「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」ゲストブック&ブログ&メッセージ

左下のブックマークをクリックするとホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」にアクセスできます。

本日の東京新聞夕刊一面

2020年08月24日 21時23分06秒 | 取材の周辺
 本日の夕刊一面で、『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上)(下)』(津成書院)の記事が大きく紹介されていました。たくさんの方の目に留まって読んでくださる方が増えたら嬉しいです。東京新聞川越支局の中里宏記者は、こんなにぶ厚い本を読むのは大変だったろうと思いますが、よく読み込んでいてくださっていて、それがインタビューでこちらに伝わってきました。法政大の高柳俊男先生のご推薦から始まって、このような立派な記事にしていただきまして、感謝に堪えません。
 以下は東京新聞のネットニュース https://www.tokyo-np.co.jp/article/50777?rct=national

法政大学 高柳俊男先生のインタビュー記事(大正大学『地域人』No.60)と「推薦の言葉」

2020年08月18日 20時39分32秒 | 取材の周辺
拙著『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上)(下)』に、推薦の言葉を書いてくださった法政大学の高柳俊男先生のインタビュー記事が、大正大学『地域人』第60号に掲載されました。留学生のフィールドワークの様子を知ることができます。その中に、私の本の「推薦の言葉」に書かれていた三六災害の『濁流の子』碓田栄一氏のことも、郷土史の文脈の中で紹介されていましたので、全体像を探ることができました。感想を寄せてくださった多くの方が、高柳先生の「推薦の言葉」に感動したと記していますので、ここに一緒に紹介することにします。







《推薦の言葉》                         
藤沼敏子著『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち』に寄せて
「不条理な過去を未来へとつなぐために」
                   法政大学教授 高柳俊男
藤沼敏子さんとの出会い
 私が藤沼敏子さんという人物を知ったのは、いまから四年前の2016年だった。その春、私は前年に歌集『伊那の谷びと』を自費出版した小林勝人さんをお招きして、歌に込めた想いなどを伺うイベントを、長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館で開いた。というのは、私の所属学部では2012年度以来、伊那谷を舞台に夏休みの学生研修を実施しており、私がその担当者を拝命している。満蒙開拓や中国人強制連行をはじめ、かつて生業だった養蚕や近年の過疎化など、小林さんの詠んだ短歌を媒介に、伊那谷の経てきた近現代史の歩みや精神史のようなものを、ともに考える場が設けられないかと思ってのことだ。
イベントの終了後、ネットを見ていて、藤沼敏子さんという方が自身のブログでこの件を詳しく紹介しているのを知った。そこにはこのブログで以前、小林さんの歌集を紹介したことに続けて、「小林さんは目立たない地味な仕事を労を惜しまずなさっていらした」「お二人は、かつて旧満洲を訪ねる旅で同行して以来の交流仲間とのこと。高柳先生は、小林さんの地道な努力を研究者として高く評価してきたと言い、先生からこの対談企画を申し出たという。嬉しい!」などと、きわめて好意的に綴られていた。そこで、ブログ宛てにお礼を書き送ったり、藤沼さんがどんな方かを小林さんに尋ねたりするなかで、初めて交流が実現した。同年夏、同趣旨のイベントを東京でも開催した際には、藤沼さんも足を運んでくださって、お目にかかることもできた。
それ以来、約四年間。ご本人は1953年、栃木県生まれの由だが、私も栃木県が郷里で生年が1956年なので、奇遇に感じる(ついでに名前の読みも?)。立教大学で教え、小さな民の発想で歴史を学ぶ意義を説いた故・森弘之先生(インドネシア史)を、藤沼さんは「尊敬する恩師」と書いているが、私も台東区谷中のお寺の住職でもあった森先生に学部時代以来お世話になってきたので、その意味でも身近な存在に思う。
その割には、いまも藤沼さん個人の経歴については知るところが少ないのだが、ここで何よりも強調すべきは、彼女がかつて満州(中国東北部)で暮らした体験者を全国に訪ね歩き、二百人前後から聞き取りを行い、その映像を自身のホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」(https://kikokusya.wixsite.com/kikokusya)上にアップするという、地道な作業を永年にわたって続けてきたことである。そのことを知り、実際に映像のいくつかを見るに及んで、私は正直圧倒された。研究機関に籍を置く恵まれた立場の研究者でもないのに、どうしてここまでできるのだろうか? もちろん、こうした作業を可能にする前提として、時間的な余裕や一定の経済的な裏付けは必要かもしれない。しかし、日本の満州政策の下で過酷な人生を送らざるを得なかった人々の声に耳を傾け、それを聞き書きとして残さねばという強い意思、さらには一種の使命感のようなものがなければ、そもそも不可能な営みなのではないか?
それ以来、私にとって藤沼さんは、一目も二目も置く人物であり、脱帽の対象であり続けている。

