太宰府木うそ保存会

木うその技術伝承と原木育成を目的とした会です。木うその歴史や会の活動内容などを紹介します。

九重長者原の木うその森の作業2

2016年07月02日 | 木鷽の歴史シリーズ

帰りはうきは市吉井にある金子文夫資料館に寄りました。
ここには金子さんが回収された郷土玩具のコレクションがあり、
大正時代以来の木うそも収蔵されています。
今回は学芸員さんのご厚意で収蔵品を拝見することができました。
古い収蔵品の中には博多の郷土研究家梅林新一さんの旧蔵品も引き継がれていました。


作り手の目線で色々な意見が飛び交い、
吉井の若宮八幡宮で行われていた「はと替え」で使われた
「木鳩」に皆さん興味深々。
なかなか動こうとされませんでした。
「昔の人のほうが相当うまかった!」
などと感心しきりでした。


木鳩は独特の羽上げの形をしています。
こちらは大正時代以来の古い形式のもの


こちらは昭和の新しいスタイルのものだそうです。
吉井町はかつては桶づくりが盛んで、
木鳩は桶づくりの道具が使われていたのだそうです。


帰りには若宮八幡神社に立ち寄り参拝しました。
「木鳩」は途絶えましたがはと替えは福御籤方式で4月3日におこなわれており、
あたりは真鍮製の鳩なのだそうです。

なかなか充実した研修となりました。
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中津市と太宰府市の姉妹都市締結と本会

2014年10月06日 | 木鷽の歴史シリーズ

8月31日大分合同新聞記事より

太宰府市交流事業について
中津市 企画情報課

1 趣旨
平成の合併前、旧耶馬溪町と太宰府市との間で友好都市盟約が締結されていました。
合併により耶馬溪町はなくなりましたが、その後も民間交流は続いており、お互いに両
市のイベントへ参加するなど友好な関係を継続してきました。また、黒田官兵衛や菅原
道真など、歴史的にみても両市は縁がありました。こうした経緯を踏まえ、これまで培
ってきた友好関係を継承し、新たな交流や支援を通じて相互の信頼と理解を一層深める
ことで、両市のさらなる繁栄に寄与するとともに両市民の絆を末永く結ぶため、これま
での友好都市盟約を承継することとなりました。
2 要求内容
友好都市調印式典開催経費(会場費、旅費、記念品等) 1,366 千円
3 式典の予定
・開催地 太宰府市中央公民館
・日 時 11 月 23 日(日)
・スケジュール 15:00~16:00 調印式
16:00~17:30 レセプション
・参加予定者 中津市から職員、議員、民間交流関係者など約 70 名で参加予定
4 太宰府市との関係について
◇平成 4 年 9 月 26 日、太宰府市と耶馬溪町の友好都市の盟約締結
(いままでの取り組み)
・耶馬溪より太宰府市民政庁まつりに参加し観光PRなど実施
・太宰府より耶馬溪ふるさとまつりや茶摘みフェスタへの参加
・「太宰府木うそ保存会」のみなさんが伝統工芸品「木うそ」の原料であるコシアブ
ラを小柿山地区で切り出し作業
・耶馬溪地域と太宰府市のバレーボール協会の交流
◇平成 26 年 2 月 井上保廣太宰府市長が新貝市長を訪問
(参考)
太宰府天満宮で祀られている菅原道真公がかつて京都から大宰府に移る際、初めて踏
んだ九州の地が中津市といわれ、その際に滞在した場所では道真公を祀る犬丸天満宮が
あります。また、初代中津城主黒田官兵衛が晩年福岡に移った際、荒廃していた太宰府
天満宮の再興に尽力したといわれています。



11 月 23 日(日)はプラムカルコアへ!?
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駛馬(はやめ)天満宮でうそ替

2014年09月24日 | 木鷽の歴史シリーズ

明日9月25日は太宰府天満宮では千灯明がおこなわれ、
門前の小鳥居小路では「古都の光」行事でうその燈籠がお目見えします。


福岡県大牟田市宮原町1-164に所在する
駛馬(はやめ)天満宮で秋季鷽替大祭(いわゆる鷽替神事)がおこなわれます。
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古都の光

2014年09月21日 | 木鷽の歴史シリーズ



第9回「太宰府 古都の光」の大宰府政庁跡
今年も木うそ君が登場していました。


太宰府の秋もじょじょに深まります。
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太宰府木うそ保存会発足15周年記念シンポジウム その4

