の話など、是非ビデオでお話を聞いていただきたいと思います。



沖縄戦の戦災孤児だった神谷洋子さんは、お魚屋さんの女将さんで、店先でインタビューさせていただきました。沖縄では旧正月を祝う風習が残っているらしく、インタビューの最中にご近所の方が「あけましておめでとうございます」と、ご挨拶にいらっしゃった。沖縄戦のさなかを、どう生き延びたのか、肉声を聞いていただきたいと思います。奇跡の人です。

 元白梅学徒隊の宮平義子さんと山中さんは、現在、白梅同窓会の活動と平和のための活動を積極的になさっていらっしゃいます。沖縄の10の女学校すべてで「学徒隊」が結成され、沖縄戦の傷病兵の看護に当たった。おふたりは、沖縄県立第二高等女学校の生徒だったので、「白梅(同窓会誌の名前)学徒隊」として第二十四師団「山」部隊の第一野戦病院に赴いた。多くの仲間が亡くなった、と。

  元伊漢通開拓団 川満恵清さんは、息子さんが、両親から聞き取りし、纏められた『母に生かされて』(非売品)という本に詳しい。当時の八重山の開拓民の暮らしなどが書かれていて興味深い。日本に帰国後は、長く歯科技工士として働き、同じ伊漢通開拓団の方々と「伊漢通会」という会を月に1度、10年前まで開いていたとのこと。その中では一番下だったので、今は誰も残っていないとのこと。

 

 <おまけ・車椅子旅事情>

 

1、ひめゆり平和記念資料館(〇)

 玄関の左前の藤棚に、咲き方はノウゼンカズラに似ているのですが、色はジャカランダの薄紫に似ている花が夢のように垂れ下がってたくさん咲いていました。心を鷲掴みにされ、何枚も写真を撮りました。

 入口には、車椅子が用意されていて、スムーズにお借りする事が出きました。不便なことは何もなく、車椅子返却後も、係の方が帰り道の最短を案内してくださいました。私たちは2回目の見学だったので、記憶をなぞるように思い出しながら見学しました。

 

2、南風原町立南風原文化センター(◎)

 沖縄戦の事や、終戦直後の沖縄の状況について、いくつかわからないことがあり、友人に訪ねたところ、「南風原文化センターの学芸員の方にうかがうといい。」というアドバイスをいただき、沖縄陸軍病院 南風原壕群20号の見学もしたかったので行きました。

 玄関に置いてある車椅子は、自走式と介助式と両方ありました。これはとても便利です。自走式を選びました。本人が本人のペースで展示物を見て回る事が出来るからです。中の展示は驚くほど充実していて、沖縄の移民の歴史については初めて知りました。今回の少ないインタビューでも、親がフィリピンや台湾へ出稼ぎに行っていた話があり、うなずけました。20分間の映写は、沖縄戦の様子、飯上げのひめゆり学徒隊の様子など、わかりやすくコンパクトにまとまっていて素晴らしいものでした。私たちはゆっくり見学をしていたので、陸軍病院20号壕跡地見学の時間が迫っていることを失念していました。受付の女性が時間の確認に来てくださり、「駐車場から壕の入口までは遠いので、車椅子を車に乗せて行ったらいい。」と、親切にも貸してくださいました。

 

3、沖縄陸軍病院南風原20号壕跡地(◎)

 駐車場に着くと、壕の案内の方が待っていてくださいました。そして車椅子を押して壕の入口に連れて行ってくれました。見学者は私たちだけだったのですが、丁寧に説明をしてくださり、当時の壕の中の悪臭(糞尿と血と薬)を科学的に合成した匂いの入った小瓶を嗅がせてくれました。予約の時に車椅子使用の事は伝えてありましたが、せいぜい壕の入口までで、壕の中まで入れるとは思っていませんでした。懐中電灯で照らしながら、狭い2段ベッドの脇を通りました。学徒隊の方が看護する姿を思いました。最後に青酸カリを牛乳に混ぜて患者に飲ませた医師のことを思い、飲ませなかった医師のことを思いました。そしてまた、駐車場まで送ってくださいました。南風原文化センターに戻り、展示を最後まで見て、学芸員の方にいくつかの疑問点を伺いました。新たな問題意識も生まれました。初めての訪問だったせいか、見聞きするすべてが新鮮で、有意義な訪問でした。

