それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

「分類」ということ

2018-08-27 02:29:52 | 教育

 (わが家の庭で出来た山葡萄の一部。びっくりするほど大量に実った。)

 「分類」と「比較」は、人間が物事を認識する上で、最も基本的なものと考えられているようだ。最も基本的という断定が正しいかどうかに自信はないが、重要な認識能力であることは間違いないであろう。
 今日は、古書店に出かけた。昨夜、かこさとし(加古里子)氏の『未来のだるまちゃんへ』(文春文庫)を読了し、子どもへの対し方に感銘を受けたので、氏の手になる絵本を入手するためである。氏の絵本は、すでに数冊手元にあるはずであるが、探し出す時間とエネルギーがない。手っ取り早く古本屋に行ってみようと思い立ったのである。
 さて、古書店に行って、絵本の棚の前に立ったところで困惑した。多数の絵本が、どのような原理・原則で分類、配置されているのか、さっぱり分からないのである。ちょうどやってきた女性の店員さんに尋ねてみた。答えは、「大きさで分けています」とのこと、困惑が続く。このような分類法は、かつて、保育園関係の書物で、目にして、愕然としたことがある。特定の本を探し出すのに苦労するだろう。店員さんは、その後で、「出版社別にもなっています」と付け加えた。分類基準が複数あると、本の検索は、更にむずかしくなる。
 結局、かこ氏の本は、一冊あっただけで、別のカテゴリーの棚に異動した。他の棚は、基本的に、分野別に大別した上で、著者名による分類が行われていて、本を探し出すのにあまり苦労はしなかった。絵本も、書名あるいは著者名の順番に配置してくれればわかりやすい。絵本などは大きさが多様で、分類後の見た目も悪く、書棚の棚の位置の決め方も難しいという理由もあるのだろうが、それにしても、大きさで分けるというのは大胆過ぎはしないだろうか。
 わが家の小図書室と書斎には、合わせて、二千冊以上の本があるようだが、特定の本を探し出すのに大変苦労する。おおよそのジャンルを念頭に入れて配置しているてつもりであるが、ほとんど役に立たない。数百枚あるCDも同様である。作曲家別にしたものの、分類後に購入した物が思いもかけない所に入り込んだり、入れ間違ったりで、聴きたい物を探し出すのは一苦労である。
 仕事の必要から、雑誌論文のデータベースを作成したことがある。極めて多くの論文を収録したが、これも論文名、著者、掲載誌、出版日時が中心で、論文の現物をデータにしたわけではない。PC上で、即座に検出できても、現物を手に入れるとなると、書斎で本を探しあぐねるという状況に悩むことになる。
 いっそのこと、ジャンルを度外視して、著者名か書名の五十音順に配置するのが便利かもしれない。しかし所有物の所在が分からないということは、物を持ちすぎているということであろう。不要なものを大胆に処分するということも考えなくてはならない。分類しなくてもすぐに発見できるという簡素な部屋を夢想しつつ、とても出来そうもないことに落胆している。