ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

神話探偵団130-2 8つの出雲王朝仮説2016

2020-03-22 17:49:49 | スサノオ・大国主建国論

 古いレジュメで恐縮ですが、2016年11月に「梁山泊」の仲間9人(うち地元勢4人)と出雲の旅に行くにあたってまとめたレジュメをもとに、その後に誤りが明白となった点や解明した重要な点などを加筆・訂正し、金屋子神の移動図を加えたものです。
 基礎知識を持っているメンバーに口頭で説明した箇条書きのメモであり、分かりにくいことをご了承ください。
私は「スサノオ・大国主建国論」を追い続け、『スサノオ・大国主の日国―霊(ひ)の国の古代史』(日向勤ペンネーム:梓書院)を出版しました。
 「弥生人征服はあったか?」「この国の建国者はスサノオ・大国主か、神武天皇か?」「邪馬壹國(邪馬壱国、邪馬台国)はどこにあるか?」の古代史3大ミステリー、「古代製鉄はいつ、どこで始まったか?」「スサノオ・大国主の墓はどこか?」「卑弥呼の墓はどこか?」の考古学3大ミステリー、「出雲大社正面に祀られた『別天(ことあまつ)神五柱」はどこの神か?』「『神世7代』の7代目のイヤナギ・イヤナミの国生みの地はどこか?」「スサノオ・アマテラスはどこで生まれたか?」「大国主はスサノオの御子か、6代目か?」「天つ神、国つ神の国はどこか?」「天皇家はなぜアマテラスの『玉』から生まれた神話としたのか?」「なぜ天皇家は宮中でイヤナギ・アマテラス・スサノオを祀らず、明治まで伊勢神宮に参拝しなかったのか?」の神話7大ミステリー(いづれも私の独断による選択です)について、統一的・合理的な仮説・検証作業を続けてきましたが、2年ぶり、4度目の出雲調査でした。
 この旅で、私は「スサノオ・大国主建国王の墓はどこか?」「古代製鉄の拠点はどこか?」を考え続けていましたが、「大国主の墓」については4か所の仮説地から1か所の仮説地にほぼ絞り込むことができ、スサノオの墓と古代製鉄拠点については少し前進、というところです。
 来年には「スサノオ・大国主探偵団」としてまとめたいと思っております。雛元昌弘

1 出雲大社正面に祀られた「別天(ことあまつ)神五柱」は壱岐・対馬の「天(海人)族」
① 始祖5神の天之御中主(あめのみなかぬし)神、高御産巣日(たかみむすび)神(書紀:高皇産霊尊)、神御産巣日(かみむすび)神(同:神皇産霊尊)、宇摩志阿斬訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)神、天之常立神のうちの天之御中主は、その名前からみて壱岐市芦辺町中野郷(那珂)の王である。
② 古事記序文で太安万侶は「「乾坤(けんこん)初めて別れて、参神造化の首となり、陰陽ここに開けて、二霊(ひ)群品の祖となりき」と書き、本文でみると参神(3神)は「天御中主・タカミムスヒ・カミムスヒ」となり、人(群品)を産む「二霊(ひ)」はタカミムスヒ・カミムスヒの夫婦神となり、スサノオ・大国主一族はこれら始祖神の直系の子孫になります。
③ 「壱岐国」は「伊伎島」「天比登都柱(天一柱)」(古)、「一大国」(魏)とも書かれており、「壱=一=伊」の「岐=支=城(き)」であり、「一国(いのくに)」を指している。
④ 「委奴国王」の「委(禾+女)」、「倭国」の「倭(人+委)」は元々は「い」である。「禾(ワ)」は「稲」を指し、「女性が稲を捧げる(祖先霊に対し)」という「いなの国」に合わせた漢字であり、「倭」を「矮(わい)」=チビにあてた「卑字」ではない。
⑤ 芦辺町中野郷は良港の芦辺港に接し、「一支国」王都に比定されている原の辻遺跡(環濠集落)の北約4kmにあり、このあたりに古くは「一大国(いのおおくに)」の王都があった可能性が高い。4番目の始祖神の「阿斬訶備比古」の「アシカビ」は葦の芽で、「芦辺」地名のこの地の王の可能性が高い。
⑥ 天(海人=海神)族は、元々は玄界灘の壱岐(天比登都柱)を中心に、津馬(天狭手依比売)、知訶島(天之忍男:志賀島)、兩兒島(天兩屋:通説は五島列島、古田武彦説は沖ノ島説、筆者説は下関市豊北町双子島)、女島(天一根:通説は大分県姫島、筆者説は北九州市沖の女島か山口県豊浦町沖の女島)、隠岐島(天之忍許呂別)、大倭豊秋津島(天御虚空豊秋津根別:通説は日本全体、古田説は大分県国東市安岐町説、筆者説は安芸の厳島かしまなみ海道の生口島説)にかけて活躍した海洋交易部族である。
⑥ 嵯峨天皇より「日本総社」の称号を贈られた津島神社(愛知県:古くは津島牛頭天王社)はスサノオの「和御魂(にぎみたま)」を対馬から移したとされており、新羅に渡ったスサノオは壱岐・対馬の海人族がルーツと考えられる。

