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指田忠司さん 塙保己一賞を受賞

2017年12月17日 15時29分53秒 | 日記

 昨日、埼玉県主催 塙保己一賞の授賞式が本庄市児玉文化会館において行われた。受賞者の指田忠司さんとは古い友人で、ガイドヘルパーを依頼され、行ってきました。彼はヘルパーの必要がないくらいご自分で何でもできてしまう。当日もショートメールでやり取りし、予定より1本早い電車の6号車にいることがわかっていた。電子機器の発達で、障碍者の自由度は格段に向上した。昔はパソコン操作も、オプタコンという2、3千万円する機器が必要だったと記憶している。大宮駅で乗り込み、すぐに彼を見つけた。私の第一声、「髪が薄くなったね」。すると彼は、間髪を入れず「白髪が増えたね。」と応酬した。「へへへ、残念でした。しっかり染めてきました。」とかわした。昔からずっとこんな調子だった。

  出会いがいつなのかはっきりとした記憶がない。たぶん大学3年生の時、京都で日本社会福祉学会があり、その時、ライトハウスに泊まったメンバーと、その後も自主的な研究会などがあり、そのメンバーだったのではないかと思う。彼に確認すると、彼も記憶が曖昧で、「たぶんそうだろうと思う。」との事。大学時代、何度か彼のガイドヘルパーもした。

 古い友人というのは、相手の人生と自分の人生を合わせ鏡のように映し出す作用があり、10年会わなくても若いころに議論した社会福祉に対する共通の思い、理想や夢を共有しているという安心感がある。彼は私に弱点を見せるし、私は遠慮なく私の意見を言う。研究に行き詰った時、何時間も愚痴を聞いてもらったこともあったそうなんだけれど、そんなことはすっかり忘れている。

  彼は、川越高校時代、体育の授業中、腕立て前方回転の補助をしていた時に、足が勢いよく目に当たって、網膜剥離で失明した。教育大付属盲学校に転校し、素晴らしい先生方に出会ったそうだ。その後早稲田ゼミナールに通い、早稲田大学法学部に入学する。最初は司法試験を目指していたが、独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構 障害者職業総合センターの研究員になる。定年退職後は特別研究員として現在も勤務している。

  忘れられない出来事がいくつかある。

 大学時代、彼のガイドヘルパーとして社会学者(経済学者)の高島善哉氏のお宅をお訪ねしたことがあった。高島先生も全盲で、池田先生(かろうじて名前だけ憶えているが、所属がどこか何を教えていた先生か記憶がない。)が、彼を励ますために連れて行ってくれたのだろうと思う。その家はとてもクラシカルで素敵な洋館だった。床の木肌がピアノのように磨かれて光っていた。奥様が紅茶とケーキを出してくださり、冬だったので、私にはひざ掛けまで掛けてくださった。そのふるまい、物腰、気遣いにいたく感激し、21歳の私は美しく老いたいものだと思ったことを覚えている。それなのにその時の話題は何ひとつ覚えていない。にわか仕立てで高島先生の「社会科学入門」を読んで行ったように記憶している。

  また彼の結婚式での出来事。仲人は、元早稲田大学総長 西原春夫先生で、私のテーブルには、夫の知人であるYさんも座っていらしていて驚いた。Yさんは彼の職場の上司になっていた。夫とYさんは、国家公務員 同期入省(彼は厚生省、夫は通産省)で、府中かどこかの研修所で一緒に研修を受けたことがあったらしい(夫は2,3年後、方向転換)。その後、「身障友の会」「柏朋会」などで私もご一緒したことがあったので、Yさんもびっくりなさっていらした。私は結婚式の最後のスピーチに感動して号泣したのだけれど、その内容は覚えていない。思い出せない。Yさんは、長い間柏朋会の中心的幹事を担っていらした。編集委員の求めに応じて、夫も機関誌『ザ・トド』に寄稿したことがある。ある大学の学長を最後に、引退なさって郷里に帰られたと聞いていた。そして車いすで散歩中、崖から落ちてそれが遠因でお亡くなりになったと、柴又に住むこれまた古い古い「身障友の会」の友人に伺った。

