2009年3月の日向勤(ひなつとむ)ペンネームの『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに) ―霊(ひ)の国の古代史―』の出版後、私は邪馬台国論、縄文社会論とともに、スサノオ・大国主建国論についてブログなどで書き続けてきました。
・YAHOOブログ(廃止)「霊の国:スサノオ・大国主命の研究」
・Gooブログ 「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート(神話探偵団から名称変更)」
・ライブドアブログ 「帆人の古代史メモ」(アドレス変更により5月8日から更新できなくなっています)
・FC2ブログ 「霊(ひ)の国の古事記論」
・『季刊日本主義』(廃刊)
「『古事記』が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(18号2012夏)
「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(26号2014夏)
「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(40号2017冬)
「言語構造から見た日本民族の起源」(42号2018夏)
「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(43号2018秋)
「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(44号 2018冬)
・『季刊山陰』(休刊)
「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(2017冬38号)
「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(39号2018夏)
「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(40号2018夏)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
その結果、『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)』には誤りと不十分な点がでてきましたが、ここに誤りについてのみ修正し、読者のみなさまに報告いたします。
主な修正点は「邪馬臺国(邪馬台国)から邪馬壹国へ」「ヤマタノオロチの草薙大刀」「大物主大神=スサノオ」「4人の襲名アマテルを合体した記紀の天照大御神」」「卑弥呼の王都・高天原の範囲」「邇岐志国生まれのニニギ」「箸墓=大物主・モモソヒメ夫婦墓」「大国主一族の祭祀拠点・纏向」です。
1.全体 「邪馬臺国」(やまだい国、やまだ国)
→『邪馬臺国』(やまだい、やまだ)ではなく、海(あま:あめ)の「一大国(いのおおくに):天比登都柱(あめのひとはしら:天一柱)=壱岐)」に対し、山の「邪馬壹国(やまのいのくに)」説に変わりました。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照
2.59頁 「『倭』を『わ』と読むようになったのは、わが国が唐と戦争を行った中大兄皇子の時代以降の事と考えられる」
→紀元前後の硯石が筑紫・出雲で発掘されており、後漢に使者を送った「委奴(ふぃな)国王」は通訳を付けて国書を持参したからこそ破格の金印を与えれたのであり、「委奴国(ふぃなのくに)」「倭国(ふぃのくに)」は自称と考えます。
そして「委=禾/女」「倭=人+禾/女」であり、霊(ひ:祖先霊)・人に「稲を捧げる女」を表しており、貴字とみるべきです。また「奴=女+又」は中国が春秋戦国時代をへて、母系制社会から男系社会に変わった時に「女奴隷」を表すようになったのであり、元々は卑字ではないと考えます。
姓(女+生)、始(女+台)、嫁(女+家)、婿(女+疋(足)/月)、娠(女+辰(龍))などの女偏の文字を見ても漢字は母系制社会で生れた字であり、「委」「倭」「奴」は自称であり、漢・魏が付けた卑字ではないと考えます。
3.62頁 「鉄剣製造の見本として韓から伝わった十握剣(一書では韓鋤剣)」
→「南北市糴(してき:糴=入+米+羽+隹))」の米鉄交易によりスサノオは韓(新羅)から木鍬の鉄先を輸入しており、その鉄を鍛えなおした鉄剣です。―Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート151 鉄刀・鉄剣からみた建国史―アフリカ・インド鉄と新羅鉄・阿曽鉄、草薙大刀・草薙剣・蛇行剣」参照
4.63頁 「草薙剣(銅剣)」
→スサノオの鉄剣がヤマタノオロチの「大刀」に当たって欠けたとされることからみて、熱田神宮に伝わる「銅剣」の草薙剣はヤマタノオロチ王の都牟刈大刀(つむがりのおおたち:草薙大刀)ではありえません。オロチ王の大刀は吉備の石上布都魂神社から熱田神宮の禁足地に埋められ、発見された大刀と考えます。
5.68頁 「大物主大神は・・・大歳神の別名である」
→古事記にはスサノオを出雲のイヤナミから生まれた大兄(長兄)とする記述がある一方、筑紫日向(ちくしのひな)生まれの異母妹アマテルの弟にするなど、スサノオ隠しを系統的に行い、大物主大神=大国主などが見られますが、大神神社の神名火山(神那霊山)の三輪山祭祀からみて、大物主大神=スサノオ、大物主(代々襲名)=大歳(大年)です。
6.73頁 「後漢との交易・外交に便利な交易・外交拠点の後継王に金印を託して置く、これが妥当な行動であったと考えられる」
→古事記によればスサノオは「汝命は、海原を知らせ」とイヤナギから命じられ、イヤナギが筑紫で妻問いしてもうけた筒之男(つつのお)3兄弟(住吉族)や綿津見(わたつみ)3兄弟(金印が発見された志賀島を拠点とする安曇族)、宗像族(多紀理毘売(たきりびめ)、市寸島比売(いちきしまひめ)、多岐都比売(たきつひめ)をもうける)を統率し、新羅~対馬~壱岐~博多、新羅~対馬~沖ノ島~宗像・長門~出雲の海上ルートで米鉄交易を行っており、志賀島を拠点とする異母弟の綿津見3兄弟に金印を預けたと考えます。
