それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

「経験」と「知識」

2018-08-16 08:41:33 | 教育

 「周防大島」(山口県)で、2歳の誕生日を翌日に控えた幼児が行方不明になった。帰省先の祖父母の家の近くで、祖父と海岸に行く途中、一人で引き返し、自宅の側まで帰ったのが確認された後、神隠しのように消えてしまったという。連日多くの人が捜索にあたったが見つからず、3日目になって、大分県からやってきた高齢のボランティア男性によって発見された。祖父母宅から、さして遠くない谷川だったという。健康状態に大きな問題はないというので、家族のみならず多くの人が胸を撫で下ろした次第である。
 発見者の男性は、過去にも行方が分からなくなった女児を捜し出した経験があったとかで、それを元に、「子どもというのは、上に上に登る習性があることが分かったので、今回も、山の方に登ったはず。」と想定して捜索場所を決め、わずか20分ほどで発見に至ったというから見事でる。多くの警察関係者、警察犬、むろん地元の人々の人海戦術をよそに、あっという間に解決してしまった。
 この事例から、「経験」と「知識」の関係について考えることがあった。
 わが国の教育界に、時々、「知識」教育の否定という動きが出現する。「知識」の詰めこみ教育は、学習者の主体性を損なうというのであり、時に、これが教育改革のエネルギーになり、偏った結果を生み出すことにもなる。 
 「知識」によらず、何でも「偏重」はよくない。「知識」教育=「知識偏重」教育ではないのであるが、しばしば「知識」は教育の敵となってきた。「知識」に対置されるのは「経験」である。「経験」の重視は、「学習者」の論理を重く見ることを意味し、一般受けしやすいが、これまでのところ、教育内容の構造化、系統化が難しく、学力形成に難があるという問題を抱えていた。
 教育すべき「内容」に重点を置くのか、学習者の論理を重視するのかは、教育におけるえ大きな課題で、教育の歴史は、この両者の間を一定の間隔で行き来することを示している。お陰で、大局的には、教育の現状から、未来・将来を予見することが可能になるとも言える。現状は、「経験」重視から抜け出て、「教育内容」(知識、学力)の方に身を寄せつつあるというところか。昨今、「アクティブ・ラーニング」なる学習者の論理を重視する活動が奨励されているので分かりにくいが、これは、主として、旧態依然とした講義中心の大学教育(学士教育)に関する改革の理論から言われ始めたものであり、大学での教育が知識偏重に陥っていたと見るなら、この動きは必然であるが、初等・中等教育に関して言うなら、歴史的には、教育内容重視(の見直し、再確認)の方向に向かっているのではなかろうか。
 「経験」重視、「学習者の論理」を大切にする教育は、過去に数多くの理論のもとに実施されてきた。子供の側に立つ教育は、一般受けもよいのだが、その実、何を教育すべきかが判然としにくく、教育の成果が見えにくいのである。その問題性は、「学力検査」等によって顕著になり、関係者や保護者を慌てさせることになる。「知識」や「能力」等の「教育内容」の価値を見直し、確かな学力の育成を目指すべきであるという動きが出てくることになる。で、現状は、そうした動きの中にあり、PISAなどの国際学力調査の結果が、この動きを加速させる
  しかし、教育の内容としての知識や技能よりも、学習者の経験を大切にするという主張の方が一般受けはよい。教育の分野では、国民のすべてが評論家になりうる。すべての国民が教育の世界に身を置き、多くはつらい思いをさせられたという記憶があるので、知識中心、暗記中心、学習者の学習意欲無視などの実体験を持っているから、「知識」よりも「経験」を尊重するという主張が受け入れられやすい。このような事情もあって、現在でも、教育の歴史の流れの他に、「知識」の敵視が残存しているのである。

  さて、今回の幼児の行方不明事件に戻ろう。
 発見者の行動は、過去の女児捜索、発見という「経験」に根ざしている。あのときはこうだったという経験である。それが完璧といえるほどに的中し、成果をあげたとみれば、単純にああ「やっぱり『経験』が、ものを言うんだ」ということになろう。しかし、経験が経験のままでは、「あのときはこうだった」という域をでず、適用範囲は限定的にならざるを得ないであろう。「あの時」という一回性、限定性を超えるには、経験の一般化、抽象化、普遍化・法則化が必要である。いわば、「経験」の「知識化」が必要である。この点に、嫌われがちな「知識」の存在理由=価値があると言えよう。
 「子どもは下るのでなく、登るという習性を持つ」という見解は、一回の経験そのままでは生まれない。この見解が、今回の場合に、地形から見て正しかったかどうかは分からないが、見事に発見に至ったという結果から見て、大成功だったことは間違いない。(徒労ともいえる行為に終わった人々が気の毒な結果であるが……。特に、そんなに近くにいた幼児に気づかなかった警察犬などは面目ないのではなかろうかと心配になる。)
 「知識」は、単に「経験」の対立概念ではない。両者は、相互依存の関係にあり、一方から他方への回路が用意されていなくてはならない。切実な「経験」は、「知識」として構造化され、普遍化されて定着し、知識は、実の場で機能するものとして適用・変換されて、その存在意義が明確になるということであろう。
  余計な教育談義は、さておき、今回の幼児発見は、まことにめでたいことであった。時節柄、ご先祖様のご加護とでもいうのが正しいのかもしれない。