2 伊耶那伎(イヤナギ)が出雲・揖屋の王女・伊耶那美(イヤナミ)に妻問
① 記紀は「神世7代」最後のイヤナギ・イヤナミが夫婦で天下ったとしているが、海人族の妻問婚から考えて、対馬暖流を海(天)下ったのはイヤナギで、揖屋の王女イヤナミに妻問したとみるべきである。
② イヤナミが葬られた黄泉の国への入口で、イヤナミを祀る揖屋神社がある場所からみて、意宇川流域の沖積地(オノコロ島:自ずから凝る島)にイヤナギは拠点を築いたと考えられる。
③ イヤナミが亡くなりイヤナギが筑紫に去ったのち、イヤナミの一族は、意宇川流域(出雲国庁跡―神魂神社―八重垣神社―熊野大社)に支配を広げた。いずれも「い=壱=伊=揖=委=倭」ゆかりの人名・地名である。

3 「委奴国王」は「壱那(稲)国王・スサノオ」である
① 尾張の津島神社に対し、桓武天皇第2皇子の第一流の文人の52代嵯峨天皇は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈っており、天皇家はスサノオを「皇国の本主」「天王」として認めている。
② スサノオはイヤナギから「海を支配せよ」と命じられ、五十猛(イタケル=射楯=伊武:倭武の名前のルーツ:壱岐の御子)と新羅を訪問したと日本書紀に書かれ、対馬北端の島大國魂(しまおおくにたま)神社にはスサノオの新羅訪問の伝承が残されている。さらに『三国史記』新羅本紀には、新羅国の4代目の王・脱解(たれ)は「倭国の東北一千里のところにある多婆那国」から櫃に入れて流されてたどり着いた「倭種」で、紀元59年5月には「倭国と国交」を結んだとしている。57年に後漢に使いを送った「漢委奴国王」と同時期であり、記紀記述からみて、この委奴国王はスサノオ以外にはありえない。
③ 安本美典氏の即位年の統計的推計をスサノオ・大国主時代に伸ばすと、スサノオの即位年は紀元60年頃となり、後漢・辰韓(後の新羅)と国交を結んだ委奴国王がスサノオであることを裏付けている。。

31~50代天皇の即位年からの最小二乗法によるスサノオ・大国主一族の即位年の推計

 



④ 委奴国は「いなの国=いねの国」を「禾+女+女+又」であらわしたものであり、倭国は「イ+委」字からみて「人に禾(稲)を女が奉げる」国であったことを示している。ちなみに「魏」は「禾+女+鬼(祖先霊)」であり、「鬼」を「人」に変えたのが「倭国(いの国)」である。
⑤ 「倭国」は当初は「倭国=国(いのくに)」と呼んでいた、壱岐(天一柱、一大国)を中心とした海人族の国であった。なお「一・壱・壹」は呉音では「イチ」、漢音では「イツ」、現在は「イ」で、わが国では、「ひ」「ひと」「ひとつ」「いち」と数えることからみて、「一・壱・壹」は「い」「ひ(ふぃ)」の両方の読みがあり、国生み神話で「筑紫国=白日別、豊国=豊日別、肥国=建日向日豊久士比泥(くじひね)別、熊曾国=建日別」としていることをみると、九州全体は「日=霊(ひ)=委の国(那)」であったことを示している。なお、戦前の教科書では「赤い、赤い、朝日は赤い」を「あかひ、あかひ、あさひはあかひ」と「い」を「ひ」と表記していた。
⑥ 倭国大乱の頃、漢霊帝の中常侍(皇帝の身近に仕える権力者)の李巡は、孔子の『爾雅(じが)』(類語・語釈辞典)の注釈において、「夷に九つの種がある。・・・八に倭人、九に天鄙」と記していることからみて、わが国は「百余国」の倭国(いの国=ひの国:大国主・大物主連合)は、筑紫30国(後に卑弥呼のもとで連合)の「倭人」と70余国の「天鄙(あまのひな)」(出雲・美和)に分裂していた。
⑦ 「委奴国」を漢字1字国名に変えたのはスサノオの次に魏に使いを出したスサノオ5代目の淤美豆奴(おみずぬ)、倭王・帥升と考えられる。「倭国」を「いの国」から「わの国」と呼ぶようになったのは、さらに「禾(稲)」を「わ」と呼ぶ呉音によったと考えられる。その時期は不明であるが、大国主と美和の大物主連合ができた時には、「美倭=美和=三輪(みわ)」「大倭=大和(おおわ)」と呼んでいたと思われる。
⑧ いずれにしても、後漢・魏と国交を結ぶ(冊封体制に入る)にあたって、スサノオ・大国主一族が外交文書を持たずに行くことなどありえず、「委奴国」「倭国」とも上表文に書いた国名である。