前著『不条理を生き貫いて:34人の中国残留婦人たち』刊行をめぐって
藤沼さんが、ネット上に映像をアップした聞き書き記録を文字化する作業を進めていることは、本人からしばしば耳にしていた。そして、全四部作を見込んだ最初の一冊『不条理を生き貫いて:34人の中国残留婦人たち』が、昨年刊行された。その際、これまでの不断の努力が少しでも報いられるよう、私も何かお力添えできないかと考えた。
幸い、私の本来の専門である朝鮮関係でその頃たまたま知り合った人に、「東京新聞」記者の五味洋治さんがいる。出身は長野県の茅野市で、満蒙開拓にも大いに関心があるという。彼に相談を持ちかけたところ直ちに快諾、藤沼さんの居住地を担当する同社の中里宏記者に話を回してくれ、大きめの紹介記事が年末の同紙(二〇一九年十二月二二日付)に掲載された。ここでは、本書が「貴重な口述の歴史資料」だとしたうえで、藤沼さんが日本語ボランティア講座のコーディネーターとして活動する中で日本に帰国した中国残留婦人と親しくなり、インタビュー調査が始まった旨を記している。末尾には、本書がオンライン書店のアマゾンで販売中とも付記されていた。
この記事掲載で、藤沼さんにこれまでのご恩返しが多小なりともできたかと、いったんは胸をなでおろした。ところが、全国の大学図書館などの蔵書が一度に検索できるCinii Booksで調べると、現時点で所蔵が確認できる大学はわずか五校しかない。しかも「東京新聞」配布の中心エリアと思われる東京都内では、私がこの記事を添えてリクエストした法政大学のみである。もっと宣伝して、藤沼さんの仕事を幅広く知ってもらわねばとあらためて思う。
ちなみに、都内の公共図書館の所蔵を横断検索できるサイトによれば、区立ないし市立の図書館でヒットしたのはあいにく品川区のみ。都立図書館所蔵本が貸出中で、予約も三件入っていたのがせめてもの救いだった。

