雲仙・普賢岳にある溶岩ドームは、国の天然記念物だそうであるが、その溶岩に落書きがあり、消すに消せない状態になっている.しかも、その数は十カ所を超えるという。こういう落書きには、内容の乏しいものが多い(立派なことを考えている人間は、落書きなんぞしないであろうから当然のことではある。愚かなことに、自分の名前や友達の名前恋人の名前などの個人情報の断片を書き留めて平然としている輩もいる。
かつて、ギリシャだかイタリアの古代遺跡に、日本人大学生が落書きをしたことが発覚し、大騒ぎになったことがある。しかし、週刊誌に掲載された写真を見ると、落書きは世界各地からやってきた観光客多数によるもので、その中に日本人のものもあったというのが事実のようであった。
ここで、私は、日本人の落書きの免責を主張しているわけではない。国や民族が異なっても、人間は、文字や記号によって何かを残しておきたい、記録しておきたいという欲求を持つものらしいということを言いたいだけである。
このところ国会では、加計学園の獣医学部新設にかかる問題で、もめにもめている.前文部科学次官が、存在しないはずの文書が存在することを明らかにし、官邸は弱っている。総理も官房長官も、与党議員の数を頼みに、あるものもないことにするという横柄な態度を通している。優秀な日本の官僚が、人類共通の欲求である「記録」を残していないはずはない。目の前に提示されても、「ない」というのは、もはや論理ではない。民主主の最も悪しき面が露出したのであろう。数に勝る政党は、下手をすると一党独裁の社会主義国と同じような状況を招く.私たちは、民主的な投票が可能な間に、自分の一票の意味を自覚しなくてはならない。民主党を政権与党に押し上げた苦い経験に学ばなくてはならない。
話が逸れた。
人間にとって、「記録」意思の「表明・表現」が本能とも言える行為であることを考えると、私たち言葉を教える者にとって、学習の意欲喚起は必要ないように思うが、教室における言葉の学習指導は、さほど楽な仕事ではない。本当に表現したいことにちがいがあるということになるのだろうか。落書きのように、意見をきちんと書くことはできないのであろうか。
表現は、人間の本能と言ったが、動物も意思表現はする。一番分かりやすいのは、犬のマーキングであろう。縄張りの主張の激しさは、一度でも散歩に付き合えば、いやになるほど印象深いものとなる。あちこちににおいを付けて、これは自分の領分であることを主張している。これも切実な記録と主張である。
こう考えて見ると、人間にとって記録と主張にはいろいろなレベルがあり、最底辺には動物のマーキングと同じレベルの行為もありうるということになるのであろうか.確かに
観光地での落書きは、マーキングに近い行為である。
観光地でのマナーについては、
「取っていいのは写真だけ、残していいのは足跡だけ」というしゃれた言葉がある。これが分かるのが人間、分からないのが動物ということになるのだろうか。
私たちが言葉を持っていることには大きな意味がある。上記のマナーに関する言葉の意味が分かり、行動を規制するのは言葉の力である。他者にも伝えることもできる。また、言葉は、私たちの思考・認識の内容と方法を対象化し、意味を考え、反省・批評することも可能にする。激しく、切実な記録・表現本能を、人間だけが持つ本質的な意味での言葉につなぎ、質の向上を図るというシステムを構築することができるなら、もう少しまともな言語行動の主体が生まれるのではなかろうか。
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