ここのところ不安定な気候が続いております。一昨日は川越でも道路が川のようになったというニュースがテレビで流れていました。北海道での取材中も、高速道路を旭川北で降りた途端、川のような道路に出くわし、怖い思いをしたことがありました。例年、台風銀座は沖縄と決まっていたはずでしたのに、今年は北海道が台風銀座の座を奪ったかのような感があります。
さて、今回の北海道取材では、13人の方にお話を伺ってきました。
「No.12」「No.13」「No.14」「No.15」「No.16,17,18,19」と、周辺の証言「早期帰国者 坂本先生」「麻山事件の生き証人 鈴木幸子さん」「満蒙開拓青少年義勇軍、シベリア抑留、北海道開拓 山田さん」「行軍中、麻山事件を通りかかった里瀬さん」「ノモンハン事件の生き証人 武田さん」です。
昨年の夏、北海道の温泉に滞在中、「NHK北海道テレビ」の戦後70年特集番組をいくつか見る事が出来ました。中でも、麻山事件の生き証人が、北海道に住む日本語教師で絵本も2作出版している友人、米山博子さんの故郷、大樹町の隣町の広尾町に住んでいることがわかりました。彼女のご縁で高校時代の恩師で広尾町に住む旗手清先生と旗手先生の元同僚の坂本先生が全面的に協力してくださって、今回の「周辺の証言」インタビューが実現しました。米山博子さんは20年間ガーナ大学で日本語を教えていましたが、昨年帰国し、お父様がオーナーの宿泊施設、インカルシペを引き継いでおられました。私の開設直後のホームページにも素敵な投稿を寄せてくださっております。それは「ゲストブック&ブログ&メッセージ」の2番目に古い記事、「ガーナからの便り」(2013年10月07日)で、今も読む事が出来ます。
白樺林の中にあるインカルシペに到着早々、よく冷えた「白樺の樹液」をご馳走になりました。その美味しかったこと。ほのかな香りと甘みに運転の疲れも癒えました。夜は「樹液しゃぶしゃぶ」を博子さんが用意してくださり、旗手先生ご夫妻とご一緒にご馳走になりました。不思議とお肉の灰汁が出なくて、野菜もお肉も一段と美味しく感じられました。「科学的な根拠はわからないが、とにかく美味しい。」と、博子さんは話されておりました。そして旗手先生からは、私の知らないたくさんの事を教えていただき、楽しい夕べでした。
また、昨年に引き続いて今年もK先生に大変お世話になりました。ありがとうございました。いろんな繋がりがあって、いろんな人に助けられて、今回も13人の方にインタビューすることが出来ました事、感謝申し上げます。
予定していたインタビューがすべて終わって、北海道の大地をレンタカーで走っている時、ふと、寺山修司の「身捨つるほどの祖国はありや」という短歌のフレーズが浮かんできて、その問いは、頭の中で何度も繰り返されました。インタビューした13人の皆さんは、それぞれ置かれた立場、環境の違いはあるものの、語りつくせない大変な思いをしていらっしゃった。そんな中でもちょっとした偶然や運が味方して、今ここにいることが出来ているのです。それはもう奇跡と言ったらいいような偶然で生かされているとしか言いようがないのです。数限りない人々が背後でお亡くなりになっている。
中でも、飢えや寒さ、機銃掃射や襲撃にあって亡くなったのではなく、集団自決で亡くなったと言うのは、どこまでも悲しい。
集団自決と言っても、麻山事件のビデオを見ていただければわかる通り、開拓団に残った数人の老人や徴兵を免れた年少者達が、銃で同じ開拓団員を殺害したのです。しかしその人たちをだれも責めることはできない。彼らの戦後は、誰かに責められることがないとしても、その罪を背負って生きなければならないというのは、もしかしたら、それ以上に辛く悲しいことだろうと想像します。
