わが家の裏庭には、「タラノキ」がある。あの木の芽の天ぷらの代表であるタラノキである。ただ、一昨年にホームセンターで購入したわが家の木には「棘」がない。転居前には、家の近くに野生の大きなタラノキがあって、芽を摘むのに、しばしば棘で指を傷つけたものであるが、そういうものだと思っていた。したがって、棘のない植木に出会って感動したのであるが、先日、芽を摘みながら、なにやらタラノキらしくないという違和感があった。勝手なものであるが、野生のやっかいな棘に慣れていれば、違和感があっても致し方ない。
わが家には、実のなる木が多く、リンゴの木もある。鉢植えのリンゴの木は、津軽という種類だということであったが、実は、新種の「トキ」であるらしく、アントシアニンによって赤くなるということがない。赤くなるリンゴは、太陽光がまんべんなく当たらないとリンゴ全体が赤くならない。そのためめにリンゴの実を回転させるという操作がひつようになり、リンゴ農家の人は苦労する。そこで、赤くならないリンゴとして新種・トキを創ったようなのである。
キュウリも、商品にするためには真っ直ぐな実になるように工夫するという。曲がったキュウリは、お客さんに敬遠されるのだそうだ。
ある時期、「自然」は、対決し、征服する対象であった。日本列島の改造などということが真剣かつ創造的な行為と考えられる時期があった。その結果、公害が発生し、自然災害が多発し、人間は手痛い仕返しをされることになっている。
人間も「自然」の一部であるからには、基本的には、対立・対決する存在ではなく、「寄り添う」「共生する」存在でありたい。
りんごの全体がまんべんなく赤くならなくても、タラノキに棘があっても、キュウリが曲がっていても、それが自然の姿であるのなら、また人間に有害でないのなら、ありのままを受け入れたい。人間の都合で、自分の方に引き寄せるのでなく、相手の方に歩み寄り、共生することも考えたい。
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