 旅行中、私たちはその時の医師と学徒隊だったらどうするかを幾度となく話し合いました。「飲ませる」「飲ませない」の役割を交代して、ディベートのようなことをけっこう長い時間を使ってやりましたが、疲れて私からやめました。 

 

4、沖縄平和祈念資料館・平和の礎(×)

 2度目の訪問。沖縄平和祈念資料館の一番近くの駐車場に車を止めて、入口で車椅子を借りて資料館を見学しました。「証言」の部屋で、気が付いたら2時間くらい経っていましたが、連れも興味があったらしく、充実した時間を過ごす事が出来ました。その後、平和の礎を見学しようと思い、「屋外用の車いすはありますか」と、尋ねたところ、ないという返事。「本来ならば、駄目なんだけれど、特別に短時間ならこのまま使ってもいいですよ。」という、なんともはっきりしない、借りるわが身が卑屈になるような返事。「本来」、「駄目」、「特別」などの言葉が私の気持ちに引っかかり、「本来の方法で借りたいのですが、どうしたらいいですか?」と聞き返した。すると「左に行って右に行くと事務所があります。」という返事。連れに玄関を出たところの椅子で待ってもらい、受付のお姉さんの言う通り、左に行って右に行ったが事務所はない。結局平和の礎の外回りを一周して事務所にたどり着いた。お姉さんの「左に行って」は、左に行って(玄関を出て)という意味で、あったらしい。そこで車椅子を借り、緩い坂を降りて、資料館の玄関に戻りました。たぶん15分か20分くらいは待たせたと思う。二人で平和の礎から海を眺め、お祈りし、もう一度一周した。今度は、資料館の駐車場(資料館にも平和の礎にも一番近い)に置いてある車に車椅子を積み込み、数十メートル離れている平和の礎の事務所に車椅子を返却に行った。そこで、「もっと利用しやすいようにして欲しい」と申し入れた。すると、沖縄平和記念資料館は県の施設、平和の礎は財団の運営で管理母体が違うとの説明を受け、はじめて知って驚いた。同じ敷地にあって(厳密には「あるように見えて」)、運営母体が違うとは、誰が想像できただろう。歯切れの悪いお姉さんの言動が、やっと腑に落ちた。しかし、車椅子を利用する立場からは、資料館で車椅子を返して、資料館からも平和の礎からもはるか遠くにある事務所まで、杖をついて登って行って屋外用の車椅子を借りるのは、不合理である。だったら、平和の礎は、杖をついて歩いた方が、車椅子を借りに行くより歩かないで済む。何とか改善していただきたいものである。


 


嬉しいニュース!

2017年02月09日 15時24分54秒 | 取材の周辺

 

 今日は2月9日、午前10時。このホームページを立ち上げて、今日までで、こんな嬉しい日はない。

 たった今、発信者の登録名のない電話が携帯にかかってきた。第一声は、「お陰様で支援が出来ました。」何のことか、誰からの電話なのか、この頃反応の鈍い私の脳細胞は、理解するのに時間がかかった。

 要約するとこうだ。私のホームページの彼のインタビュー内容を、関係者が聞いて、新支援法の該当者になるのではないかと再調査をしてくれて、支援金を受け取れるようになったという喜びの報告であった。

 思いもよらぬ報告で、こんな形で役に立てたことが本当に嬉しい。実はこれまで、たくさんの方にインタビューしてきて、1番気になっていたことが、新支援法が出来ても、そこから漏れている帰国者の事だった。

 すぐに思い出す二人の事例を紹介しよう。

 その方は、ご本人に新支援法の受給の有無を聞いても、「何のこと?」といった反応であった。彼は1972年の日中国交回復直前に親戚の援助で帰って来ている。新支援法の(資産)調査を受けたかどうか尋ねると、嫌そうな顔をして、「生活保護は受けない。国民年金でなんとか暮らしていける。」と、頑なだった。生活保護と支援金は違うという事の説明はしたが、帰国当初に生活保護でよほど嫌な思いをしたのか、「家もあるし、夫婦二人の葬式費用も貯金している。今のままで何とかなる。」という返事だった。しかし、彼が受給している年金の額は、生活保護世帯の基準額よりかなり少ない。

