「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」ゲストブック&ブログ&メッセージ

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本日の毎日新聞埼玉版

2020年11月28日 10時58分56秒 | 取材の周辺
 本日の毎日新聞埼玉版に本の紹介記事が出ました。米沢支局の佐藤良一記者から、昨日電話があり、埼玉版にもいつかその内載りますという連絡を受けていましたが、今日になったとは驚きです。
 いつも思うのですが、記者さんは、2時間くらいの長い時間、訴えたいことがあふれて行きつ戻りつした話を、非常にコンパクトにエッセンスを纏められる。どこの記者さんも同じ。仕事とはいえ天才ではないかと感心する。こんなふうに纏められたら、私の本も500頁を超える分厚い本にならないで、読者もまた楽なのではないかとさえ思われる。
 それでも中国帰国者たちの心象風景、出来事の細かなディテール、旧満州の記憶、帰国後の思いなどを、祈りを込めて記したい。具体的かつ精密に。後世の人が追体験できるように。それにしては誤字・脱字が多くて反省しています。
 知り合いの中国帰国者の通訳支援員をしている友人は、「この頃、残留婦人・残留孤児がなくなるたびに、私はいつも皆さんの人生は何だったのだろうと疑問がわきます。日本人なのに日本人ではないような、日本人と認められていないような複雑な思い。正直、職員も帰国者をよく思っていないのも事実。」と、メールをくれました。癌の告知についても日中間での相違に触れ、「中国では告知しないのが普通で、告知したら本人が耐えられないという考え方が支配的。一方、日本では、告知しその後の余生をどのように生きるかは自己決定権が保証されている。そこは大きな違いだ」という。彼女が最近見送った帰国者は、年金と新支援金を合計するとおよそ月14万円の収入があった。しかし自分では半分も使わないで二世、三世の生活を援助していた。癌が発見されても、親族全員が「告知しない」という判断なので、医師は抗がん剤も使えないでいたという。長い間中国帰国者を見てきた彼女は、「自分のためにお金を使うこともなく、外食も旅行もしたことがない。一生懸命貯金してきた。もし、余命がわかっているなら、今は新支援法で二か月間中国に帰ることもできるようになったのだから、一度死ぬ前に中国に帰って、中国の変化を見せたかった。貧しい農村に育ってお金を使うことを知らなかった人生だった。」と言う。それで、「彼の人生は何だったのだろう」というという疑問が、彼女の口から漏れたのだった。
最初はメールのやり取りだったのに、歯がゆくなってか、わざわざお忙しい中、長野の滞在ホテルまで、訪ねてきてくれた。久しぶりにゆっくりお話ができました。ありがとう。 


読売新聞九州版(11月24日)に九州の中国残留孤児のこと、本のことが少し紹介されました。

2020年11月26日 20時44分10秒 | 取材の周辺
 読売新聞の若くきれいな記者さんが、九州からわざわざ飛行機で拙宅まで来てくれて、取材を受けたのは確か9月17日でした。ニュースのような速報性はないので、なかなか記事にならず、このまま記事にならないで終わってしまうのかしらんとも思いました。
 先ほど送られてきた新聞を開いてみると、とても大きな記事で、九州の井手誠介さんと川添緋沙子さんにも取材し、記事にまとめられていました。内容はとてもよく纏まっていて安心しました。若い方が関心を持ってくれることは、とても嬉しいことです。
 この記事が皆さんの目に留まって、ついこの前の出来事だった満蒙開拓という歴史とその後の中国残留者の生活と、今に続いている思いなどを理解し、想像してくれたらありがたいと思いました。
 ただ、署名記事になっていないところが少し気になりました。これから頑張って欲しい記者さんです。また、本の紹介に出版社名が書いていないのも気になりました。前回の毎日新聞もそうでした。新聞では出版社名を書くというルールはないんでしょうか。ご存じの方は教えてください。
取り急ぎ、報告まで。

本日の毎日新聞山形版で、取材時のこと、本のことが紹介されました。

2020年11月15日 10時32分33秒 | 取材の周辺
 次の本の執筆に行き詰まり、気分転換も兼ねて、蔵王温泉に約3週間ほど行っていました。gotoキャンペーンの恩恵を受けて、しかも使い切れないくらいのお土産代(地域共通クーポン)まで用意してくださるという政府の大盤振る舞い!ありがたく享受して参りました。
 予定はしていなかったのですが、4年前にインタビューした皆さんにも、数人会うことができました。孤児編の本を送ると、真っ先に電話をくれた浅黄さん。「誰も俺の話なんか聞いてくれなかったのに、話を聞いてくれて、本にしてくれて、涙がボロボロ出たよ。今までで一番のプレゼントだ」と。また手塚さんは、近所の親しい人に私が贈った本を貸したら「手塚さんの苦労がよくわかった」と言ってくれたそうです。近くに住んでいるお姉さんは本を読んで泣いていたとのこと。妹さんも読みたがっているけれど、近所の人に貸し出し中とのことだったので、私の車に積んであった本を差し上げてきました。まわし読みしてくださっていることも嬉しいですし、近所の人が手塚さんの苦労、悲しみを理解するのに、本がその役割を果たしてくれているのも、何より嬉しかったです。
 4年前のインタビューでお世話になった支援者の方が、毎日新聞の記者に連絡をしてくれて、取材に至りました。
写真の記事は読みづらいので、以下にコピペします。
 
