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秩父の旧中川村開拓団 Tさんの証言

2019年03月02日 15時42分19秒 | 取材の周辺

 Tさんのページ  https://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/untitled-c1lrs

しばらくホームページのブログを更新していなかったので、友人から問い合わせメールがありました。ご心配をおかけしてすみません。元気です。

 ホームページで「Tさんの証言」をご覧になった方から、ずいぶん前にいただいた感想メールを、昨日再び目にする機会があり、私自身ゲラゲラ笑ってしまいました。本人の許可を得て公開します。以前スクールカウンセラーをしていらした方の感想です。

 Tさんのお話はぜひたくさんの方に聞いていただきたいと思います。秩父の旧中川村開拓団でした。終戦時12歳ですが、残留婦人と同じような不条理な運命を生き貫いて、今ふるさとに帰り、穏やかに生きています。お庭には色とりどりのダリアが咲き誇っておりました。

以下、いただいた感想です。

(略)すごく、個性的な方ですね。「わすれた。」が多くて、さぞかし、インタビューには苦労されたでしょう。特に年齢を聞き出すところは、最後の最後まで、先生があきらめず、子供さんの事や、結婚した年齢など、いろいろな視点から、永住帰国の年齢を探り出そうとしている様子が、漫才の掛け合いみたいで、一人で笑いながら聴いておりました。

  (先生)  「・・・・何歳の時でした?」

  (証言者) 「覚えてない。」

  (先生) 「覚えてないかー。」

 先生の開き直りとも、あきらめともとれる、このオウム返しが面かったですよ。ただ、この方は本来「終戦」というべきところを、ずっと「戦争」と言ってました。終戦がこの方には戦争

だったんだと思いました。最後に、自分のお母さんや弟達の死んだ経緯を語ってくれましたが、私には胸が締め付けられるような思いでした。

 12歳で一人ぼっちになった彼女は、まず、「一人で逃げた。どうして、弟と一緒に逃げなかったのだろう。私のせいで弟が死んだ。」「お母さんが自殺した。私はお母さんと弟を守れなかった。お母さんは私を置いて死んでしまった。」

 12歳の少女の心に残ったトラウマを見ました。子供は、自分を守るために、ものすごく怖い体験は忘れようとします。この方が最初に年齢を「忘れた」と言ったのはこの強烈な敗戦の体験、家族を無くした体験があったから。まだ、よく知りもしない人には話せなかったのだと思います。それは、「逃げた。」という言葉が何度も使用されている事と無関係ではありません。自分一人逃げて、生きてきた事にずっと負い目を感じていたのだと思います。一人だけ助かった事を、外の人に咎められはしないかと、ずっと怯えながら隠し続けきたと思います。その一方で、目の前の過酷な現実は、いやが上にも、どうにかして生きていかなければならない、悲しみに浸っている場合ではなく、自分の明日の命を守らなければいけない現実があります。彼女の口から、「しかたのなかった事だったのだ。」という言葉をきいた時には、彼女は救われたと思いました。自分を自分で責めなくて済みます。先生と話をするうちに、だんだん心を許していったのでしょう。最後は笑い声さえ出して。この心の奥の重い記憶は、先生に打ち明けることで、また少し軽くなったと思いました。最近、戦争体験者、原爆の体験者、大陸からの引揚げの体験者など、次々と話をしてくれるようになりました。それは自分たちが老いて、戦争が風化していく事を恐れたからだと思っていましたが、もちろん、それもあろうかとは思いますが、この、トラウマによる事も原因ではないかと思ってます。終戦直後は、忘れたかったでしょうし、公表してはいけない事もあったでしょう。長い年月が過ぎて、やっと自分達のトラウマから少しずつ、心が解放されてきたのだと思います。

 「誰も悪くない・戦争が起ったことが一番悪かったのだ。仕方の無かった事だった。」と考えられるようになったのでしょう。

 この方の、「今は幸せ」という言葉が、悲しみをいやしてくれます。(略)