 またある方は、夫婦二人で暮らしていたが、親思いの息子のひとりが心配して、中古の家を買い、一緒に住むようになった。そのため、新支援法が出来ても、何の恩恵も受けていない。「近所に住む同じ帰国者は医療費が無料なのに、私たちは夫婦合わせてもわずかな年金で、医療費も高く、結局、息子の世話になりながら、暮らしている。息子だって、結婚して家庭を作らなければならないのに、私たちが足かせになっている。」というような話でした。インタビューの中で、世帯分離の事を話しましたが、その後どうなったか、ずっと気にかかっている。

 地元の人々が長い年月をかけて帰国者を支援してきて、その中で築かれた信頼関係はとても貴重なものです。私の不用意な言動で、それを壊すようなことがあってはならないと常々思っている。だから、めったに介入するようなことはしないと決めている。支援者の協力があって、私は取材が出来るのだ。だが、この件に関しては、世帯分離の方法を考えていただいてもいいのではないかと、インタビューの後で、支援者の方にメールを出した記憶がある。心からの支援に携わっていらっしゃる方々なので、きっといい方向に動いたのではないかと、想像している。

  新支援法では、「子と同居している中国残留邦人については、子と同居していることを理由に給付金の支給が受けられないことがないようにする。」とありますが、多くの担当者は、「生活保護を準用」という原則に則って、世帯分離を法の網目の「逃げ道」のように誤解している節がある。東京都では常識でも、まだまだ地方では、担当者にさえ周知されていないことが多い。このようなケースでは、堂々と世帯分離を推し進めていただきたいと思っている。

 また、資産調査も多くの方々の支援金受給を立ち止まらせている。生活保護受給時のトラウマが今も根強く残っているのだ。それはケースワーカーから浴びせられた言葉よりも、親戚から浴びせられた言葉によってである方が多いように思う。昔は、親戚が帰国者を援助できない理由書を、福祉事務所に提出しなくてはならなかった。「生活保護は受けないという約束で、身元引受人になってやったのに」などと、言われたようだ。

  彼らのこれまでのライフヒストリーを聞いていただければわかる通り、満洲で孤児となって取り残され、日本に帰る手段などなく、中国の大地に育てられて成人したのだ。ほとんどの方が、日中国交回復まで日本に帰れなかったのだ。(そしてほとんどの方が、日本に帰国するまで、白米を食べる事が出来なかった。コーリャンやヒエ、粟が主食で、正月にだけ、肉の入った餃子が食べられたという人が多い。食いしん坊の私は、この事をほとんど全員に聞いている。白米を毎日食べられた人はほんの僅かしかいない。)

 それは彼らの意志ではない。この事実だけを考えても、孤児全員に何の制約もつけず、支援金を支給すべきではないかと思う。

 大雑把に考えても、おふたりのように、現在支援金を受けていない方(世帯収入超過、預貯金超過、新築のローン資産算定、生活保護のトラウマ等)は、全国で50人にも満たないのではないかと思う。これは、なんの根拠もなく、ただ、直接取材した人の中に5人いたということから、まったくの私の勘によるもので、もっと本音を言えば全国に30人にも満たないのではないかとさえ思っている。国にとっては大した金額でなくても、財政引き締めを図っている地方自治体にとっては、大きな金額であるかもしれない。そのために、支援金支給抑制が働くことがあってはならない。だからこそ、いろいろな制約を取っ払って、持ち家のローンが(資産として)あろうと預貯金が500万円以上あろうと、世帯収入が386万円を超えていようと、帰国者全員に支援金を支給できるように支援法を改正すべきではないかと思っている。


