しゃかしゃか母、旅に出ました第二弾!

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朝鮮通信使縁地巡り・朝鮮人街道(4)

2021年04月25日 | 駐名古屋大韓民国総領事館
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今回は 『朝鮮人街道』 についてのお話です!

江戸時代には一般に鎖国の時代と思われていますが、

朝鮮と琉球とは信を通わす外交のある国 「通信の国」 とし、

中国とオランダとは貿易船の来航を認める 「通商の国」 と定めていました。

その朝鮮からの使節 「朝鮮通信使」 が通った道が

「朝鮮人街道」 と呼ばれ、今もその名を残しています。



豊臣秀吉の朝鮮侵略以後、

断絶が続いていた日朝関係の回復を願った徳川家康は、

対馬藩を通じて朝鮮へ幾度と使者を送り、国交の回復に努めました。

紆余曲折があったものの、慶長12年(1607年)、正式に使節を迎え入れることとなり、

以後、文化8年(1811年)までの間、計12回の通信使が日本にやってきました。



外交使節のほかには文化使節的な面も持っており、

学者や文人、画家や書道家たちも同行しており、

少なからず当時の日本の文化に刺激や影響を与えたと思われています。

通信使の一行は “ソウル” を出発し “釜山” より海路で “対馬” から “瀬戸内海”、

“淀川” から “京都” へ到着、その後は陸路で中山道・東海道を通過し “江戸” を目指すという行程で

その長さは約2000kmに及び、その期間は往復で約1年もの歳月を費やしました。



しかし、この長い道のりの中で 「朝鮮人街道」 と呼ばれるのは、

不思議ながら現在の野洲町小篠原から安土・八幡を経て

彦根市鳥居本までの約41kmに限られています。

(滋賀県内での通信使の行程は基本的には京都を発ち、大津で食事、守山で宿泊、
 翌日は、八幡で食事、彦根で宿泊という行程)


地図は 「 朝鮮人街道を歩く」 よりお借りしました

また元々琵琶湖舟運の港を繁ぐ、陸路として便利だった道を

信長が幹線道路として整備し、

その後、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた家康が凱旋した時に通ったことから

「めでたい道」 として、将軍上洛や外交使節の通行の際にのみ使われました。



縁起の良い吉道を通行させることで通信使への優遇ぶりが考えられます。

またこの行列見たさに、おびただしい数の見物人が熱狂したそうです。

当時は、朝鮮の方が文化先進国だったためのようです。

当時の様子が全国各地で行事や祭りとなり、今でもその様子を思い忍ぶことができます。

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