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埼玉日本語ネットワーク30周年記念誌 ~いままで そして これから~

2022年12月18日 00時11分30秒 | 身近な出来事

 古希を目前にして、先日、30代後半に引き戻されるような出来事があった。埼玉日本語ネットワークの現在の代表、山尾さんからお電話をいただき、「今年で30周年になるので、初代代表として記念誌に寄稿して欲しい」というものだった。「30周年」にかなり驚き、30年の日々はどんなふうに流れ去ったのか、時を追って思い出そうとしても、時の断片しか思い出せない。その多くは二人の娘たちの成長記録と重なっていて、娘たちの年齢とともにかろうじて思い出せる程度の記憶しかない。あの頃は、人生は短いなんていう自覚がなかった。人生に終わりはないと信じているかのように振る舞って生きていた。それなのにいつも走っていた。そして今振り返ってみると、本当に短い。アッという間だったと思う。

 現在の代表は、設立当時の資料がないので、できれば活動している写真が欲しいという。10数年前に、膨大な写真類をデジタル化する機械を買って整理していたものが役に立った。そこで数枚の関係写真が見つかった。みんな生き生き楽しそうだ。30代後半(なんと30代ですって!)の私も楽しそうだ。埼玉日本語ネットワーク通信1号に一番ケ瀬康子先生の寄稿文を載せているということは、あの当時、大学院にも通っていたはずだ。毎日忙しく、アップアップしていた。自分がどんな人生を送るかなんて、まったく関心がなく、ただ日々、目の前の課題をこなすのに精一杯だった。

 人生は短い。想像以上に短い。もうすぐ70歳だなんて信じられない。たとえ女性の平均寿命まで生きられたとしても、あと20年もない。しかし自分の中の記憶は、数十年をさかのぼって旅ができる。先日、あることがきっかけで、当時15歳の私が何に悩み、何を考えていたのかを、認識させられる出来事があった。15歳の私との対話は、思いもよらないきっかけで、ある日突然ふっと舞い込んできたが、自分の芯に触れるような体験だった。記憶って本当に不思議だ。記憶は今まで生きてきたどの時間にも戻って、その時の自分に会うことができる。時には望んでいなくても、会いたくない自分にも会ってしまうことがある。

 年齢を重ねるということは、記憶を重ねること。歯医者さんで嫌な処置をされている時、カハラホテルのビーチベッドで寛いでいる情景を想像する。文庫本を膝に置いて喉が渇いたと思ったところに、ボーイさんが冷たいスムージーを運んできてくれる。幸せな時間。プルメリアの咲いているラッフルズホテルのプールで泳いでいると、ビルの谷間にいるとは思えない、軽井沢で聞いたことのある鳥のさえずりが聞こえる。幸せな時間。夫と共に家業をリタイアした時、娘たちがボンのケーキで祝ってくれた。幸せな時間。そんな幸せ時間を寄せ集めて思い出し、歯医者での嫌な時間をやり過ごすのが私の歯医者のかかり方になっている。
 先日、庭に春の球根をたくさん植えた。春になってコロナが落ち着いたら、代表ほか数人で、BBQをする予定。楽しい経験を重ねて幸福な記憶を積み上げることに、今は専念しよう。不穏な戦争の気配は遠くに追い払おう。

 振り返ってみると、たくさんの素晴らしい出会いに恵まれていたことが、現在の自分に繋がっていると、実感する。困った出来事があると、親身なアドバイスが飛んでくる。遠くに住んでいるにもかかわらず、しばらく会っていないにもかかわらず、「困った出来事」と、私の立場で考えてくれて、時間をかけてさまざまなアドバイスをしてくれる。なんと幸せなことか。