前著『不条理を生き貫いて:34人の中国残留婦人たち』の内容から
では、前著についてごく簡単に紹介してみよう。本書は、いわゆる中国残留婦人(国の定義だと終戦時に一三歳以上の女性)からの聞き書き集で、五五〇頁以上におよぶ大冊である。章立ては、第Ⅰ部が満蒙開拓団(各開拓団ごと)、第Ⅱ部が農業以外の自由移民、そして第Ⅲ部 サハリン残留邦人(例外的に男性からの聞き書きを含む)、第Ⅳ部 大陸の花嫁、第Ⅴ部 日本に帰らない選択をした残留婦人、と続く。残留婦人等とされる計三四人の、満州渡航の経緯、現地での生活、ソ連軍侵攻後の逃避行、死と隣り合わせの収容所生活、新中国での暮らし、日本に帰国してからの日々などが項目別に記されている。ソ連軍による婦女暴行や中国での人身売買をはじめ、結婚・出産・育児など、女性ゆえの証言がとりわけ重たく響く。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦前の価値観が、現地の中国人に嫁ぐに至った女性たちを苦しめたことも、男性とは異なる点である。それぞれの聞き書きには、本人の語った特徴的な言葉がタイトルとして付され、差異化が図られている。
基本的には、ネット上に音声で載っている証言を文字化したものだが、こうした作業が必要な大きな理由として、インタビューに応じてくれた方々が高齢で、インターネットにアクセスできないためと説明されている。
一般的に言って、他者からの聞き書きは思うほど楽な作業ではない。私も自分の研究の必要上、特定の体験をもつ個人からお話を聞かせていただいたことが多々あるし、大学史委員会の業務として、学徒出陣を体験した卒業生からの聞き取り作業に、同僚たちと数年間、これがラストチャンスになろうとの予測のもと従事してきた。私が考える聞き書きの最大の難しさは、「こちらの器の大きさに応じてしか話を聞けない」こと、つまり自分の体験していない世界の話を聞くので、聞き手側に知性の点でも感性の点でも十分な備えがないと、相手の話を最大限に引き出すことができない、という点である。そして、一定の人間関係、つまり相手からの信頼がないと、奥深いところまで語ってくれはしないという問題もある。時間の経過による忘却・記憶違いや、意識的・無意識的な自己弁護もあり得る証言内容をどう整理し、いかに事実を確定するかも含めて、神経を使う作業の連続である。本書の場合も、証言者を探し出し、連絡を入れて取材のアポを取り、現地まで出かけることから始まって、全過程に費やされた時間や労力は想像を絶する。
私が本書で特徴的だと思う点を三点挙げると、まずはある個人の証言が、一つには本書における文字資料として、もう一つはその表情や語り口もわかるネット上の映像により、二つの媒体で確認できることである。これは、両者それぞれの長所を活かし、短所を補完するという意味で、なかなかユニークな試みだと思う。場合によっては、固有名詞の間違いなど、著者の作業の不備が露呈してしまうことにもつながるが、そのことを厭わず、むしろそうした検証の機会を読者に提供している態度を公明正大に思う。
第二の特徴は、一つもしくは関連する複数の証言のあとに「証言の背景」という文章を入れ、語られた内容をより理解しやすくするための解説を丹念に加えていることである。たとえば、「第Ⅳ部 大陸の花嫁」では、満州に移民した青年男性が「屯墾病」(一種のホームシックのような疾患)に罹らず現地に定着できるよう、未婚の女性を一定の訓練を施したうえで大陸に送る「大陸の花嫁」と呼ばれる政策があったことが、各種の資料から説明される、といった具合である。
そして、第三の特徴として挙げるべきは、戦前戦中の満州での日常や、死の逃避行の話以上に、戦後の人民中国や帰国後の日本での人生に多くの分量が割かれていることだと言えよう。新中国の荒波を、養父母の人間愛に支えられ、またときにはスパイ視されるなどの理不尽な扱いを受けながらも命を繋いできた行動力や、帰国後の「祖国」での悲喜こもごもの想いなどに焦点が据えられている。

記録を残すということ―過去を未来へとつなぐ
冒頭で、学部で実施する伊那谷研修の担当者だと書いたが、研修の引率だけでなく、週一回の事前学習授業も担当している。そこで毎年扱う項目の一つに、伊那谷を梅雨末期の集中豪雨が襲(おそ)い百人以上の犠牲者を出した、一九六一(昭和三六)年の三六災害がある。自然災害の事実だけでなく、そこからの復興の過程や、とくにその記憶や記録を後世にどう残し教訓化しようとしているかに重点を置いて講義している。
その際、恐怖の三六災害を経験した子どもたちの作文を集め、ガリ版刷りで記録集『濁流の子』を作成した、箕輪町の碓田栄一氏についても触れている。行政や学校関係者ではなく、一個人がこうした作業を黙々とこなしたことに驚くが、実は本人は当時まだ高校を終えて大学に入ったばかりの、十代末の若者だったのである。記録を残し、過去を未来に活かそうとしたこうした孤独な営み、無償の行為こそ、私たちが真に記憶にとどめるべき事柄であり、まさに森弘之先生のいう「小さな民」の歴史ではないだろうか。碓田氏はその後、寄せてくれたものの当時は収録できなかった作文を、続編や補遺として世に出している。こうした行為がようやく認められて、いまでは信州大学などが三六災害関連資料を集めてつくるデータベースが、「語りつぐ“濁流の子”アーカイブス」(http://lore.shinshu-u.ac.jp/)と命名されている。
年齢の違いはともかく、藤沼さんの場合もこれに等しい営みだと言えよう。満州移民関係の本は、開拓団のいわば正史や体験者個人による回想録から、外部のルポライターないし研究者がまとめたものまで、実に膨大にある。とはいえ、公の機関ではなく、専門の研究者でもない立場から、これだけ多くの場所を訪ね、これほど大勢の聞き書きを残すのはきわめて異例と言えよう。しかも、苦難の人生を生き抜いてきた一人ひとりの生に寄り添おうという姿勢が、ひしひしと感じられる。それら多くの証言を通して、日本の庶民にとって満蒙開拓とは何だったのか、先の大戦とは何だったのか、その真相を明らかにしたいという切情に溢れている。彼女たちが、語りにくい話も含めて自分に語ってくださったことへの感謝の気持ちが、聞き書き活動のエネルギーの源泉になっているかもしれないとも思う。
藤沼さんの仕事は、これからもまだまだ続けられる。読者は、満蒙開拓という「被害」と「加害」の入り混じった歴史の重さ、今も残る課題の大きさ、そしてこの聞き書き集の分量の膨大さの前に、一瞬たじろぐこともあり得よう。ただし、まずは一編でもいいので、証言者の生の声に耳を傾けてみてほしい。そこから何か新しい認識や発見が生まれるかもしれないし、時代や環境こそ違え、同じ人間としての喜怒哀楽や、辛酸を乗り越えてきた個々人の生き様から、心に沁みるメッセージが届けられるかもしれない。「若い人にも読んでいただきたい」(前著の「はじめに」)という筆者の希望が、少しでも達せられることを願いたい。
この小文を書きながら、いまの聞き書き集の仕事が一段落したら、藤沼敏子さんの自分史もぜひ読んでみたい思いに駆(か)られた。そのことで、彼女がこれほどまで精力を注いで中国帰国者の聞き取りをする深い背景、藤森成吉を借用すれば「何が彼女をそうさせたか?」がわかり、この聞き書き集がより立体的に理解できるのではないかと思うからである。



