昨日の東京新聞「こちら特報部」の記事。
昨日、新聞を開くと、中国帰国者の会の創設者であり、長年、会の代表を務めてこられた鈴木則子さんの写真が目に入った。長年、会の事務局長を務めてこられて若くして急逝された長野浩久氏の紹介で、何度かお会いさせていただきました。彼が司会を務めた新年会にも参加させていただいたことがありました。
慈愛に満ちた眼差しで私の話を聞いてくださり、私に欠落していた視点をアドバイスしてくださった。それから数年後に、残留孤児の国家賠償訴訟の先行裁判としての残留婦人裁判を模索している時、庵谷磐さんから、埼玉の「紅梅の会」の「村上米子さんを連れて来て。皆で一度会いましょう」と、言うことになった。この時には、鈴木則子さんも村上米子さんも杖を突いていて、かなり体力の衰えは見られたが、知力・気力とも充実していて、話が尽きることはなかった。
最終的に、東京都の残留婦人の国家賠償訴訟ということで裁判方針が決まったようだった。
鈴木則子さんは、日本に帰国したくても帰国できない残留孤児たちに絶えず心を砕き、中国東北部で日本への帰国を待つ孤児たちのために日本語教室を開き、身元引受人を探し、国がやらない帰国後の問題にも個別に対応してきた。80年代、90年代には、それを支える高齢のボランティアも多数存在していた。長野さんから聞いたひとつのエピソードを思い出す。帰国者のボランティアに熱心な方が帰宅すると、家から締め出されて入れない。そこで庭の柿の木を登って家に入ろうとしたが、枝が折れ落下。それが元で亡くなったと。このエピソードももう誰も覚えていないのかも知れない。
鈴木さんの人望に支えられて「中国帰国者の会」を支えた高齢ボランティアの存在も忘れてはならないと思っています。
鈴木さんの歴史を見る目、さまざまな状況を俯瞰し、目標に向かって効果的な対処法を編み出す力は素晴らしかった。それを実践面で支えた長野浩久さんの行動力も素晴らしかった。お二人の話をもっともっと聞いて置くべきだったのに。
フォトジャーナリストの山本宗補さんは、長野県御代田出身とのこと。二十数年前に、御代田に住む中国帰国者にインタビューしました。当時のビデオテープが癒着のため復元できず、残念でなりません。訪問すると庭の井戸でトマトを洗っていた。声をかけると手を休めることなく振り向いてくれた。その一瞬の不可思議そうな表情が、私の思い出写真館に今もあり、いつでも思い出すことはできます。
東岩槻の村上米子さんは今もお元気なのですね。
私も岩槻で育ちましたが、村上さんと直接お会いしたことは一度もありません。
いつか直接お会いしてお話を伺うことができたら夢のようです。
どうかそれまで村上さんにはお元気でいていただきたいものです。
コメントありがとうございました。村上米子さんは『不条理を生き抜いて 34人の中国残留婦人たち』が出版される前に、お亡くなりになりました。残留婦人はもう、数えるほどしか、、、皆さん鬼籍に入られました。