<思い出1>
 会場には、春原憲一郎先生が、アフリカ系の学生を伴っていらしてくださっていた。当時、日本語教師仲間と春原先生の授業見学をさせていただくため、たびたび(財)海外技術者研修協会に通っていた。毎回素晴らしい授業だった。『日本語ジャーナル』への1年間の連載の話を持ってきてくれたのも春原先生だった。中国帰国者のインタビュー動画を本にまとめている、と、年賀状に近況報告をすると、出版社を探してくれ、構成を考えてくれたりもした。しかし私は、先生が病魔に侵されているとも知らず、まず証言集を出してからと、先延ばしの返事をしてしまったのだった。そして先生は、2021年5月27日に逝去された。
 人生は選択の連続。その時は予測できなかったのだから、後悔しても仕方がない。春原先生はまさにレジェンド。伝説のように語り継がれるべき素晴らしい日本語教師だった。
<思い出2>
誰かが予約してくれて、近くの居酒屋で打ち上げをした。そこで食べた大きなアナゴの天婦羅がふっくらしていて美味しかった。ぺろりと平らげてしまって、それ以降、大食漢の汚名は雪げず。つい最近の出来事のように思い出す。
<思い出3>
フォーラム数日前(?)のリハーサルの時、日大演劇科の熊谷先生を古川先生が連れていらして、指導を受けた。演劇の指導というより、ボディーランゲージの可能性を探る身体運動のようなものだった気がするが、よくわからなかったというのが正直な感想。熊谷先生は演劇ワークショップの可能性を探るため、手弁当で私たちの指導に当たっていたのだ。2014年、46歳で急逝されたことを、最近になって知った。



