たまには、本ブログの真のねらいに即した内容を書き込もう。
昨日、表題の本を読了した。
私は、「評価読み」なる読みの理論を主張し、特に小学校の現場にたびたび出かけて、現場の先生方と教材研究、授業構想を行い、理論の有効性を実践的に検証する努力を続けてきた。すべての研究アドバイザーとしての仕事から手を引いたのであるが、最後の研究校には8年継続して出かけ、多くの場合、訪問日には8時間程度滞在して、すべての先生の教材研究、授業案づくりに付き合い、実証のための授業の観察、分析、助言を行った。
読みには、性格の異なる二種類がある。表現されたことを、できるだけ正確に読もうとする「確認読み」と、書かれた内容と表現方法、構造をの質を吟味・評価する「評価読み」とである。学習指導要領によって文科省が要求しているのは「確認読み」であり、書いてあるとおりに読む読みである。この読みに終始していては、情報リテラシーは身につかない。日常生活には、質も量もさまざまな情報が溢れている。身を守るためには、情報提供の仕方を吟味して、価値ある情報と有害、不十分なものを区別できなくてはならない。
教材研究を重ねて来て、指導者である先生方の読みにも問題が多いことも分かった。時に、子どもの方が深く、正しい読みをしているのである。
「評価読み」の実践を重ねた結果、文科省による学力テストでは、特にタイプBの問題(日本の児童・生徒の苦手とする。いわば評価読みタイプの読みの能力テスト)で、めざましい成果を上げることができた。ついでに、タイプAの成績も上々であった。児童の学習の姿勢も顕著な変化を見せ、先生方が、児童から有益な影響を与えられたことが判明した。その理由は、「評価読み」は、実生活の中で求められる、いわば「生活読み」であり、児童は、主体的にならざるを得ない読みだからであり、目的の鮮明な行為だからである。教材を吟味・評価するよみは、おざなりな読みを否定する。あやふやな読みに基づく評価は、他の児童に否定される。正確に読む必要がある。これが、「確認読み」の力を育てることになったのである。
大雑把に言って、上記のような経験をし、「評価読み」の有効性を検証していたのであるが、新井氏の著書には、中・高生は、「確認読み」すらできないという実態が報告されている。AIは、文系の人間が圧倒されるほどに賢い存在ではなく、統計や確率を駆使した、意味を解することのできない不確かな存在で、人間を追い越すような存在ではないこと、不得意なことが多いことを明らかにしている。
ところが、限界のあるAIの能力の実態と、中・高生の読解力は、どっこいどっこいだと言う。AIの進化によって消滅する職業が増えることが話題になっている。そこで、AIにはできない能力を磨いて、生き抜くことが必要になるのだが、人間の方も、AIができないのと同じように欠陥があるというのである。
いかにも悲観的な現状認識、未来予想であるが、新井氏が著書で明らかにした中・高生の実態と私が目にしてきた小学生は、まるで、別の星の生き物のようである。小学校でも低学年の児童の反応の方が活発でおもしろいことを考慮すると、学年が上昇するにつれて読みの意欲も能力も劣化してしまい、無目的に、機械的に「確認読み」をしてしまうようになり、読みの能力も低下したのかもしれない。日本の小学生には、顕在化していない場合もあろうが、「確認読み」は、AIよりも上手にこなす能力があり、さらに意味と価値を吟味・評価する読みの能力を発揮できることを、彼らの名誉のために書いておきたい。