それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

SNS炎上の一因

2020-05-20 22:24:23 | 教育

 (言語)表現には、自分自身に対して行うもの(自己内対話)と、他者に向けて行われる
対他コミュニケーションのためのものがある。

 前者に該当するのは、日記や私的随想(エッセイ)等であり、後者に含まれるものには、説明・解説や意見・主張、論説などがある。

 身構えて、慎重に行うのは、言うまでもなく後者である。それは表現の対象が他者だかだからであり、当然のことである。

 では、SNSにおける表現はどちらに属するものであろうか。SNSの最初のSは、socialであり、「社会」という他者との関係を組み込んだ言葉である。SNSで発信される情報は多様であり、確かに目配りの確かな、社会的に見ても客観的で説得力のあるものも存在するが、とても社会的とは言えない、つまりパーソナルな思いや感想を素朴に,時に不用意に発出してしまったものも多数存在する。そして炎上の憂き目にあうのは、このような個人的な感想や思いの場会が多い。他者意識の希薄な,不用意な表現になりがちだからである。

 個人的な日記に何を書こうと他人の知ったことではない。過激なことも、実行すれば犯罪になりそうなことも、自己の内部で行われ,完結するのなら問題はない。弱い存在の我々は、このような表現によってカタルシスを行い、辛うじて生きているという側面もある。

 しかし、不都合な,個人的な思いが,外部に向けて発信されることがある。それがSNSであることが多く,炎上につながるのである。コンピューターやスマートフォンを操作する際に,他者を意識することは少ない。意識する場合も、多くは気心の知れた仲間であることが多く,他者意識は希薄である。情報機器のむこうに、緊張して向かい合わなくてはならない情報の受け手がいるという厳しい関係があることは稀である。そこで、日記に書くような極めて個人的で偏った発言を、ついつい漏らしてしまうことになるのである。政治家が、後援会などで、つい気を許して,不都合な内面を吐露して問題になるのも,全く同じ構造である。「いいね」を押すのも、日記に記す感想ではなく、他者に見られている行為だと考えるべきである。

 SNSに書き込む情報は自己内対話的なものであっても、その機能はsocialであり、部屋の窓を開け放って、大声で,世間に向かって日記を読み上げているのと同じことなのである。時に,作家による日記の公開があるが、カーテン程度の緩衝装置はそなわっているから騙されてはいけない。