保護者にアンケートをして、職業を調べ、新型コロナ汚染地区への関わりのある保護者の場合、その子弟の登校自粛を求める小学校があったという。登校を拒否されたのは、汚染地区である都市部に出かける長距離ドライバの子弟であった。緊急事態宣言下、買い物は通販を推奨しながら、一方では、通販関係者へのいわれなき差別である。
感染者への差別行為、医療従事者及びその家族の拒否などが多発しているようだ。人間の素朴な感情として、危険なものに近寄ること、危険なものが接近する状況を回避しようとする本能があることは否定できない。しかし、一方で、最近は、医療従事者への感謝の気持ちの表明が、多様な方法でなされるなど、社会的存在としての人間の心情の表明も行われるようにもなっている。
いずれの反応が温かい社会を創るかは、改めて言うまでもない。危機的な状況下では、プリミティブは感情を抑制することが求められる。それができるのが日本という国であり、日本人であると信じていたのだが、いやいや、「(原初的感情に支配される)人間も無視できないほど存在するようだ。しかも、それが、学校という教育の場に存在することが問題である。
教育は「理想」だけを説いていればよいのかという意見は、教育関係者以外からしばしば投げかけられる疑問である。現実の社会は、学校で教えるほど理想的ではない(甘くない。)。学校の教育は絵に描いた餅である、現実世界に適用できない等々の批判である。
しかし、学校では「理想」を説くべきである。しかも、「理想」のみを説くべきである。「現実」は、学校を一歩出たところで待ち構えている「社会」が痛切に教えてくれる。貧富の差、男女差、能力差、美醜……。理屈では受け入れがたい現実は、社会が教えてくれる。こういう理不尽に耐え、誇り高く生きるためには「現実」を超える「理想」の存在が必要なのであり、その教育の場が「学校」である。その「学校」が矛盾に満ちた、受け入れがたい「現実」教育の場になってどうするのか。
学校が、集団いじめの場になって大問題になったご時世である。学校は、すでに死に絶えていたのか。