平成になって初めての夏、息子は黄泉の国に旅立った。
17歳と7カ月。
高校3年生。
突然死。
残された私は悲しみから中々抜け出すことが出来なかった。
出来なかったではなくて抜け出そうとしなかった。
悲しみの中で生きていた。
どうにか抜け出せたのは10年近く経ってから。
「人のために生きる」「前だけ見て進む」と決めてからでした。
ボランティア活動に必死になって過去を忘れようとした。
何かに夢中になっている時だけは息子の事は忘れていた。
そんな私の一番の協力者は主人であり娘、そうです家族でした。
みんな悲しいのに悲しみを隠して突っ走った私でした。
平成から令和にも代わった。
今年は息子の33回忌も終わった。
思い出よりも思い出す日が多くなった。
これからは、もっとゆったりと生きて行こうと決めた。
おとうさんありがとう!いつも私の活動を助けてくれて。
娘よありがとう。いつも一番の理解者でしたね。
いつも私を守ってくれた主人。
コロナ渦で家に居る事が多くなった。
家も楽しい。そして、これで区切りが付けられる。
良かった。残りの人生はゆったりと過ごして行きたいね~~~~。
詰襟の学生服姿の遺影に語りかける母はもうすぐ後期高齢者です。
さぁ!今日も朝から暑い。
生きていたら50歳。
でも心の中では17歳。いつも遺影は私を見守ってくれる。
息子よ、おかあさんは笑顔でゆっくりと突っ走るよ!
※ 今日の良い事は?
こぼれ種から咲いた百日草。
同じ色でも可愛いから良かった。
これで切りが付けられそうです。
ブログも張り切って更新しますので
よろしくお願いしますね。
これが原文です。
やはり、電話で色々と聞かれたんですが
素晴らしい文章になっていました。
これで切りを付ける事ができそうです。
でも思い出していますが・・・・
悲しみを抱えてる者は多いい 一人ではない
人間みな 生ある限り喜怒哀楽を持ちて歩む
ま くよくよする人は羨ましい
悲しみを抜けて笑う日が来ることを願っています
人間て極致に至ると 悲しい時に笑い 嬉しい時に泣く
面白くも不思議な事です(笑)
祖母は、子供を4人も見送った自分程、不幸なものは
この世にいないと、若い頃は辛くていつもそう思って
いたそうです。
辛さを経験しているので、慈母観音様のように
優しい祖母でした。
みんなの分も長生きして、101才の翌日に眠るように
亡くなりました。
晩年の祖母の言葉「今はとても幸せ。だから辛い
ことがあっても、一生続くわけではない。死ぬ前に
初めてその人は幸せだったかわかるんよ。
生きていて良かった‼️」
大好きな祖母でした。
ちょっと思い出話でした。
いつかいつか元気になられる日が来るといいなあと心から願っていたんですよ。
忘れることは出来ないけど、生き方を変える努力をすることは出来るかもしれませんね。
家族の皆さん同じ思いをされてこられたでしょうね。
家族の結びつきもさらに強くなり、皆さんに感謝され、ゆったりと生きて行こうと思われたのですね。
長い道のりだったでしょうが、息子さんはきっと見守ってくれていると思います。
夢子さん、私も応援しています。
でもこれがあったからパソコンも努力が
出来ました。
後、残り少ない人生はゆったりと
過ごそうねと話し合っています。
したいですね。
今日の地元新聞に投稿した分が載りました。
これで区切りを付けたいとは思っています。
もう一つの挑戦は「市民短歌大会」です。
初めて短歌なるものを作りました。
これが心配です。
いつも思い出しながらの生活です。
コメントありがとうございます。
元気が出ますよ。
いつものボォ~~も大好きだしね。
家族には感謝しています。
これからも仲良く生活しないと
罰が当たりますね。
これで区切りが付きました。