「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」ゲストブック&ブログ&メッセージ

左下のブックマークをクリックするとホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」にアクセスできます。

ABCとアイウエオが終わり、「アーカイブス証言2」は無限数に突入

2016年01月19日 11時28分37秒 | 取材の周辺

 関係各位の協力を持ちまして、「アーカイブス 証言」は、いつの間にやら、ABCは終わり、アイウエオも終わりました。深く感謝申し上げます。

これまでのものを「アーカイブス 証言1」とし、これからは「アーカイブス 証言2」とし、ナンバリングしていきますので、無くなる心配はございません。ボチボチと増やしていけたらいいなと思います。おひとりおひとりの経験は、似ているようで大きく違います。養父母の愛情を一身に受けて育った方もいれば、家畜の如く働かされたという方もいます。境遇は選べませんが、その境遇をどのように生きたかは、おひとりおひとり違って、学ぶところが大きいです。これから社会に旅立つ前の、高校生くらいの方々に「中国残留孤児・残留婦人・サハリン残留邦人の証言」を聞いていただけたら嬉しいです。インタビューを聞くと多くの問いが生まれてきます。生きるとは?戦争とは?国家とは?民族とは?

そんなことを一緒に考えられるホームページになれたらいいなと思います。

 

「アーカイブス 証言2」のNo.1には中国「残留孤児」集団訴訟原告団代表を務めた池田澄江さんに登場いただきました。現在は特定非営利活動法人「 中国帰国者・日中友好の会」理事長をなさっておられます。マスコミでも何度か大きく取り上げられましたし、有名人ですので本名で登場いただきました。こちらが質問をしなくても、次々とお話が流れるように続き、聞きたいことの的を得ている。しかもありがちな増長なお話にならない要点を抑えた話し方に、さすがと感じ入りました。おおいに助けられたインタビューでした。

  池田澄江さんは、四つの名前を生きてきた。中国では除明。養父母は大事に育ててくれた。小学2年生の時、抗日戦争映画(?)鑑賞に行き、皆に「打倒日本!」と唾をかけられ叩かれた。日中国交回復後、自分の肉親捜しが朝日新聞に載ると、すぐ、北海道から問い合わせがあり、当時の状況、血液型、生年月日、父の職業等が一致して、日本に一時帰国し、北海道に住む両親と感動の対面をした。吉川明子となった。しかしDNA鑑定の結果、間違いだったことがわかり、家を出るよう言われた。自殺を考えた。新聞記事になり応援してくれる人が出て、就籍手続きをしてくれ、今村明子となった。仕事をして、だんだん日本語を覚え通訳もできるようになった。帰国後15年たったある日、訪日調査団が来た時、通訳をした。その後喫茶店にいると、60代の女性が話しかけてきた。姉だった。本当の自分の名前も生年月日もわかり、やっと池田澄江になった。

  サハリン残留邦人はその多くの方が三つの名前を生きてきました。親がつけてくれた日本名と、小学校時代の朝鮮名、その後のロシア名です。今、北海道にサハリン残留邦人の共同のお墓を作る話が進んでおり、お墓には日本名だけでなく通名(ロシア名)も並記しようというお話が出ているようです。日本人であることを隠していた方も多く、いざ帰国の段になって初めて「ソーニャも日本人だったの?」とびっくりしたという話を聞きました。ソーニャは知っているけれど「山田花子」は知らなかったという事なのです。現在、日本に帰国して暮らしているサハリン残留邦人の背負ってきた歴史が、そのまま名前にも表れているのです。