「証言22 池田肇さん」の故律子夫人の「旧満州開拓移民記録」が、古いパソコンから出てきた。

2020年08月14日 14時21分30秒 | 取材の周辺
『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上下巻)』を関係各位に送り、早1か月近く経つというのに、たくさんの手紙やメールが今も続いている。
「証言22 池田肇さん」から、「本にしてくれてありがとうございます。とても嬉しかった」という礼儀正しいお電話をいただいたのは、発送直後でした。その時に頂いた電話で、「インタビューの中で、奥様が手記をパソコンでまとめられていると伺いましたが、それは読むことはできますか?」とずっと気になっていたことを尋ねた。池田さんは、奥様は「自分よりもっと大変な生活をしてきた。生きてる間に藤沼さんに話を聞いてほしかった」と。それから三日ほど前に、息子さんの協力を得てプリントアウトして送って来てくれた。新聞の切り抜きは、後半が切れてしまったものしか見つからなかったそう。たぶん11年くらい前の信濃毎日新聞のようだ。

 奥様の律子さんは鹿児島県奄美大島出身、大羅勒密開拓団だった。旧姓は阿世知律子さん。二人とも残留孤児同士の結婚だった。律子さんは帰国当時、全く日本語が話せなかったそうです。息子さんが古いパソコンを持ってきてくれたのがきっかけで、「あいうえお」から勉強を始めたそう。中国帰国者の日本語教室や交流サロンに通い、字を書くことが苦手だったのに、キーボードを打って日本語の文章を書くことができるようになって、大変喜んでいらしたそうです。律子さんは、中国で夜間学校に三か月しか通っていません。
律子さんの渾身の努力が実を結んだ「終戦時記録」と「旧満州開拓移民記録」です。