4 ヤマタノオロチは出雲を支配していた吉備の製鉄王
① オロチの大刀・天叢雲剣=蛇の麁正(おろちのあらまさ)によりスサノオの十拳剣(とつかつるぎ)」・韓鋤剣(からすきのつるぎ:辰韓の鋤の鉄先を鍛えなおした剣)」が欠けたとされていることからみて、辰韓(後の新羅)の農機具用の鉄よりも、オロチはより高度な製鉄技術を持っていた王であった可能性がある。
② オロチの大刀が天皇家の皇位継承の「三種の神器」の1つとされていることからみて、オロチは出雲の外からやってきて出雲を支配していた王であった可能性が高い。
③ 「古志の山俣大蛇」(古)からみて、オロチは「越」の王と考えられてきたが、素盞嗚尊がオロチを斬った十握剣(布都御魂)が岡山県赤磐市赤坂の備前国一宮の石上布都魂神社(後に大和国の石上神宮にうつされる)に祀られていたことからみて、オロチは吉備の王で中国山地を越えて出雲に支配を広げ、毎年、支配地を巡幸していた可能性が高い。
④ たたら集団が祀る全国1200社の金屋子神社の総本山である安来市の金屋子(かなやご)神社は、播磨の宍粟市からきて製鉄技術を教えた金屋子神を祀っており、途中、吉備中山(吉備津神社のある中山)や鳥取県日野町印賀に立ち寄ったという伝承もあることからみて、製鉄は播磨・吉備で始まった可能性が高い。―詳しくは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

金屋子神の播磨→吉備→伯耆→出雲への移動



⑤ 「蛇の麁正(おろちのあらまさ)」名は、オロチ王の大刀が「荒真砂」製鉄で作られたことを示しており、吉備の赤坂(現赤磐市)を拠点としていたことを考えると、オロチ王は赤鉄鉱の「赤目(あこめ)砂鉄」で鉄生産を開始した王の可能性が高い。その技術を継承した「スサノオ」は、「朱砂王(すさのおう)」であった可能性が高い。さらい、大国主の別名の「大穴牟遅(おおなむぢ)」「大穴持(おおあなもち)」の「穴」は、赤目(あこめ)砂鉄や鉄鉱石などを掘削する穴からきている名称と考えられる。
⑥ スサノオはオロチ王を切った剣は赤坂の石上布都魂神社に残し、オロチの大刀は美和(三輪)の大年(大物主)に与えたと考えられる。少彦名の死後、大国主・大物主連合ができた時、大国主は出雲の「玉(勾玉)」を大物主に奉げ、九州の女王国の「鏡」はスサノオの子の宗像3女神から大物主に奉げられ、美和王朝の「三種の神器」であったが、10代崇神天皇が奪い天皇家の皇位継承のシンボルにしたと考える。

5 大国主一族が鉄先鋤で広めた水利水田稲作
① 古事記は、大国主は少彦名と「国を作り堅め」、少彦名の死後には大和の大物主と「共に相作り」と書き、その国の名前を「豊葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)長五百秋(ながいほあき)の水穂国」「葦原中国(あしはらのなかつくに)」とし、日本書紀も大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」とし、出雲国風土記は「造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」と書いている。
播磨国風土記の稲作指導や水路開削の記述をみても、大国主一族こそが水利水田稲作を百余国に広めた王朝であることが明らかである。
② 「五百つ鉏々猶所取り取らして天の下所造らしし大穴持命」(出雲国風土記)という大国主の尊称とその子の阿遅鉏高日子根(あぢすきたかひこね)の名前、播磨国風土記の記述からみて、大国主が「鋤(鉏)」による水田・水利開発を全国に広めた王であることを示している。

木鋤(こすき)の先に鉄先鋤



③ 大国主の妻の宗像3女神の奥津島比売(襲名)は播磨で「阿遅鉏高日子根神(阿遅鋤高日子根神)」を産んでおり、その名前の由来は鉄先鋤の生産・流通に由来していた可能性が高い。
④ 万葉集で「真金(まがね)吹く 丹生(にう)の真朱(まそほ)の 色に出て 言わなくのみぞ 我が恋ふらくは」と歌われ「真金吹く」が丹生や吉備にかかる枕詞であることからみて、赤鉄鉱(Fe2O3)の赤目砂鉄を原料として鉄とともに鉄朱(ベンガラ)が作られていたことを示している。大国主の播磨の御子の丹津日子神・丹生都比売はその名前からみて朱生産に関わっており、大国主が播磨で鉄生産を行っていたことを示している。神戸市北区の丹生山には丹生(にぶ)神社があり、この地は古くは明石郡に含まれ、「明石」は「赤石」であったとされていることからみても、大国主の建国が鉄生産によることを示している。
⑤ 赤目砂鉄製鉄について考古学的な裏付けはまだないが、「文献分析に基づく考古学」が望まれる。

