(広島市・縮景園の新緑)
民進党の国会議員に対して、自衛隊の幹部隊員が、「国民の敵」と罵ったのそうでないのと、またぞろ、「あった・なかった」という、低次元の争いが出現した。
防衛省の聞き取りによれば、「日本の国益を損なう」「ばか」「気持ち悪い」などとは言ったが「国民の的」とは言っていないということであった。
こういうレベルの争いは、あまり実りがない。「国益を損なう」と言えば、国にとって不利益な言動であり、意味の上では、「国民の敵」と大差ない。野党だって、与党の責任者に向かって「国民に対する背信行為だ」などと追及しているではないか。背信行為と国益を損なうは、ほぼ同一の内容である。「軍事衝突」と「戦闘」と同じ程度に近い。
問題は、「国民」という言葉の方である。何を以て「国民」なる曖昧・多様な言葉を安易に用いるのか。自衛隊員の言う「国民」と野党議員の言う「国民」の意味は異なるに違いない。いかに国政選挙で選出されたとはいえ、低投票率の選挙で選出されたものであり、選挙区の選挙民の意思を反映してしるかどうかさえ怪しいのである。「国民」の意思などどうして把握できようか。
戦時中の忌まわしい言葉「非国民」も同様で、どのような存在を「国民」と認識し、どのような国民を「国民ならざる者」と認定したのか。伝家の宝刀のように、「国民」をもてあそぶのは、与党も野党も、いやすべての日本人にも止めにしてほしい。言葉の内容を確認するすべのないことであり、恣意的に使用されるに決まっているからである。
日常の会話においても、しばしば、根拠もなしに「みんなが(は)」を使い、他者を説得しようとすることがある。「国民」も同様である。根拠もなく、大上段に振りかぶってみただけであろう。