石井小夜子弁護士 本日の東京新聞記事から

2020年08月10日 11時45分38秒 | 中国残留孤児
今日の東京新聞に、中国残留婦人裁判立ち上げ時にご一緒した石井小夜子弁護士が少年法改正について取材された記事が載っていました。厳罰化が再犯抑止に役立つという考えには疑問を呈している。「少年法は教育基本法、児童福祉法と共に子どもの育ちを支援する法律として、戦後の日本国憲法下で定められた。一時の世論や熱狂で変えていいはずがない。大人の側が問われているのです」と。
日中国交回復後の中国残留孤児の帰国ラッシュ後、受け入れた日本側には何の施策もなかった当時、残留孤児二世三世の非行や事件が頻発した。石井先生は、ほとんど手弁当に近い形で彼らの弁護をした。その時も、「問われているのは日本社会なのです」と主張されたように記憶している。
当時の残留孤児二世三世が置かれていた環境を、残留孤児二世のシンガーソングライター小山卓治さんの「イエローワスプ」という楽曲を聞いていただくと、端的に理解していただけるように思う。YouTubeで聞くことができます。 https://www.youtube.com/watch?v=JXv2uXWySsM
中国残留婦人裁判は、中国残留孤児国家賠償訴訟の先行裁判として、NPO法人中国帰国者の会の会長 鈴木則子さんを原告に裁判が行われたが、孤児裁判に隠れてあまり知られていないかも知れない。しかも先日石井先生からの手紙で、裁判記録が破棄されたと知った。今となっては中国帰国者の会のホームページでしか、知ることができなくなっている。
ずいぶん昔のこと、これこれ20年以上前のことですが、中国残留婦人裁判立ち上げの相談で、鈴木則子さん、中国帰国者の会の事務局長長野浩久さん、庵谷磐さん、岩田忠先生、石井小夜子弁護士等と集まりを持って、会の後、カラオケ店に行った時、石井先生は、岡林信康の「私たちの望むものは」を歌われた。 https://www.youtube.com/watch?v=3SP1uzBdGKk
去年の献本(『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』)の時に、そのことに触れたら、先生は「今でも時々歌っています」と。2番のアンビバレントな歌詞も含めて、いや2番があるからこそいい歌だと思えて、私も時々歌っています。


『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上)(下)』を上梓して

2020年08月06日 16時04分06秒 | 中国残留孤児
                    
 献本作業が終わり、その後戻ってきた本、「宛先に尋ね当たりません」「保管期間が経過したためお戻しします」の新しい発送先を調べるのに、想像以上に手間取りましたが、大半の行き先が決まりました。お亡くなりになった方の本はご遺族を捜しご遺族の元へ。病院・施設に入所中の方へは、支援者が届けてくださることに。転居した方は新住所へ発送し、肩の荷がおりました。「保管期間が経過したためお戻しします」は、住所はそこにあるのですが、コロナ禍でデイサービスが使えなくなり、足腰が弱くなったり、体調がよくなかったりで、息子さんや娘さんの家に行って生活しているケースです。支援金受給の関係(同居している家族の収入の合算金額が基準を上回ると支援金が貰えなくなる)で、公言は差し控えなければなりませんが、それが現実です。献本した方からの注文もあり、それらもやっとひと段落しました。
 頭を切り替え、次の本、『WWⅡ 50人の奇跡の証言集』執筆にかかり始めた途端に、今の思いを区切りとして、推薦の言葉を書いてくださった高柳俊男先生と寄稿を書いてくださった小林勝人さんへ報告しておかなくてはと思いました。書いているうちにブログ記事にしようと思い至りました。

 証言してくださった方から、たくさんのお電話をいただきました。お名前を聞くと、電話の向こうのお顔を想像し、話し方の癖、方言が懐かしく蘇って来ます。皆さんとても喜んでいらして「ありがとう。感動した」「感激して泣いたよ」「こんなに嬉しいのは初めてだ」「夜眠れないくらい嬉しい」「孫に三回読んでもらった」「今までの人生で一番のプレゼントだ」というような内容でした。話してる間に電話の向こうの声が泣き声になってしまって、私も声を震わせて再訪の約束をして電話を切るということもありました。証言者の皆さんが喜んでくださっていることで、私のこれまでの努力はおおかた報われたと、小さな幸福感を味わっていました。その上、献本した方からも、胸が熱くなるような礼状をいただきました。この仕事をやってきて、目・肩・腰の不調、睡眠障害に悩まされ、幾度となく、「なんでこんなことをしているのだろう。お金もかかるし、辞めたら楽になるのに」と思ったか知れません。しかし、その度に、「証言者の皆さんの苦労に比べたら」と思い直して自分を叱咤激励してきました。そして証言者の皆さんから直接たくさんの電話をいただいて、やってきて本当に良かったと思いました。