6 大国主・大物主連合による大倭(おおわ)国の建国
① 古事記によれば、少彦名命の死後、大国主のもとに「海を光らして依り来る神」があり、御諸山(美和山)の上に自分を祀ることを条件に国づくりに協力を申し入れたとされる。それは日本海側や太平洋岸、瀬戸内海南岸ではなく、波の穏やかな瀬戸内海北岸にいた大国主のもとに淡路方面から逆光がキラキラ光る中を大物主が船でやってきた光景である。

「海を光らして依り来る神」の船がやってきた瀬戸内海のさざ波の逆光風景



② 高砂市の「石の宝殿」のある伊保山の背後の「高御位山」には、「もしも山頂の下の鯛砂利(岩)が上を向いていれば、ここが日本の中心になった」という伝承が残されている。天皇家の即位儀式の「天津日嗣(ひつぎ)高御座(たかみくら)之業」は、「高御位山」で大国主・大物主連合が成立し、スサノオ・大国主一族の先祖の霊(ひ)を受け継ぐ「霊(ひ)継ぎ」儀式を行った歴史を継承したものであり、「高御位山」の麓にある「石の宝殿」は四方を支配する大国主と大物主の「方殿」の玉座であった。

「石の宝殿」のある伊保山から北に見た「高御位山」(大国主・大物主連合成立の神那霊山)



③ この大国主・大物主連合は、大物主の銅鐸圏と大国主の銅矛圏(銅剣ではない)の統一をもたらし、縄文時代の黄泉がえりの「地母神信仰」から、死者の霊が天に昇り、降りてくるという「昇天降地信仰」に変え、山上に方墳や前方後円墳を設けるようになった。

7 「国譲り神話」は大国主の御子たちの後継者争い(筑紫対出雲・越)
① 「天穂日命」とその子の「天日名鳥命(武日照命)」親子の子孫が大国主らの祖先霊の祀りを行い、霊(ひ)継神事を行ってきていることからみて、ホヒ・ヒナトリは大国主が「山一国(邪馬壹国:やまのいの国)=高天原」で鳥耳との間でもうけた御子である。
② ホヒ・ヒナトリ親子や天若日子と事代主や越の建御名方との後継者争いでが大国主の「国譲り」の真実の歴史である。その歴史を、大和朝廷はアマテル一族を天つ神、大国主一族を国つ神とする征服神話に変え、真実の歴史を隠蔽した。
③ 7~80年続いたスサノオ・大国主7代の「百余国」は大国主の国譲り後に九州への支配力が弱まり、米鉄交易を支配を巡って筑紫の30国が分離・独立したのが「倭国の大乱」である。その後、30国は交易権を巡って「相攻伐」した後、卑弥呼のスサノオ・大国主の霊(ひ=鬼)を祀る共通の祖先霊信仰(鬼道)のもとに邪馬壹国連合を形成し、新羅―対馬―壱岐―筑紫の鉄米交易ルートの確保を図った。
④ この女王国(筑紫大国主・鳥耳王朝)の卑弥呼(霊御子、霊巫女)は11代目の筑紫王朝の女王であり、彼女の弟王との後継車争いをモデルにして、弟王をスサノオに置き換え、アマテラス神話が作成された。

8 「山・鉾・屋台神事」のルーツは出雲の「青葉山」と播磨国総社の「1ツ山・3ツ山」神事
① 縄文時代の地神(地母神)信仰と海神信仰を、大国主は死者の霊(ひ)は死体から離れて天に昇り、降りてくるという、八百万神の天神信仰に変えた宗教改革者でもあった。
② 祖先霊を天から神奈備山(雛元説=神那霊山)や高木に迎え、さらに天に送り返すという行事を、出雲大社に人工の「青葉山」(古事記)を設けて行うという神事は、「1ツ山・3ツ山祭」「山あげ祭」「大置山」「築山」「お山行事」「風流物」や「山車、曳山」「山鉾」、担ぎ山(御輿、山笠、屋台)として全国に広がった。
③ ユネスコの補助機関は「山・鉾・屋台行事」(18県33件)の祭を世界無形文化遺産として登録するよう勧告(現在は承認済み)することを決めたが、この機会に、死ねば誰もが神になり、この世とあの世を行き来するという「八百万神」の宗教思想を、一神教の行き詰まりを解決する「共通価値観」として提案したい。また、和食の世界遺産登録に合わせて、土器(縄文)文化全体についても同じ方法での登録を目指したい。



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