それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

文科省・学力試験の内容変更に関わる問題

2018-08-30 01:20:52 | 教育

 文科省は、学力試験(ここでは国語)の問題A、Bを、今後は一本化して行く方針であるという。Aは基礎・基本、Bは応用という性格のもので、従来、BがAを上回ることはなかった模様だ。
 この結果にはチャンと理由がある。従来、学校では、「基礎」的な能力に集中していたのであり、「生活」に生きる、「実の場」に活きて働く力などは、かけ声はあったものの、かけ声だけに終わり、ほとんど成果があがらなかったのである。しかも、Bタイプの能力を育成する方法も分からないままであった。
 二つの学力は、基礎・基本と応用という一つにまとめられるものであるという考えにも一理あるように見えるが、学校で育成した力が、児童・生徒の日々の学校内外の生活の場に活かされるという当たり前のことが達成できていない状況下で、一つにまとめ上げてしまうことは、両者の特性および関係を曖昧にしてしまい、特に、現実の生活で最も必要とされるBタイプの能力の存在を見えなくしてしまう危険性がある。
 かつて研究のアドバイスを続けていた小学校で、Bタイプの学力の育成を主眼とする取り組みを進めて、学力試験の結果、Bタイプが全国平均を十数ポイント上回ったことがある。私は、その結果を当然だと思っている。そういう結果が生まれるような指導理論に立つ実践を重ねてきていたからである。
  学校の国語教育と実の場の言葉の教育、学校で求められる国語学力と実の場で求められる言葉の能力とは、全く異なる文化を背景に持っている。学校国語、教室国語は、確かに基礎的な知識や技能を育成するが、その機能するところは極端に狭く、限定的である。
 例えば、国語の、あの薄い教科書(上下二冊構成になっていることが多い)を一年かけて使用するのであるから、重箱の隅をつつくような指導に陥る。現実の生活にはあり得ない行為である。しかも、「正確な読み書き」を旨として、批評的であったり、創造的であったりすることは稀である。国語で最も多くの時間を費やす、「読むこと」を例に取れば、実の場では数分で読み終えるような文章を数時間から十時間以上もつつき回す。精読といえば聞こえがよいが、こういう指導法は、一読では理解が難しい、難度の高い(成人向けの)文章の解釈の仕方の悪しき伝統の結果であろう。文章の内容と形式を、聖書のように、ひたすら正確に理解するというような活動が、児童、生徒が学校よりも多くの時間を使う日常生活においてどのような役割を果たすことになるのだろう。
  教科書教材の内容にしても、ただひたすら信じてよいものはほとんどない。個性や癖のあるのが当然の人間の手になるものであるから当然である。「検定」を経ているなどのまやかしを信じてはならない。しかし、危うい内容、形式の教材こそが、実の場との接点になっているのである。世の中は、質も種類も多種多様なものであふれており、その危うい森の中を戦いながら通り抜ける(生活し、成長する)ことを教えるには、個性も癖もある教科書教材は、極めて有効である。これは皮肉でも何でもない。
 現場の教員との毎月の研究会では、いつも、このような問題状況と、育成すべき真の学力を確認しつつ、もっとリアリティのある言葉の教育が必要だと痛感している。結論的に言えば、実の場の原理に立って、学校国語、教室国語を大改造することが喫緊の課題である。現段階で学力AとBを一つにまとめることは、単に実の場文化を支える力の存在感を希薄にし、学校文化、教室文化という特異名世界に、子どもたちを閉じ込めることになるのではないかと心配である。そのように育てられた人間が、やがて支える日本という国の将来はどうなるのだろうか。