 礼状の中に、上智の高祖敏明先生のものもありました。上智社会福祉専門学校に社会福祉主事科があった頃、私は非常勤講師をしていました。高祖先生は上智学院の理事長で、入学式や卒業式では必ず先生のスピーチを聞くことができました。恒例のありきたりな祝辞ではなく、魅力的な、何か心に残るお話を毎回してくださいましたので、式典が苦ではなく楽しみだった気がします。神父さんというだけで、「世事に疎い」という印象を持つ方が一般的かも知れませんが、高祖先生は全く逆で、世の中の動きに敏感な方で、スピーチの後、毎回「そうだ、そうだった」と感慨深く思わせるような示唆に富んだお話をしてくださいました。
 2013年12月26日、紀尾井ホールでオペラ「勇敢な婦人 細川ガラシャ」が上演されました。東京に住んでいる次女を誘って見に行きました。ガラシャ生誕450年と上智大学創立100周年が重なり上演が実現したとのことで、最初に細川佳代子さんと髙祖先生との対談がありました。元細川首相と佳代子夫人の学生時代の出会いの話や、細川ガラシャを佳代子夫人が、ご自身の発案で高校の演劇で上演された話など、まさにお二人の出会いは運命であったと感じさせるお話で、興味深く拝聴させていただきました。高祖先生の席は目と鼻の先、すぐ近くだったので、幕間にご挨拶だけさせていただいた記憶があります。
 その先生からいただいた葉書には、「今回の大著は、貴重な歴史証言ですね。『人は誰でも語るべきストーリーを持っている』とは教皇フランシスコの言葉ですが、一人ひとりのストーリーを聞き出して、私たち皆で共有できるものにしてくださり、その意味でも感謝申し上げます。少しずつ読み進めている毎日です」と書かれていました。尊敬する高祖先生からいただいた葉書を何度も何度も読み返していたら、「皆で共有できるものにした」という言葉が浮かび上がってきました。たくさんの人に証言者の経験を共有していただきたいという思いが強くなってきました。たくさんの人に読んでいただきたいと。
 もうすでに証言者の皆さんからたくさんの見返り(感謝の電話)をいただいているのに、仲間内で終わらせたくない、広く世間の人に彼らの経験してきたことを共有して欲しい、わかって欲しいと思うようになりました。このような悲しい体験が二度と再び繰り返されることがないように。
 さりとて無名の私の本が売れるはずもなく、最初から覚悟していたことなのですが、日々、嬉しい電話や手紙があるたびに、どんどん欲深くなっています。知る人ぞ知る世界ではなくて、広い世界に、日中の狭間でもみくちゃにされてきた彼らを、歴史の中に一人ひとり誇り高くすっくと立たせてあげたい、歴史の中に埋もれさせたくないという思いが強くなっています。どうしたら本が売れるようになるかと悩ましい課題と向き合っています。

 昨年上梓した『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』は、第23回日本自費出版文化賞に入選しました。603の応募があり、7部門70冊が残っています。9月2日に、部門賞、特別賞、大賞が選ばれます。次の報告はないかも知れませんので、今のうちに報告しておきます。

 さて、頂いたお手紙やメールを一部紹介しておこうと思います。最初20通くらい貼り付けましたが、読み返すと何か自慢のように感じるので、数通にしました。それでもやっぱり自慢みたいですけれど。

①古い友人 日本語教師時代の同僚から
 昨日「あの戦争さえなかったら」上・下2巻、献本くださりありがとうございました。歴史の教科書には載らないそこに生きた人々の、もっと言えば時代に翻弄された人々の生の声を丁寧に掬い取り、活字に起こされたお仕事、ただただ敬服するのみです。誰にでもできることではなく藤沼さんだからこそできることではと改めて感じ入りました。
 一見ほんわかとした藤沼さんのどこにそんなエネルギーが秘められているのかと、私の中の「七不思議」の筆頭です!尊敬の念を禁じえません。
 本の構成にも工夫が見られ、きめ細かな配慮がそこここに感じられ、やっぱり藤沼さんのご本だと納得です。表紙の装丁も温かみがあり、苦しい過去の体験を記したものでありながら、どこか温かいものを感じるのはやはり著者の「お人柄」によるものと思いました。
 コロナ禍で気の滅入る日々を送る中で元気とエネルギーを頂きました。いつかこの状況が収束した暁には是非お会いして、いろいろお話を伺いたいものです。
しばらくゆっくりされる由、どうぞお疲れを癒されますように!

