仙台市は東北地方では抜きん出た大都市だ。駅前のビジネスホテルに宿をとり、
早目のチェックインだったので、駅ビル近辺を散策してみた。人口は100万を越
す大きな街で近代的なビルも沢山あり、その合間にケヤキが街並を緑色に染め
る杜の都は近代的であり青葉城下、古の姿を持つ。
これまで地方の中核都市ばかりに泊まってきたが、朝のラッシュにしても余り苦労
なく幹線から自動車道に抜けられた。しかし、仙台駅前の朝は車で溢れているし、
ホテル前は一方通行でそれに沿って走るしかない状況だ。
目覚めのいい朝を迎え、車に乗り込みナビをセットしたが何故かGPSは未だ位置
確認の緑色表示になっていなかった。取り敢えず一方通行の道に出て、道なりに
走る。ところがナビは一向に緑色にならず案内をしてくれない。
やっと色が変わった頃になると今度は反対方向に案内を始めた。位置関係は全く
分からない、通行規制の多い都会の中、渋滞に揉まれていると雨まで降りだし自
動車道にたどり着くのに1時間もかかった。幸い、この日は時間的な余裕がたっぷ
りとあるから慌てる必要はないからと言い聞かせながらの脱出劇だった。東北自動
車道からローカル自動車道に乗り継ぎ石巻河南までは渋滞もなく、思ったよりも早
く着いた。相馬市と同様、港近くになっても目立った地震や津波の痕跡は見られ
なかった。
それは私たちが頭の中で描いていた如何にも、震災跡の風景は既になく、一応に
整理されているからだ。津波被害に遭った当初は建屋の残骸やガレキなどが山積
みにされていた風景をTVや新聞などで見ていた残像と現実の対比により『痕跡は
ない』と思わせているのだ。
最初、私たちがカーナビにセットしたのは簡易郵便局だった。住宅地だったような所
を走って行くと『目的地付近に到着しました』とナビが連れて来てくれた場所は、遠
くまで見える広い場所だが、建屋はなく幾つもの基礎と鉄筋の一部が残され、その
周囲に建築用の砂利が敷き詰められて一応に平坦だから、整地された場所のよう
に見える。かつては家並みが続いていたと思わせるのは、電柱と電線は修理された
のだろう、家のない遠くまでも張り巡らされていた。
先の少し高い場所には、運よく流されなかった家が残り、人々の生活の臭いがし
ている。明らかに建て直したと思われる新築の家有り、そのままの所ありとマダラ
模様だ。こうした状況は建屋の位置がほんの一寸低い、高いで明暗が分かれて
いる。
人が見ている、いないに拘わらず災害現場で人の不幸を写真に残すのは、とて
も気が引けるものだ。私も人にこの惨劇を伝えるのに『百聞は一見に如かず』を気
取って、カメラを向けてみたが直ぐ様にシャッターを切りカメラを収めた。特に、こ
の後に訪れた双葉町手前の除染と言いただ汚染土を袋に詰め置いただけのもの
の写真ですら、車から降りてシャッターを切る勇気はなかった。ジャーナリストやプ
ロの写真家は劇的なシーンや災害の象徴のような風景を求め歩くが、私たちは供
養の旅に来て、昨日、今日と被害現場の今を見た。
多くの写真や、酷い現場の思い出を作りに来たのではないから、津波による別の
被害現場に行こうと言う気は起きなかった。仙台には20代の頃からお世話になっ
てきた先輩がおられ、昨晩30数年ぶりの再会を果たした。積もる話は別として『石
巻港に行くと、昔あった店屋や建屋など皆無くなっているし、行方不明の知人もい
るから行くのが辛い』と言っておられた。私たちは災害以前の姿を知らないから、そ
うした思いとは別の感情を持つが、こんなことを聞くと改めて震災被害のむごさを思
い知らされる。津波は沢山の被害を作った。沢山の人の生命も奪った。人の死はど
のような形であれ受け入れざるを得ない、悲しみを、苦しみを乗り越えるしかないが、
人は助け合う心があり、時にはそうしたものを分かち合いながら少しずつ癒していく。
そうした被害に遭った人たちは、長い時をかけて痛みを癒し続けるだろう。だから、
何の被害もなかった我々は、そうして闘っている人たちのことを忘れてはいけないの
だ。災害も然り。そして場所々により教訓として残すべきものを伝承することも生かさ
れた者の使命ではなかろうか。