新型コロナ対抗策の1つが、「家に居ること」だという。それは論理的には正しいことであろうが、どうも評判がよくない。
ストレスが溜まる、体力が落ちる、家族内での諍いが頻発する、食事の世話が面倒、子どもに手がかかる、在宅看護の困難、等等、数え上げればきりがない。
が、これとよく似た反応は、連休、夏休み、定年退職後、単身赴任の終了時等の反応と酷似している。つまり、コロナ禍という状況下に限らず、家族の全員ないし多数が在宅することから生じる不都合である。しかし、最近は、在宅に起因する肥満を「コロナ太り」などと称して危機感や興味を喚起する輩も出現している。「コロナ詐欺」という情報も目にした。メタボも詐欺もコロナ限定ではなかろう。
危機感をあおるのは言うまでもなくメディア、特にテレビのニュースというかバラエティ・ショー である。一部妥当な点があるにせよ、多くは、外出不可の状況のマイナス面のみを強調して不安をまき散らしているのである。人は、安心よりも不安に引きつけられる。その心理につけ込んだものであろう。
しかし、「家に居ること」は、マイナスばかりであろうか。70歳まで働き、引退した身には、在宅という状態は、この上なくありがたい。以下の諸行為は、在宅だからこそできるのである。
大雨が降ろうが、吹雪になろうが早朝出勤や外出の必要がない。満員電車に乗る必要もない。翌日の早起きも必要ない。深夜でも読書ができる。時間のかかるパソコンの設定も自由にできる。時間も体力も精神力も消費する会議がない。出張もない。いやな奴との共同作業もない。考え事は、締め切りもなく、自由にできる。昼寝さえもできる。服装の配慮も必要ない。
近年は、ネットが進歩して、在宅での勤務や学習も可能になっているが、それでも、家に居る方が、勤務先や学校に居るよりは自由がきく。
その昔、「自分探しの旅」などというおかしな行動があって、少なからぬ人間が外出、遠出したものであるが、「自分というものは旅先になど存在しない。自分を探しているこの私はだれか。」などの気づきがあって、今時、実行する者は稀である。今日の状況に似た滑稽さはないか。
そもそも「家」とは「安心」の場なのである。また、そうでなくてはならない。「家」のない状態を想像してみよう。前記のマイナス面など、贅沢、わがままが原因である場合が多いことは一目瞭然であろう。
今は「家」の存在理由を再確認し、安心の場でないのなら、改善、再構築するチャンスである。軽薄、浅学のメディアに煽られて、右往左往しない見識を持とう。
と、きれい事をいいながら、昨日は、ホームセンターで高額のマスクを購入する家内の行動を黙認し、あまつさえ、資金援助までした自分の行動を不審に思っている。しかし、今日も追加購入に出かけた家内には同意できない。しかし、昨日は、「一家族様一個」という注意が、今日は、「一人一個」に変更になっていたそうな。思ったように売れなかったための修正だろう。世間の知恵も捨てたものではない。緊急事態に乗じて悪徳商法を展開している輩が、事態収拾後にどのような扱いを受けることになるか見守りたい。