文科省は、教員の負担軽減のために、「部活動指導員」を配置することにして、現在、中学校では、全国で3万人近い指導者が活動しているという。
ある小学校で高齢の外部指導員が、児童に暴行を働いて問題になったとの報道があって、いろいろと考えさせられた。
そもそも、部活動とは何か。よく知られているのは高校野球であろう。国民が熱狂する甲子園野球は、学校教育の一部としてとらえるべき活動なのかどうか。昔、ある私立高校で非常勤講師をしたときに、高校野球の特殊性を痛感した。県外からの有能な生徒を含めて、野球部員だけで構成されるクラスが複数存在し、早朝から暗くなるまで、毎日練習がある。文武両道というけれども、文はとても、気の毒で期待できない。試合に負けると監督は長時間、校長から叱責を受けるというので、部員と監督の野球にかける思いは、プロ野球並みであり、学校教育の範疇を超えていた。
部活の成果は、学校の誇りともなるが、時に、学校教育の範疇を超えて、一人歩きしがちでもある。「教員の負担」軽減というけれども、その「負担」は、もともと教育活動として教員が負担すべきものであり、教員が負担することで効果が挙がるものだったのかどうか。体育系の部活では、学校の体育の授業の範囲でできないことは、学校が抱え込まずに社会体育として、本来、学校とは別の場所で(学校が体育館等を会場として貸し出すにしても)、学外の専門家を指導者として行うのが当然であろう。レベルの高い指導は、無理矢理に担当させられる素人監督、素人指導者の手に余ることは容易に想像できる。教員も生徒も迷惑である。これは、体育系のみならず、吹奏楽などの指導でも同じである。授業よりも部活が命という教員が居ても、それは例外的な存在であって、本来の姿ではない。 さらに問題とされるのは、学校で行われる部活は、恐らく教育活動と想定されているはずである。かつて、甲子園で、ミスをした生徒を監督が殴打する場面が放映され、問題になったことがある。当事者の監督は理解不能だったのではなかろうか。なぜなら、日頃の練習の場では、普通に行っていることだったからである。暴言を吐く、暴行を加えるということは、部活指導では珍しいことではない。時に傷を負わせ、鼓膜が破れ、ひどいときには死亡するなどの事故が発生して表面化するに過ぎない。「教育」という場では許されないことが横行する可能性があるのが、多くの部活である。外部指導者は、教育委員会や学校によって依頼、委託されるのなら、教育者としての意識・認識と専門性が求められる。技術優先、根性優先の指導は、学校とは無関係の場で、指導者、弟子、保護者の相互了解のもとで実施すべきであろう。大相撲でさえ、暴行は大事件になったのである。その直後に、プロ野球の星野監督が亡くなり、新聞は、同じ紙面で、今度は彼の常識を越える鉄拳制裁を美化するという矛盾した反応をしていたが、どうも、高校野球などは、星野野球に通じるところがあるように思う。繰り返し言うが、学校が主体で行う諸活動は、「教育」であるべきで、外部指導員であっても、「教育者」としての意識と技能が前提になるべきである。その資格認定と場合によっては講習は、どこで誰がするのであろうか。
ついでながら、最近、運転免許更新のために自動車学校に出かけ、数時間の講習を受けた。講習を担当する指導員は、講習をおもしろ、おかしくしようと奮闘していたが、そのお手本は、芸人のスキルであった。多くを望むべくもないが、「正確に分かりやすく」ということを心がけるのが、自動車「学校」という限りは、本来の責務なのにと、複雑な思いがした。(いや、自動車に関しては、学校ではなく、教習所だったか。)
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