②古い友人 群馬時代の娘の幼稚園のママ友から
 土曜日の夕刻に、本をいただきました。まずは2冊セットで、とにかく圧倒されて感嘆しました。昨日は群馬往復の用事があり、本日夕刻になって開いてみると。
 「はじめに」で藤沼さんの活動のきっかけや一途な思いが文字列のここかしこから溢れているのに感動しました。・・・私自身中国史を学んだことはあります。帰国者向けの日本語教室の手伝いを頼まれて少しだけ教室に立つことになった時、満州開拓や残留孤児の本を何冊か読んでいます。Kさんとの個人的な交流も経験できました。
 しかし、藤沼さんの立ち位置の確かさ、視線の鋭さ、愛情の深さ、正義感の強さ、エネルギーの豊富さ・・・とにかく脱帽・敬服・拍手喝采です。現代史の狭間に隠された、置き忘れられた事実をこのような形で、たくさんの「小さな人」に心を込めて寄り添う形で「大きな声」にされる姿勢に敬意を表すと同時に、古代史を明らかにしたい人間のひとりとして、学ばせていただきます。
 高柳俊男氏の推薦の言葉も、まさに藤沼さんの活動を正面から理解され応援されて、素敵です。
わたしもコロナ禍による規制が解除された暁には、明治大学図書館に推薦購入依頼を書きます。
 新型コロナが、今まで見えなかった事を思わぬ形で暴露してくれると感じます。
習近平・トランプ・金正恩・プーチン・そして安倍首相・・・何処を見て何を考えて政治をしているのか、益々露わになっていて、危険度も増しています。
 ニュージーランド・フィンランド・ドイツ等の女性トップは、その寄り添う言葉が国民に届いて、人々が協力しています。
 人の心を大切にする姿勢は、これからのキーワードになると思っています。
 藤沼さんの活動は、愛そのものです。心を込めてインタビューなさったこともですが、渾身の力を注いでまとめられる貴重な本は、後世に残る財産として輝くと思います。
感謝と敬意を込めて。

③関係者から
 このたびはご著作「あの戦争さえなかったら」をお送りいただきました。心から感謝申し上げます。早速、一組は私たちのKに納めさせていただきました。今年度着任したばかりのSも、この連休自宅に持ち帰り読みたいと、スタッフに先に読む承諾を求めていました。
 たいへんなご労作を纏め上げたご努力に敬意を禁じえません。そのお一人お一人の記録が、まさしく歴史の証言です。ここ数年、「残留婦人」「残留孤児」そしてその配偶者で他界する人が増えてきました。ほんとうに寂しさを感じます。戦後75年を経てそういう時代になりました。失われていく人生を思わずにはいられません。この歴史を後世に伝えるということの重要性を思い知らされます。映像記録も貴重ですが、こうして活字で残されるとさらに意義深いと感じています。ありがとうございます。(中略)
 次回のご出版、大いに期待しております。あらためまして今回のことに厚くお礼申し上げます。コロナ感染拡大の続く折から、どうぞご健康に注意してお過ごしください。

④夫の古い友人から
 ご著作「あの戦争さえなかったら、62人の中国残留孤児たち(上、下)」お送り頂きありがとうございました。
 前にお送り頂いた「不条理を生き貫いて:34人の中国残留婦人たち」に続いてこの様な大変なお仕事をまとめられたこと、心から尊敬の念をいだきます。
 高柳先生の「推薦の言葉」を拝読し改めて藤沼さんのお仕事の意義の重さを知りました。
お体に気を付けてこの大切なお仕事を続けられるようお祈りいたします。
末筆ながらHさん(夫)によろしくお伝えください。
長野にお出での節はお声掛けください。Hさんにもお会い出来ればうれしいです。