沖縄取材報告①「元ハルピン陸軍病院 従軍看護婦 金城文子さん」取材の背景

2017年02月06日 17時29分54秒 | 取材の周辺

 友人の紹介で、1月21日、沖縄に住む金城文子さんにお会いした。金城文子さんと友人のお母様は、終戦前、ハルピン陸軍病院の伝染病病棟で一緒に従軍看護婦として働いていた。宿舎の部屋も一緒だった。二人とも、終戦間近に院長の英断によりハルピンを脱出し、釜山経由で昭和20年9月29日、早々に博多に帰還している。その様子は、『7000名のハルピン脱出』『7000名のハルピン脱出 追補』(嘉悦三毅夫著、ハルピン陸軍病院院長。非売品。昭和46年8月出版)に詳しい。この本を友人からお借りし、知らない事ばかりで驚いた。「自序」には、以下の記述がある。 

「私の在職中最も大部分を占めたのは満洲国顧問時代で、満洲国軍の衛生医事関係事項、例えば満洲国軍事衛生部の編成、陸軍軍医学校、陸軍衛生工㡀、治安部病院の新設、満洲国赤十字社の創立などの仕事がありますが、(中略)本書の題名を「7000名のハルピン脱出」としましたのは、私の軍医生活中、ハルピン陸軍病院長として終戦直後、患者と共にハルピンを脱出したことが、私として1番の大仕事でもあり、記憶にも残っておりますので、題名とした次第です。(略)」

 本の題名になったハルピン脱出(引き揚げ)に関する記述は、全474ページの50ページにも満たない。満洲国軍事顧問時代の記述が大半を占める。その中には、高官やお金持ちは、当時一夫多妻であったこと、阿片のこと、住居の事など、日常生活に関する記述も散見され、当時の社会状況を知る上で興味深い。

 その本の中に、ハルピン陸軍病院は、満洲における陸軍病院としては最大のもので、収容定員6000名、医師約60名、看護婦約300名、衛生兵約300名、職員約300名。その他、病院の付属として農地約50町歩、乗馬及び耕作用として馬約25頭、乳牛10頭、豚約600頭、農地耕作農夫約300名を有していたという記述がある。食料は自給自足が出来るほどの規模を抱えていたことがうかがえる。

 嘉悦院長は、ソ連の参戦を予期し、ソ連との一戦を覚悟していた。しかし、衛生兵や傷病兵ではとても一戦が出来ないと思い、軍司令部からの「病気は治らんでもよいから小銃が持てるようになったならば、原隊になるべく多く帰すように」という再三の命令を無視し、引き揚げ数か月前から、治癒した健康な傷病兵約1000名を留め置いていた。彼らがいたために無事帰還できたと述懐している。この本には「傷病兵6000名近くと職員とその家族ら1000名が四ケ師団に分かれ、8月14日から17日にかけてハルピンを脱出した」とある。関東軍司令部とは連絡がとれず、院長の英断で大脱出が敢行された。その後の詳細は省くが、当時、「生きて虜囚の辱しめを受けず。」の戦陣訓が生きていた時代に、戦わずして南に逃げたことは、英断というほかはない。7000名以上の命が助かったのだ。帰国後、陸軍大臣に報告するも軍法会議にはかけられなかったという。当時は、戦陣訓のために、実に多くの命が失われた。満洲における集団自決や沖縄戦の集団自決などの悲劇を生んだ。嘉悦院長の英断のお陰で7000名と共に、金城さんも友人のお母様も日本に帰る事ができ、今沖縄と四国で穏やかな日々を過ごしておられる。

 友人が大学生の時の事。お母様が、沖縄に住む金城さんの事をたびたび口にするのを聞いて、お母様の為に沖縄に行って金城さんを探そうと決断した。結婚して名前も変わっているだろう。ハルピン陸軍病院にいたという情報くらいで見つかるかどうか、賭けであった。当時は沖縄が日本に返還されていなくて、パスポートが必要な時代だった。新聞社に尋ね人の記事を書いてもらうと、その小さな記事が金城さんの姪御さんの目にとまり、その日のうちに連絡がとれ、金城さんと友人は会う事が出来た。そして翌日の新聞の小さな記事になった。友人のお母様は、金城さんより5歳年上、今年97歳になられる。車椅子生活ではあるが、頭も気力もしっかりしていて、お元気に四国に暮らしておられる。沖縄と四国に住む二人の間には、電話と手紙によるやり取りが今も続いているそうである