2014年04月10日 | 木鷽の歴史シリーズ
 1つは天神信仰を下敷きとして、全国に広がった鷽替神事や木うそ文化のセンターとして、太宰府が機能していて全国に伝播したということが分かりました。
 1つは、交換するという行為が神事の本質的な部分で、その物を手もとに長くおいておかない。替えるという行為そのものが、災いの除き、幸運を得るという願いを伝えるために必要なこと。鷽替神事が全国的に行われている換物神事の原点である可能性がある。
 1つは、鷽替と鬼すべとの関係について。これまで吉村貞司先生が書いた「ウソ替え神事とオニフスベ」の論文がありましたが、今回の森先生の発表ではっきりと関係があるというのが分かりました。修正会には鬼が出るタイプと裸のタイプがありますが。鬼がでるタイプは西に多いというのが分かっています。裸のタイプは岩手のソミンマツリ(蘇民祭)が有名ですよね。太宰府の事例を見ますと、鬼すべは鬼がでる行事ですが、仏教行事としての修正会として捉えたほうが鷽替との関係が理解しやすい。1月7日は結願の日に行われているということも分かり、今日は森先生の話を聞いて、感動しました。
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日本民具学会での木うその研究発表

2013年11月11日 | 木鷽の歴史シリーズ

第38回日本民具学会大会が神奈川大学横浜キャンパス
(横浜市神奈川区六角橋3-27-1)において
平成25年11月9日(土)~10日(日)の日程で開催され、
研究発表で広報部鳥が太宰府の木うそについて発表しました。



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わすれくさ ~木鷽の歴史シリーズ3~

2010年04月27日 | 木鷽の歴史シリーズ
今から205年前の木鷽は、黒田藩御用絵師の斎藤秋圃が描いた「わすれくさ」に
描かれています。
「わすれくさ」は俳句に挿絵のついた絵俳書という種類の刊行物です。
木鷽そのものを描いた絵ではなく、鷽替神事の様子を描いたものです。

この本が発刊された文化2(1805)年は、社会経済が安定し町人文化が花開いた頃。
十返舎一九や与謝蕪村、頼山陽などが活躍し、歌舞伎や長唄などの芸能も盛んに
なりました。


わすれくさに描かれた木鷽を大きく模写してみました。
江戸時代後期の木鷽はガングロ(顔黒)で小さな丸目、赤い胸が特徴的です。

(現在、「わすれくさ」は福岡大学図書館が所蔵しています。電子図書で公開さ
れていますので、覘いてみてくださいね
→http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/wabi/wabi-html/ten/wabi-ten-pa3.html)


これも復刻して、小鳥居小路の展示に並んでいます(似てるかな)。
こっちも観てやってくださいね。
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宇曽替之守之図 ~木鷽の歴史シリーズ2~

2010年04月14日 | 木鷽の歴史シリーズ
最も古い木鷽の絵は
『天満宮御一代記・絵本菅原実記』や
『百人一首一夕話』(尾崎雅嘉著 天保4(1833)年成立)
の中に見ることができます。

『宇曽替之守之図』と記された木鷽の図は三面展開で細かく記されています。
「樫の如き木以て造る」
「此のうそかへは万治年中のものしして、或家に秘してありたるを、書史のうつす
 ものなり」と注釈が入っています。

万治年間は1658~1661年の間で、今から350年前の江戸時代初期のころ。
(四代将軍、徳川家綱の時代)
この木鷽の絵は注釈から万治年中に作られたものと考えられていますが、
絵を紹介している文献が江戸時代後期(幕末寸前)に書かれたもので、
年代を確定する資料としてはやや信憑性に欠けると思われます。



全体が長細く、鳥らしい姿が特徴的です。
小さく鋭い眼や赤黒二色のシンプルな彩色で、現在の木鷽とは似ても似つかない姿
をしています。


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『太宰府天満宮故実』 ~木鷽の歴史シリーズ1~

2010年04月05日 | 木鷽の歴史シリーズ
「太宰府の木鷽」発表を期に、木鷽の歴史シリーズを初めていきたいと思います。

まずは太宰府天満宮で行われる鷽替神事はいつ頃から行われていたのでしょうか。

文献資料で鷽替神事が登場するのは、今から325年前の江戸時代前期のこと。
(将軍は犬公方で有名な徳川綱吉の時代)

貞享2(1685)年に貝原益軒が『太宰府天満宮故実』の中で、
「…正月七日の夜はまづ酉刻ばかりに、うそがへと云事あり。さて其次に法事を
なして後儺あり。鬼とりと云。…」
(1月7日の夜はまず午後5~7時頃に、鷽替という神事がある。さてその次に
法事を行い、鬼すべがある。)と記しています。

同様の記述はその後、江戸時代を通して『筑前国続風土記』や『太宰府略記』、
『百人一首一夕話』に書かれていきました。
このあたりの文献については次のシリーズをお楽しみに(^^)!


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