『セエデク民族』 シヤツ・ナブ著
載凧(ニンベンあり)如・古川ちかし編集 台湾東亜歴史資源交流協会発行
台湾の温泉に、3年連続来ています。何故か外国にいる緊張感がなく、食事が美味しいし、人々が優しい。硫黄の匂いの温泉なのに、市街地にも行こうと思えばすぐ行ける。もっとも私たち夫婦はほとんどの時間をホテルの中で温泉と読書に費やしている。国内の温泉でも十分なのだけれど、この歳になると日々の生活の中にワクワク感が乏しくなり、たまに海外旅行で注入したくなるのだ。
一昨年はちょうどひまわり学生運動(2014年3月18日に、台湾の学生と市民らが、立法院を占拠した)の時期だった。街頭ではデモの旗が翻り、あちこちの広場で集会が開かれていて町中に不穏な空気が充満していた。日本語を学んでいるという学生と路上で立ち話をする機会があった。彼は「台湾の全国民が我々と同じ考えだ」と話していた。今回の選挙で民主進歩党の蔡英文氏が圧倒的多数の支持を得て当選したことから、今はそれもうなずける。
昔、日本語教師時代にお世話になった古川ちかし先生(当時、国立国語研究所日本語教育室長)が台中の東海大学にいることを思い出し、彼のホームページを開くと長く更新されていない。かれこれ20年以上連絡をとっていなかったが、気になって大学のアドレスにメールしてみると、連絡が取れた。昔からそうだったけれど、面白そうな事を色々しているらしいので、早速、会いに行ってみることにした。新幹線で台北から1時間だ。彼は否定するだろうが、私は昔、彼から「教えること、学ぶ事」の基本を教えてもらったように思っている。無防備にヒントをばら撒きながら歩いていた。
待ち合わせた書店兼カフェは彼が関わっているNPOの拠点で、最近『セエデク族』という本を出した。気軽に、「後で読後感をメールしまーす。」なんて言って来たが、私は台湾の歴史をほとんど知らない。昔、司馬遼太郎の全集『街道を行く』の台湾紀行が話題になった時、読んだくらいだ。それから、台湾と言えば、一番ケ瀬康子先生が授業の中で話されたことを思い出す。家族で台湾で暮らしていて、18歳の時、戦争に負け、引き揚げ船に乗って帰国する時、前を行く同級生が乗った船が爆撃を受け撃沈したこと。そして振り返ると、岸を離れたばかりの、やはり同級生(親族だったかも?)が乗った船も撃沈されたこと。その経験が自分の原点だ(社会福祉学を選んだ以上、自分の原点を絶えず忘れてはいけない)、というようなお話をされていたように思う。
50年の長きにわたって日本が支配し、1947年の二・二八事件から、つい最近(1987年:俵万智の『サラダ記念日』ヒット、利根川進氏ノーベル賞受賞)まで、戒厳令が敷かれていた台湾。白色テロ、外省人、内省人(本省人)、原住民(16民族)、政治的立場の違いやアイデンティティーの問題など、私には理解できない問題が山積である。
それでも敢えて、『セエデク民族』を読んでみた。
まず、古い日本語なのだろうか、読みにくい言葉が沢山あり、納得しないと先に進めないタイプなので、いちいちコトバンクや大辞林で調べたりした。それでもわからないものが沢山あった。萬大、隣蕃、ガヤのならわしのガヤってなによ、称揚、中風、撫育、相婚、口腹欲、「1公尺」って「1尺」?
日本語教育を受けたシヤツ牧師自身による日本語の記述なので、覚悟を決め推量しつつ読み進めた。「正名」という言葉も、非常に重要な意味を持つ言葉なのに、どれだけ理解できているか自信がない。その上で感想を書かせていただきます。
(以下感想)
「文字で記載した歴史を持たない民族」にとっての歴史は、親から子へ口述で語り継がれる歴史であった。が、台湾の山岳地帯の少数民族の所にも、日本統治時代、皇民化政策と共に日本語教育が普及されていった。そしていくつかの事件があった。どのような歴史的事件があったのかは、研究者によって書かれたこれまでの出版物や日本統治文献の記載から知る事はできるだろう。
しかし、古川氏の試みは、当事者に出来事・事件を語ってもらい、当事者がそれをどのように捉えているのか、語る中から新たに歴史を紡ぎだそうとしている。昔、彼がよく言っていた「エンパワーメントの日本語教育」にも通じるものを感じた。
期せずしてここでも「小さき人(または民)」の視点から、歴史を編み出そうとしていた。しかし、それほど簡単なことではなく、語ることによって新たな民族間の反目の火種になるかも知れないと言う危険も孕んでいる。だが、敢えてここで、「小さき人(または民)」の視点から語られる歴史を記述しなければ、民族の苦悩や哀しみは理解されず、出来事、事件は「大きい人」の視点でのみ記述され、「大きい人」にとって都合のいいように評価され、書き換えられ、利用され続けたりもする。
霧社事件の記述をめぐって、これまで考えたこともなかったけれど、歴史ってなんだろう、と、改めて思う。一つ一つの出来事をどういう立場から記述するかで、多いに変わってしまう。これまで、「これが歴史です」と与えられたものを無批判に鵜呑みにしていた気がする。この本を読んで、そんな思いが沸き上がったことが、一番の感想かも知れない。