一つのことを表現するにも、いろいろな方法がある。そして、どの方法を選択するのかは、表現主体の特性、しばしば品格をもあらわすものなのである。
加計学園を巡る文書について、経済産業審議官が、「首相案件」であると発言したことが愛媛県の職員が作成した文書に書き込まれていることが問題になっており、その発言の有無について問題になっている。
この問題に関して、印象に残る表現が出現した。
「私の記憶の限りでは……」である。「ある」「ない」と断定すれば、事実に相違することが判明したときに窮地に立たされる。そこで知恵を絞った結果が、この表現である。事実認定の問題を、記憶の有無にすり替えるという巧妙かつ小賢しい方法である。この方法は、かつて、ロッキード事件の証人喚問の際に、「記憶にございません」を多用して、こんなに記憶力の乏しい人間がいるのかと世間を驚かせたものと同じである。
特に、官僚は、平均的な人間以上に記憶力を必要とする学力を有する人たちではなかろうか。(学力は、記憶力のみで形成されるものではないが、思考力、想像力、創造力の基礎を構成するもので、近年の知識・記憶重視の学力観の否定には同意できない。記憶によって蓄積された知識なしの創造活動などは低レベルの活動に終始することは分かりきっている。ただ、記憶の結果を「再生・再現」に終わらせる、クイズの解答に止まるような活動に用いられるような機能のさせ方に問題があるに過ぎない。)
加計学園や森友学園の諸問題もさることながら、わが国では、こんな記憶力の乏しい官僚が、国の重要な案件を担っていることこそが危険なのではなかろうか。そもそも人間の記憶には誤りも消失もあるから文書に残しているのではなかろうか。
いやはや言い逃れも、もう少し洗練されたレベルのものであって欲しい。
これらは表現(作文・話し方)教育の問題のようでありながら、実は人間教育、更に絞り込むなら、昨今話題の「道徳教育」の問題である。
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