  それから、上智社会福祉専門学校で講師をしていた時の出来事。指田さんを外部講師として、一度お招きし、「障碍者雇用の現状と課題(たぶんこんなテーマ?)」についてお話していただいたことがある。すると、学生のひとり Hさんのお父さんが、大学時代、指田さんの点字翻訳や朗読ボランティアをしていたということがわかり、やはり不思議なめぐりあわせに感嘆したものだった。

  今回の授賞式には、彼の川越高校時代の恩師(80代)、川越に県立図書館があった頃の朗読ボランティア、点字図書館関係者や福祉関係の友人・知人など、実に沢山の方が、彼の受賞を喜び、お祝いに来てくださっていた。その人たちの「指田さん」という声かけを聞いただけで、彼は瞬時に声の主が誰なのかを理解し挨拶していた。平凡な言い方だけれど、こんなに多くの方々が来てくださったのは、彼の人徳なのだろうと思う。1月20日には、周りの人々が受賞祝賀会を予定してくださっている。長年会いたいと思っている共通の友人に会えるチャンスでもあるが、残念ながら変更の出来ない予定が入っていて、私は参加できない。 盛会をお祈りしています。

 

<以下は埼玉県のホームページより抜粋 >           

 

第11回(29年度)受賞者について(年齢は平成29年4月1日現在)

 ○ 大賞 指田 忠司(さしだ・ちゅうじ)氏(64歳)

   視覚障害(全盲)。障害者職業総合センター特別研究員、日本盲人福祉委員会常務理事。

 

県立川越高校時代に両眼失明となるが、盲学校を経て早稲田大学に進学、その後卒業。

平成20年~23年まで世界盲人連合アジア太平洋地域協議会の会長を務める。視覚障害者の国際団体会長に日本人が就任するのは初めて。

平成6年より週刊点字新聞に海外の視覚障害者事情に関するコラムを連載するなど、視覚障害者の国際理解と文化交流の推進に貢献している。

 


お彼岸を前にして 森 弘之先生のこと。

2016年03月12日 22時18分53秒 | 日記

  数年前に両親が亡くなるまで、「困った時の神様仏様」の仏様役は森弘之先生に担っていただいていた。「どうぞ見守っていてください。」と祈ると通じているような気がしていた。 

 先生との出会いは、大学3年の時、夜間の外語学校のインドネシア語のクラスでであった。本を数冊包んだ紫の風呂敷包みを小脇に抱え、時間を惜しむかのようにいつも小走りに移動していた。先生の授業は、のちに教授法の勉強をして知ったのだが、ダイレクトメソッド(直接法)という教授法で進められた。初めての経験だったので、とても新鮮だった。そして授業は「ソウダーラ、ソウダーリ!(同志よ!)」という呼びかけで始まった。それが訳もなく嬉しかった。受講者はほとんど社会人だったので、授業の後の飲み会が時々開かれ、先生もたまに参加してくださった。誰かが尋ねると失恋の話もさらっと披露され、アカペラで「悲しい酒」を聞かせてくださったこともあった。よく通る澄み切った声でまっすぐな歌い方だった。私は億目もなく「惜別の歌」をリクエストし、先生は応えてくださった。今になってもあの晩のことを思い出す。時々先生の「惜別の歌」をなぞってみたりすることもある。

 ある時、「ヘッセの『シュッダールタ』を読んだことのある人はいますか。」と質問され、「ハイ!」と答えると「毎年、数百人教室で質問しているが、あなたが初めてだ。」と。私は高校の時に読んだ本なので題名を「ゴータマ シュッダールタ」と勘違いして覚えていた。不安になって、内容を確認するように話すと、小さな三角の目で私の目の奥を覗いて「そうです。」と静かにおっしゃった。

 数年後のある日、当時の仲間がインドネシアで水死し、葬儀を先生の谷中のお寺で行うと連絡が来た。凛として清々しい僧侶としての先生に初めて対面した。その佇まいは、何もかも見透かされているような恐れを感じるほどで、正視出来ないくらい美しかった。先生の周りの空気は静謐だった。先生は「死者を思い出すことが死者を慰める事」というようなお話をされたように思う。その時の世話役を、東京女子大に就職が決まった鈴木恒之さんが担ってくれていたように思う。彼も一緒に学んだ仲間なのだ。