 ところで、NPO法人日本サハリン協会では、日本に永住帰国したサハリン(樺太)残留邦人のための共同墓所建設賛助金を募っております。

以下は、ホームページからの抜粋です。詳しくは日本サハリン協会のホームページでご覧ください。

《戦前樺太に渡り、終戦後、様々な事情で日本に引き揚げることができなくなったサハリン(樺太)残留邦人の一時帰国事業が始まって25年。この間、多くの方が永住帰国を選択し、祖国の土に還ることを希望なさいました。しかし経済的な理由から個人で高額な墓を購入することのできない永住帰国者は今、高齢となり「死んだらどうなるのか」という不安を募らせています。長年の夢をかなえて永住帰国したにもかかわらず、日本に墓がないために、遺族が遺骨をサハリンに持って帰らざるを得ないケースも発生しています。終戦後も異国の地(しかも対戦国)で筆舌に尽くしがたい苦労に耐え抜いてきた方々が、終の棲家としてやっと戻ってきた祖国。ともに苦労した仲間が集える安住の場としての共同墓所を建設したいという思いでこの事業を立ち上げました。サハリン残留を余儀なくされた皆さんは、戦後日本の高度経済成長期を経験できなかったばかりでなく、バブル期にはロシアのペレストロイカで物資のない最も悲惨な状況下に置かれていました。そしてやっとのことで一時帰国ができるようになったころには、すでに高齢になってしまっていたのです。失われた時間は計り知れません。それでも最後の望みは、日本の土に還ること。そして、次の世ではサハリンでともに苦労した仲間とともに安らかに過ごすこと。ながらくその存在すらも忘れられていた方々の苦難の歴史を後世に伝えていくためにも、この墓所は大切な場所となることでしょう。日本に永住帰国したサハリン(樺太)残留邦人のための共同墓所建設事業にご支援くださいますようお願いいたします。

略)日本とサハリンをイメージした2つの石の間の先端には、日本とサハリンを「隔てる海、つなぐ空」をイメージさせる青いガラスを埋め込みました。さらにそれぞれの石には日本とサハリンを自由に行き来するカモメ(ロシア語は「チャイカ」)が彫られています。わずか43kmという距離に隔てられて、長い間、親きょうだいにも会えずに苦しい生活をつづけた方々の今までの困難を想い、安らかな未来を祈る形です。台座には日本語とロシア語で建設経緯(サハリン残留邦人の概略・共同墓建設由来)を刻みます。納骨は札幌で行われている一般的な形式を採用しますので、骨壺から木綿の晒に移した遺骨を墓石下の土に埋めます。木綿は3年ほどで、遺骨は20年ほどで土に還ります。》


サハリン残留邦人3名。メさん、モさん、ユさんをアップしました。

2016年01月10日 12時11分39秒 | 取材の周辺

 初春のお喜びを申し上げます。

 今年は暖かな新年の幕開けとなりました。我が家の庭には、バラがちらほら咲いております。例年ですと、霜枯れて蕾のままなんですが、ボツボツと咲き続けております。中でも、イングリッシュローズのモーティマーサックラーは、春かと思うほどに窓辺を飾ってくれています。1月2日に撮影したものです。バラ仕事としては冬バラは咲かせずに、木に力を残すため、剪定してしまうのが常のようですが、もったいない想いと多忙に流されてそのままにしておいた結果が「お正月に満開のバラ」となりました。

 さて、新春草々にサハリン残留邦人3名にインタビューしてきました。メさん、モさん、ユさんです。暮れにも皆さんの集まりにご一緒させていただいて、手作りの美味しい料理をご馳走になったのでした。その時の様子は、フェイスブックに料理の写真と共に報告いたしました。彼らのほとんど多くの方は、日本名、ロシア名、朝鮮名と、三つの名前を持っています。多くの方が最初朝鮮人学校に7年通い、その後、ロシア人学校です。通名はロシア名だったということです。朝鮮人学校では日本語を話してはいけない。ロシア人学校でも同じ。家の中以外では日本語は話してはいけない。そのうち家の中でもロシア語になったということでした。

 いろいろな状況から、自分は捨て子だったらしいと語るユさん。終戦直後は北海道に帰りたい日本人が大勢港に集まったが、乗れる人数は限られていた。力のあるものが「我先に」船に乗った。子供を捨てていく人も大勢いたそうだ。肉親捜しで幼い日の写真と本名を日本のテレビで公開したが、名乗り出る人はいなかったそうだ。モさん一家には8人の子供がおり、両親は幼い子供たちを引き連れて奥地から引き揚げ船の停泊している港まで歩いて行けるはずがないと諦めたようだと語る。ユさんは努力してユジノサハリンスクの教育大学を出て教員になった。両親の苦労を受け止め、前向きに明るく生きてきた。

 モさんの子供時代のエピソードで、9月の新学期初日、自分の靴を弟が履いて行ってしまって裸足で登校したという話。貧しくて弟たちに靴を買う事の出来なかった両親を、子供なのに暖かく受け止めている。ソ連時代も多くの苦労があったのに、いつも努力して前向きに物事が進むよう転換している。日本に来てからも、持ち前の前向きさで異文化障壁を越える手立てを掴んでいる。モさんのいわば「人間力」に感心し、これは両親の教育によるものなのか、持って生まれた天性のものなのか、環境によるものなのか、考えてしまいました。

 インタビューの後、駅まで送ってくださる(遠慮はしましたが)道々、お孫さんとの楽しい会話のやり取りを教えてくださいました。健康に気をつけて、「今が一番幸せ」という時間が100年続きますように。