無念の声、後世に 中国残留孤児・残留婦人、証言集 過酷な体験200人から 埼玉の藤沼さん /山形
毎日新聞2020年11月15日 地方版
  • 社会一般
  • 山形県
 太平洋戦争の終結後に旧満州(中国東北部)に取り残された中国残留孤児と残留婦人から証言を集めてきた元上智社会福祉専門学校講師の藤沼敏子さん(67)=埼玉県川越市=が、証言集3冊を出版した。孤児と再会するために来県した今月、毎日新聞の取材に応じて「戦争で犠牲になった無念の声を一つでも多く残したい」と語った。【佐藤良一】
県内から満州へ1万7000人
 証言集は「あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち」(上・下)と「不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち」。北海道から沖縄まで巡り、中国や台湾も訪ね、約200人から体験を聞き取って、インターネットでビデオ映像を公開。それを基に書籍にまとめた。県内の残留孤児11人と残留婦人2人も証言した。
 戦前、国策として全国から旧満州に送り込まれた「満蒙開拓団」。約27万人が在籍し、約8万人が敗戦の混乱で犠牲となった。関東軍に青壮年の男性が根こそぎ召集され、残った高齢者や女性、子供らが旧ソ連軍や現地の盗賊から逃避行し、多くが集団自決や餓死、病死した。山形は長野県に次ぐ1万7000人を送り出した。
 藤沼さんは、埼玉県で在留外国人を支援する日本語講座のコーディネーターをしていた1990年ごろに残留婦人と出会い、中国での過酷な体験に衝撃を受けた。「多くの女性は逃避行中に暴行を受け、現地の貧しい農家の嫁となって生き延びた」と話す。「なぜ、こんな思いまでして生きなければならないのか」と訴える女性たちの声を聞き、証言を集め始めた。

 藤沼さんは今回、残留孤児7人と再会した。介護施設や病院に入ったり、認知症を発症した人もいて、高齢化が進む孤児の現状を痛感したという。
 浅黄勉さん(83)=河北町=は2016年に証言し、祖父母、母、妹3人との逃避行について語った。収容所で末の妹、引き取られた中国人宅で妹2人が死んだ。文化大革命をへて75年に永住帰国。会社に入ったが、同僚からは「満州」と呼ばれた。年金は生活保護の基準より少ないという。「それでも日本に帰ってきてよかった。自分の国だから」と証言した浅黄さん。藤沼さんから贈られた証言集を手に「誰も話を聞いてくれなかったのに本にまでしてくれて、人生で一番のプレゼントだ」と泣いて喜んだ。
 藤沼さんは「日本は国策としての満州開拓を総括していない。戦争の惨禍を繰り返さないためにも、記録を残して後世に伝えたい」と話す。青少年義勇軍や従軍看護婦などの証言をまとめた続編に取り組んでいる。
 証言集は単行本で、各2750円(税込み)。オンライン書店「アマゾン」で販売中。(津成書院はアマゾンでは販売していません。一般の書店で購入をお願いします)


「中日友好楼」2000年8月にインタビューした養母 催 志崇さんがお亡くなりになったとのニュース 

2020年11月01日 09時39分41秒 | 取材の周辺
今日の読売新聞 朝刊に、長春の「中日友好楼」、残留孤児 最後の養母が亡くなったという記事が出ていました。私は2000年8月2日から5日にかけて、「中日友好楼」を訪ねて7人の養父母にインタビューしました。あれから20年以上経ってしまいました。
 7月に上梓した『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(下)―関西・山陽・四国・九州・沖縄・中国の養父母編―』の中に、最後の養父母 催 志崇さんのことを書いています。この時には、養父 秦 家国さんもお元気でした。本から一部抜粋して転記します。

「証言64  中日友好楼に住まう7人の養父母たち(長春市(チョウシュンシ))
(証言1)関 秀蘭さん以外の方のビデオテープは、劣化のため、再生、デジタル処理ができませんでした。関 秀蘭さんのビデオも、前半部分が復元できませんでした。一部、取材ノートのメモをまとめたものです。
              ~略~
(証言6)催 志崇さん(養母 1922年生まれ 78歳) 秦 家国さん(養父 84歳)
 1946年7月、第7道路で泣いていた女の子を拾ってきた。私が25歳、夫が30歳のとき。私たちには子どもがいなかった。あとで3人(男、男、女)生まれた。文革のときは何もなかった。
 1960年代の生活は大変だった。夫はチャーズのとき、中にいた。誰も死ぬまで出られない。食べ物がない。いっぱい死んだ。チャーズの6か月間が一番厳しく大変だった。
 養女は1986年、日本に帰った。親が見つかった。父母は元気で日本にいた。1990年に夫は1回日本に行った。東北地方の養父母40人くらいが一緒だった。日本政府から1回だけ1万元もらった。
 日本からの仕送りはない。夫は昔の会社の年金が300元。私は200元。3人の子ども(実子)は近くに住んで会社に行っているが、仕事はあまりない。仕送りもない。」