集団自決の生き証人は、私のホームページにも二人登場します。「アさん」と「No.2さん」。長野と山梨の開拓団でした。
よく知られているのは、瑞穂村開拓団の集団自決で、犠牲者は495人とされています。麻山事件は、哈達河(ハタホ)開拓団で、421人が死亡したと言われといます。犠牲になったのは、ほとんどが婦女子と老人でした。
「周辺の証言」の「麻山事件の生き証人 鈴木幸子さん」のお話と、「翌日行軍し、惨状を目撃した里瀬さん」のお話は、両方聞いていただければわかりやすいかと思います。
集団自決に追いやられた当時の時代的背景、皇民化教育で育まれた価値観や倫理観、例えば「「生きて虜囚の辱めを受けず」や「凌辱よりは死を」の玉砕を美化した考え方が支配的だった当時にあって、それを否定して生きることは難しかったものと容易に想像ができます。それは、軍隊にあっては桜花作戦(人間爆弾、タコツボ作戦)や特攻隊などに如実に現れていて、異を唱えることは、死をも意味する結果になったかも知れません。また、真岡郵便電信局の乙女の自決なども広く知られています。
身捨つるほどの祖国はありや
しかし、そんな時代にありながらも、「命だけ残しなさい。」を合言葉に生きてきた残留婦人もおりました。私はとても鈍感な所があって、いろいろなことに気づかない。ずいぶん後になって、同じことを言っている人を取材したことがある。「命だけ残しなさい。」その言葉が澱になって、どこかに引っかかっていた。ある日、取材ビデオを見返していると、「命だけ残しなさい」の言外の意味が浮かんできた。電話をしてそのことを尋ねると、「あんたは馬鹿だね」と言って電話は切られた。その残留婦人とは、私が30代後半の時に初めてお会いし何度もお話を伺って来た方なので、すぐに飛んで行った。そしてとても詳細なお話をビデオなしで聞かせていただいた。最初は見聞きした話として、それがいつの間にか、ご自分の話になっていた。
集団自決から残留婦人の話にいささか話がずれてしまいました。嫌な言い方ですが、残留婦人達は、「侵略戦争のツケを払わせられた。」という言い方をよくされます。
ある人は、「嫁らにゃしょうがないもんで。」現地の人の嫁になって、命を繋ぐ事が出来た。またある人は、逃げないように顔に火箸を当てられて大きな火傷の跡を付けられ奴隷のように生きてきた。またある人は、第一夫人がいて、第二夫人として、中国人家庭に引き取られた。寝床は家畜と一緒だった。そしてある人は、ソ連兵から逃れるために、コーリャン畑のトイレから月経の汚れ物を拾って偽装し身を守った、と。想像を絶する辛酸を舐め、自分ではどうすることもできない悲惨な生活を生き抜いて来て、今、日本で暮らす残留婦人たち。
身捨つるほどの祖国はありや
しかし、祖国はけっして優しくなかった。
最初の頃は、中国人と結婚したため、日本に国籍があっても、外国人として扱われた。そして、親族の同意がなければ、身元引受人がいなければ、日本に帰ることさえできなかった。成田空港に泊まり込んだ「12人の強制帰国」は記憶にある方も多いと思います。多くの方々の涙と努力、紆余曲折があってやっと現在の穏やかな生活を手にする事が出来るようになったのです。
身捨つるほどの祖国はありや
沖縄では、命どぅ宝(ぬちどぅたから)、「命こそ宝」と言う言葉が、戦後大事にされてきました。そこここで数限りない集団自決があった沖縄の地、だからこそ、命どぅ宝(ぬちどぅたから)と、思います。ぬちどぅたから ぬちどぅたから ぬちどぅたから 身捨つるほどの祖国はありや ぬちどぅたから ぬちどぅたから
集団自決という歴史的事件も、直接伺ったお話の中から、リアリティが浮かび上がってきます。こうして、お会いしてお話を伺える事そのものが奇跡のように感じています。残念ながら、もう、時間はあまり残されていません。