<埼玉日本語ネットワーク設立30周年に寄せて>
                       初代代表 藤沼敏子
 先日、現在の代表の山尾さんから連絡をいただき「30周年記念誌」への寄稿を頼まれました。なんと30周年! 時の流れの速さにびっくり致しました。その後直接お会いして、私も山尾さんも似たようなムーミン体形になっていたので、ちょっとほっとして、共有できなかった歳月の長さに感慨深い思いを抱きました。長く日本語ボランティアを続けて来られた山尾さんはじめ皆様には尊敬しかありません。
 当時、私は埼玉県国際交流協会で日本語講座のボランティアコーディネーターをしていました。そしてある中国残留婦人と知り合いました。それがきっかけになって、日本語教育から中国帰国者の福祉問題に関心が移っていきました。同時にまたその頃、『日本語ジャーナル』(アルク)に1年間の連載を書いていたり、文化庁の中国帰国者のプロジェクトが忙しくなったりして、後任を春日部市で活躍していた元気の塊みたいな野沢光江さんに託し引退しました。
 さて、山尾代表から、設立当時の事を思い出してできるだけ詳しく書いて欲しいという要望をいただきましたので、覚えていることを記しておきたいと思いますが、私ももうすぐ古希を迎えますので、記憶違いや間違いもあるかも知れません。その節はどうぞご指摘くださいませ。
 設立が1992年と聞きました。その前に県内各地の日本語ボランティア有志が、何回か集まりを持ったと思います。記憶が不確かで、手元に残っている資料を検討すると、1995年には、埼玉県内の市町村の国際交流課や国際交流協会等に、日本語教育や国際交流について抱えている課題や疑問、問題点などをアンケート調査しています。この時は、埼玉大学の野元弘幸先生のご厚意で回収先を野元研究室が引き受けてくれましたので、埼玉日本語ネットワークの私書箱よりもだんぜん回収率が高くなったと思います。そのアンケート結果と考察を「定住を前提とする外国人の日本語学習ソーシャル・サポート・システムについての一考察―埼玉県の現状から―」(中国帰国者定着促進センター紀要4号1996.03.29発行)にまとめました。インターネットで読むことができます。      https://www.kikokushaenter.or.jp/resource/ronbun/kiyo/04/k4_06.pdf
 またこのアンケートによって、外国人の増加に戸惑っていた市町村も、国際交流や日本語教室の必要性などに関心を持つようになったのではないかと思います。市町村から県国際交流協会に日本語ボランティア養成講座の講師派遣の依頼が来るようになり、いくつかお手伝いさせていただきました。
 また、県民活動センターに於いて、日本語ボランティア養成講座を3年間担当させていただいたご縁で、生涯学習課から、なにかシンポジウムを開いてみてはという提案をいただき、1995年11月18日、県民活動センターにおいて「埼玉日本語ネットワーク交流会」を行いました。この時もシナリオ「ある日の日本語教室」を当日配るという荒業でした。主役の銭さんを車に乗せてシナリオを渡し、県活に着くまでの時間、車の中で役割を話しました。聡明で機転の利く銭さんは、シナリオを抜け出して素晴らしい個性を発揮し、会場を何度も笑いと共感の渦に巻き込み、大成功でした。野元先生がたくさんのおにぎりを差し入れてくれたことも思い出します。あとで担当者から参加者属性を伺うと、日本語ボランティア志望の人と公民館職員が多かったと聞き、冷や汗が出ました。実はシナリオに不親切な公民館職員を登場させていたからなのです。
 翌1996年2月17日には、ソニックシティー小ホールにて、「多文化共生社会に向けて ―日本語ボランティア活動とは―」というテーマで、演劇「心の扉を開くのは」という簡単なシナリオを用意し、フォーラムを開きました。その時の有志は、春日部の野沢さん、川口の合地さん、越谷の奥村さん、上尾の山尾さん、伊藤さん、小川町の斎藤さん、大宮の逸見さん、有木さん、千野さんなどでした。当時私は、国立国語研究所の日本語教育相互研修の研修生だったご縁で、日本語教育室長の古川ちかし先生(現、台湾東海大学教授)が日大芸術学部の演劇の熊谷保宏先生(故人)を連れて来てくださり、何が何だか分からない中で、ご指導を受けたことが懐かしく思い出されます。この時の様子は、『月刊 社会教育』「演劇を通して日本語教室のあり方を考える」(国土社1996.7)に記しました。
 毎回、ギリギリのドタバタであるにもかかわらず、皆さんのエネルギーが集結すると結果オーライになったのは本当に不思議でした。
 また、1997年には埼玉初となる『埼玉の日本語教室多言語案内‘97』(凡人社1997.02.10)を日本財団の支援で出版することができました。この時は出版に無知で、ISBMも知らず、後になってから、凡人社の知人がISBMをタダで割り当ててくださって、ノリ付きシールに印刷し、1冊ずつ貼っていったのを思い出します。その上いただいた総額すべてを出版費用にあてたため、作り過ぎて山のように本が残ってしまいました。
 当時、あのような活動をしていた私の最大の目的は、私たちの親世代、引いては日本社会全体に蔓延る外国人に対する差別や偏見を打ち破るのに、日本語ボランティアが緩衝材(あるいは起爆剤)になるのではないかと思っていたからなのです。直接接する中で、誤解や偏見を解消し、相互に新たな学びが生まれると思っていました。
 自分の都合で早々と辞めてしまいましたが、個性豊かな皆さんとご一緒に過ごした楽しい思い出は、私の人生の大切な一ページです。その後私事ですが、リタイア後、4冊の本を出版し、2021年9月、『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上・下)』(津成書院)が、第24回日本自費出版文化賞大賞を812点の応募の中から受賞しました。中国帰国者の取材も、紆余曲折あり、途中休みながらでしたがもうすぐ30年になります。終活が迫ってくる中で、まとまった形にできてひとまず安堵しているところです。
 道は違いましたが、日本語ボランティアという好きなこと、やりたいことをライフワークとして、長くやってこられたことは、皆さんの人生の誇りだと思います。いいことばかりではない様々な出来事があったことでしょう。それらを乗り越えてきたからこその30年の重みを想像しています。
 最後になりますが、埼玉日本語ネットワークの今後ますますの発展を祈念いたしております。