(近隣の梅林)
長い間新聞を購読している。購読者の減少が新聞社にとって深刻な問題になりつつあるようだが、わが家では、不満を感じつつ、単に習慣の一つとして購読を続けている。
言うまでもなく、新聞は情報源であり、購読者は、必要な情報を購入しているのである。毎日、必要な情報が届けられているか、つまり、新聞は、必要不可欠な情報を読者に届けているのかということを考えてみたい。
わが家では長年、M新聞を購読している。最近、目立った変化を見せているのは、企業広告の占める紙面の割合の増加である。印象として、ざっと半分は広告である。新聞社の経営は、購読料に依存するところは少ないといわれたことをどこかで目にした。収入源の多くは広告であり、広告掲載料は、新聞の発行部数の多寡で大いに変動する、そこで、部数を増やすために躍起になっているのだという。新聞関連の職場がブラック化していることはすでに書いたが、焦りに焦った結果、広告の氾濫になっている。読者にとっては、ほとんど意味がない。折り込みチラシ(これも新聞配達に携わる人間を苦しめる元になっているようだが)の方が、まだ役に立つというものである。その折り込みチラシさえも、新聞によらず、ネットで入手可能になっている。
今や、多種多様な情報が、テレビ、ネット、雑誌等で否応なく流れ込んでくる。無料のテレビの広告は、さして不愉快ではないが、購読料を支払う新聞には違和感がある。テレビでも、有料の場合には、時に入る広告放送に首を傾げることがあるのと同様である。必要かつ有益な広告に出会うことは、希有である。購読している総合雑誌の場合、広告はあるが、控えめで許容範囲内である。たぶん、週刊誌の方が広告は多く、派手なのではなかろうか、購入しないので分からない。
新聞の情報のうち、無用なものがまだある。それは、新聞社の自己宣伝である。新聞社主催、共催の行事については、広告だけでなく、記事でも執拗に取り上げ続ける。高校野球関連の記事のしつこさには辟易する。誰のための情報か。新聞社の名を冠した書道展などの情報についても同様である。文化教室の広報、宣伝にすぎないものに譲る紙面があるはずもない。
つい最近は、こともあろうに、重要なニュースの掲載されるべき第二面に、かなりの紙面を費やして自社の社内人事の記事があった。どれほどの読者がM新聞社の人事に関心があり、価値を認めていると思っているのだろうか。新聞は社内報になりさがったのか。県内面には、これまた、新しい支局長や記者の紹介がある。こんな手前味噌の情報の前に、チャンとした情報(記事)の提供をするべきであろう。以前から、県内面の貧弱さには目を覆いたくなる思いをしている。
ひところは、大学合格者の氏名が掲載されていたが、昨今は、それを目にしなくなってせいせいしている。本人、縁者以外のだれに必要な情報だったのか。一方、今でも教職員の異動情報は、別刷り、増し刷りまでして届けられる。だれにとって意味があるのか。県庁、警察等の人事情報も同様である。他に必要な情報はあるだろうに。
こんな体たらくで、NIE(教育に新聞を)という取り組みを進めていることに大いなる疑問を感じる。いかにも、新聞が情報の送り手として立派な役割を果たしていることが前提になっているような印象を受けるではないか。年度末に優秀実践校の表彰の情報を目にすると言葉を失う。
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