⑤協力者から
 昨日、本が届きました。ありがとうございます。
つい、いろいろ見てしまいまして、返事が遅くなって申し訳ありません。
 私が無理を言った地図なども載せていただきましてありがとうございます。最初のに比べれば、随分良くなっていると思いました。自分なりにいろいろ工夫されたようで、苦労の跡が忍ばれました。なんだか、動画を一生懸命観ていたのが、すごく遠い夢のような感じがします。この本の意義は、日本語もうまく喋れない中国残留孤児の方々が、意に添わないまま行った中国では、地獄のような現実の中、置き去りにされ、いじめに耐えながら、やっとの思いで、帰国した祖国は、冷たい対応で、満州の出来など誰も知らず、戸籍があっても中国人扱いされ、言葉の問題から、自分たちの思いを言えないまま、日々の生活に追われ、年月だけ過ごしてきたのでしょう。だけど、今の日本の様子を見るにつけ、自分たちの二の舞をさせたくないと切実に思われたはず。今まで隠したかった事も明らかにして、これまでの思いを話してもらえたと思います。体験談だから、重みが違いますね。藤沼先生がこの仕事をされたのは運命ですよ。先生も大変だったと思いますが、この本を手にされた方々は、心底ほっとされたと思います。心が少し楽になったことでしょうね。先生はそのお手伝いをされたのです。長い間、よく頑張ってこられたと思います。また、御家族の御協力もいかばかりだったろうとお察しいたします。私が関わったのはほんの少しですが、いい仕事をさせて頂いたと感謝してます。
 まだまだ、先は長いでしょうが、道はもう半ばです。もう少し、体と相談しながら、最後までぜひやり抜いて下さい。影ながら、応援しております。必要な時はいつでもお声かけ下さい。
どうぞくれぐれも御自愛下さいませ。

⑥団体から
「あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち (上)、(下)」拝受いたしました。200人前後に及ぶ在留邦人等に対するインタビューをされたご尽力に心から敬意を表します。
 まだ、上巻の途中までしか読み進んでいませんが、過酷な人生を体験された方々の悲痛な思いが胸に迫ります。
 自国の負の歴史に目を背ける私たち日本人に貴重な教材です。
私は、引揚者ではありませんが日本最大の引揚げ港を持つ福岡市民が、その歴史を記憶に留めていないことから、1992年から博多港に引揚モニュメントの建立や引揚資料館の開設等を求めて運動を進めてきた「引揚港・博多を考える集い」のお世話をしてきました。
 96年に引揚モニュメント「那の津往還」は実現しましたが、資料館については福岡市の施設のコーナーにミニ展示場を設け、収集している2600点余の引揚資料のうちわずか120点を展示しているにすぎません。
 今後は、福岡大空襲(1945年6月19日)や広島・長崎の原爆、さらに植民地支配や侵略戦争など負の歴史もしっかりと見据えた平和資料館の建設を、有志の個人や団体の方々と共に進めていく準備を進めているところです。
 いただいたご本は、来月3日に開く「引揚港・博多を考える集い」世話人会で皆さんにご紹介させていただきます。ありがとうございました。

⑦施設から
 『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上)(下)』のご出版、おめでとうございます。
 先ほど各10冊、計20冊、確かに拝受いたしました。貴重なご本のご寄贈をありがとうございます。Kでは何のご協力もできず申し訳ありませんが、前作も反響が大きく増刷されたとうかがっております。(中略)皆さん、藤沼さんの熱意に心を動かされ、協力されておられます。全国各地のさまざまな開拓団の方のお話しが掲載されており、参考になります。(下)の方には2000年の養父母へのインタビューもあり驚きました。ビデオテープ劣化とのことで残念でしたが、だからこそ、活字化の必要性を感じます。
 貴重な記録をありがとうございます。次作の準備に入っておられるのですね。梅雨が明けると暑い夏がやってきます。どうぞお身体に気をつけてお過ごし下さい。

⑧知人から
 昨日、ご著書、拝受しました。ありがとうございました。
 こうして立派な本を拝見しますと、ライフワークとお書きになっていたことを、はっきりと理解します。
 英語の書名もお入れになったのを拝見し、やはりこれは良かったと思います。どこでだれが見ているか、分かりませんから、外国人がこの本に到達する助けになると思います。
 お読みになっておられないと思いますが、2年半前に出した、北京を知るための52章に、戦前戦中に北京にいて、現地召集され、戦後行方不明になった人の話を載せましたが、この人の発見談でした。シベリアで亡くなっていたのでたす。
 藤沼さんの対象とされた方々とは、違いますが、大陸の日本人ということで、共通の背景も感じました。(略)