それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

論文の書き方に関する一問題:註(注)、引用文献、参考文献について

2019-11-07 00:13:37 | 教育

 論文作成に際して、他者の論文を引用したり、注を付けたりするのが普通である。

  時に、注も、引用・参考文献のないものもあるが、こういうものは厳密に言えば論文とは言えない。何かについて研究をするには、同じ対象や研究分野について、研究の歴史や現状に触れる必要があろう。自らの過去の研究と今書こうとしている論考との関係に触れる必要もあろう。これらは、参考文献、引用文献、註の形を取らざるを得ない。自分の思いだけを書き連ねているのでは随想にほかならず、専門的な論考とはほど遠いひとりごとである。こういうことは、論文作成の初心者に多いが、時に自意識過剰な研究者のこともある。

 他者の論文の引用については注意が必要で、引用さえすれば論文らしくなるというものではない。自分の考えを補強するために、過去の、多くは著名な先人の言説を引くのが好きな人がいる。自分の意見、判断、主張に重みを付けるという効果を狙ったものであろうが、同じ内容のものについて過去の大物の論文を引用する必要はない。先人が、過去に自分と同じことを言ってしまっているのなら、もう、事は済んでいるのである。未熟なものが、いまさら同じことを繰り返す必要はない。研究の進展も進歩もない。権威付けどころか自らの不見識、未熟をさらすだけである。先人の言説を引用するのは、それが言及し切れないものを補うとか、自説を真の意味で補強する場合などの外は、それに疑問があったり、不備があったり、異論があったりする場合に限るのがよいようだ。

 多すぎる注や引用、参考文献も煩わしい。誠実、謙虚な姿勢のようでもあり、勉強ぶりを見せつけているようでもある。自分の意見などは、厳密に言えば、数多の人々の研究や調査に支えられている。これは事実であるが、これを精密に記述しようとすれば、引用と注だらけになる。そういう研究分野も、そういうスタイルの研究者のいるが、一編の論文構成を考えると、研究の歴史と現状を詳細に記述し(記述であって論証ではない)自らの研究成果は、終末部分のごくわずかな分量にとどまることになる。誠実だが、非能率と言わざるを得ない。こういうスタイルの研究は、短い論文でなく、単行本の形で世に問うのがよい。

  研究分野や、同じ分野であっても学会によって、註(注)、引用、参考文系の形式が異なるのも面妖なことである。多くの分野の混在する研究紀要には、多種多様な形式が見られる。一見、自由でいいようにも思うが、気になる。


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