 その後先生から、先生の書かれた『東南アジア現代史1』(山川出版社 1977/5)が送られてきた。歴史に興味がある訳でもなく、学術書など読めないと思いしばらく打ち捨てておいた。ある日ふと手に取って読み出したら、ぐいぐい引き込まれて読み終わっていた。素人の感想を書いて先生に手紙を出した。その後、経緯は忘れたが田園調布に住むK女史と3人で紅葉の頃に食事をする機会があった。そしてそれからは年賀状だけのお付き合いになってしまった。と言っても先生は賀状を書かない方なので、一方的に1年に一度、「生きてますよ」と伝えるだけだった。

 それからずいぶん年月が経って、私は二人の子どもを産み育てつつ日本語教師になっていた。埼玉県県民活動センターで全12回の日本語ボランティア養成講座を3年間任された時、先生に「アジアの中の日本」というような「共生」をテーマにした講演をお願いしたいと無茶振りの電話をした。先生は「忙しいので助教授を紹介する」と言ってくださったのに、私はそれなら同じ立教の田中望先生にお願いすると言って、先生の申し出を断ってしまった。悔やんでも悔やみきれない。すでに先生の体調は思わしくなかったのかも知れない。お願いしていれば、そのことを知る事が出来たかも知れない。先生に会えたかもしれない。この時の事を思い出すと、いつも決まって「バカ!ばか!馬鹿!」と自分の頭を叩いてしまっている。

 1998年6月のある日、中国帰国者定着促進センターの紀要(拙稿「中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開」)と簡易製本の修士論文『中国帰国者の福祉問題―生活史および生活問題分析を通して―』を持って立教大学の研究室を訪ねた。お留守だったので、メモを挟み守衛さんに頼んで帰った。反応はなかった。それからまたしばらくして忙しい先生のお手をなるべく煩わせないようにと思い、往復はがきに近況を書いて谷中のご自宅に送った。すぐに奥様から電話があり、先生はすでにお亡くなりになっていたことを知った。

 それからまたずいぶん時間が流れて、人生の踏ん張りどころのただ中にいると思えるような時、墓前に花を手向けたく(先生とお話がしたく)、先生のお寺を訪ねると、先生のお嬢さんが対応してくださった。昔友人の葬儀の時、赤ちゃんだった方だ。その方が赤ちゃんを抱いていた。

 入院中は化学療法を拒み漢方の煎じ薬を奥様に作らせていたという。それでも本人は治るつもりで4月からの授業のことを考えていらしたという。

 それからそれからどうにもならない辛いことがあると、先生のお墓参りをしたくなる。お寺の方のご迷惑にならないように春秋のお彼岸の人の波に紛れて行くようにしている。

 ある日、夫の古本屋街探索に付き合っていると、偶然のことに、『インドネシアの社会と革命』(2000年4月10日。発行人:森弘之先生論文集刊行会)を見つけた。最初のページ、「解題」を読みながら「もしや」と思うとやはり鈴木恒之さんが書いた文章だった。いい文章だった。下駄を履いてパチンコ屋さんに通っているバンカラなイメージが、何故か根拠もなく定着しているのだが、あれから沢山の時間が流れ、立派な研究者になったようだ。その専門書を手にして、先生はきっと私でも読める言葉で書いてくださっているに違いないと思った。何のバックグラウンドの知識もないまま、先生の研究の足跡を辿ってみようと思いその本を抱いて帰った。アカデミックな文脈の中での歴史書としての位置づけはどうでもいい。一貫して「小さい人(または民)」からの発想で書かれている。森先生の本なのだ。この本を読みながら記憶の中に眠っていた小さなことが思い出される。先生がまだ東大の助手の頃、たぶん一次資料を漁る為、インドネシアの片田舎に行っていた時の事だと思う。何の慰めもない所で、「オレンジがとても美味しかった。」とか、「ある日、電車が時刻表通りに来て感動を覚えた。」とか、何気ない話が記憶の中に浮かび上がってきた。記憶って不思議だ。40年以上眠っていた何でもない記憶なのだ。あの頃のメンバーが集まったら、記憶の真偽を確認してみたい気もする。みんなが記憶している森先生を知りたい気もする。意味のないことなのに。私の中の森先生で十分な筈なのに。

 人は何時かは死ぬもの。本当は死後の世界なんて、何も期待していないのだけれど、先生に会えるかも知れない、亡くなった私の大事な人達に会えるかも知れない、と思うと、畏れの中にも楽しみを見いだせる。それでもまだまだ生きるつもりで、ラジウム温泉に入りに来たりしている。