7.116頁 「八百八十の神々が航海してきた時の目印とするため」
→三方を山に囲まれた奥まった現在の出雲大社本殿は西の海からは見えません、元の本殿の位置は、現在地より南東の八雲山と琴引山を結ぶ線上にあり、海から見えたと考えます。―スサノオ・大国主ノート「145 岡野眞氏論文と『引橋長一町』『出雲大社故地』(230110)」「149 NHK『出雲大社 八雲たつ神々の里』から古出雲大社復元と世界遺産登録を考える(231216)」参照
8.139・140頁 「卑弥呼=天照大御神説は成立しない」「卑弥呼=天照大御神説が成立しないばかりか、記紀は天照大御神が天皇家の祖先ではなく、創作された神であることを示している」
→スサノオの異母妹の天照大御神(アマテル1)と、スサノオ7代目の大国主に国譲りさせた筑紫妻の鳥耳(アマテル2)、筑紫鳥耳・大国主王朝11代目の卑弥呼(霊御子=大霊留女=アマテル3)、卑弥呼死後に霊継(ひつぎ)儀式により後継女王となった壹与(アマテル4)は、筑紫日向(ちくしのひな)に実在し、尊称を襲名した4人のアマテルを記紀は「スサノオの姉・アマテル」として合体して天皇家の始祖神としています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照
9. 143頁 「『高天原』は荷原(いないばる)・美奈宜神社の背後の喰那尾(くいなお)山(栗尾山)一帯の高台であると確信した。・・・現在の地名は『矢野竹(やんたけ)』『美奈宜の杜』といい・・・この地こそが『天城』や『日向城(ひなぎ)』を一望する『高天原』の地名に相応しい場所であり、霊巫女(ひみこ)=卑弥呼の宮殿が置かれ、霊巫女(ひみこ)が鬼道(大国主神の霊を祀る宗教)を行った地であり」
→アマテル(大霊留女=霊御子=卑弥呼)の死後に神集(かみつどい)が行われ、壹与への霊継(ひつぎ)儀式(アマテルの復活とされた)が行われたのが「天安之河原(あまのやすのかわら)」とされていることからみて、古くは安川と呼ばれた山見川のほとりの現在の安川地区、羽白熊鷲王が殺された荷持田村(日本書紀は「のとり」としているが「仁鳥(にとり)村」であろう)にアマテル(卑弥呼)の墓「天岩屋」はあった可能性が高いと考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照
卑弥呼の王都(宮室)と墓所は甘木高台の「矢野竹(やんたけ)」からさらに奥に進んだ「安川地区」にかけてであったと考えます。―Seesaaブログ「邪馬台国ノート49 『卑弥呼王都=高天原』は甘木(天城)高台―地名・人名分析からの邪馬台国論」参照
10. 148~150頁 「この前半部分(注:クジフル岳までの天下り)は筑紫でのニニギ命の天降りを伝え、後半の薩摩半島での出来事は、別の人物(仮に、ニニギ命2とする)の伝承を伝えていると考えている」
→日本書紀の「膂宍之空國」の「宍之」を「膂:そ、蘇、襲、曽」の「宍野」と解釈しましたが、通説の「背中の骨のまわりの肉のない国」と解釈し、国のない九州山地を「頓丘(毗陀烏:ひたを)」=「日田丘」から薩摩半島の阿多の笠沙に同一人物のニニギが敗走したと解釈を変更します。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照
11. 148~150頁 「笠沙三代の天皇家の祖先の物語は、素朴な漁村の一族の物語である。邪馬臺国の王族の歴史とは繋がらない」
→古事記によれば、ニニギ(邇邇芸命)はアマテルの子のオシホミミ(天忍穂耳尊)の御子で、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命とされており、その名前からみると「天邇岐志国邇岐志」の生まれの「天津日高日子番」(海人族の津(港)の日高霊子婆)の子の「邇邇芸命」と考えられ、高天原の生まれとは考えられません。
「邇岐志」=「にきし:瓊岸」であり、この「瓊」は三種の神器の「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」にも登場する赤メノウであり、安曇族の拠点である宗像市の南の福津市の津屋崎海岸で採れ、天邇岐志国邇岐志はこの地を指しています。ニニギは壹与と王位を争って敗北した男王派の宗像族の若者の可能性が高いと考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照
前述のように、スサノオの異母妹アマテル1、大国主の筑紫妻・鳥耳(アマテル2)、筑紫大国主・鳥耳王朝11代目・卑弥呼(大霊留女:アマテル3)、12代目壹与(アマテル4)を記紀は合体していますが、鳥耳(アマテル2)と大国主の御子のオシホミミ・ホヒ(菩卑:穂日)兄弟のうち、ホヒが大国主に国譲りさせて後継者となるのに対し、兄のオシホミミの子を薩摩半島南西端の阿多に天降りさせるなどありえません。
また古事記は天火明命をニニギの兄としていますが、播磨国風土記は大国主の御子とし、その一族は尾張氏・津守氏・海部氏・丹波氏などの始祖神とされており、ニニギはその名前や阿多を拠点とした境遇、時代からみて鳥耳・大国主一族のオシホミミの子ではないことが明らかです。
13. 181~184頁 「箸墓の被葬者は倭(やまと)迹迹日(ととひ)百襲(ももそ)姫か」
→本著の一番大きな誤りであり、箸墓はスサノオ(大物主大神)・大歳(大物主)の後継者である「太田田根子(意富多多泥古:大物主を襲名)と百襲姫(7代孝霊天皇の娘)の夫婦墓」と訂正します。―gooブログ「スサノオ・大国主ノート143 纏向遺跡は大国主一族の祭祀拠点(221116)」参照
その第1の理由は、全長278mの箸墓に対し、9代開化天皇陵(春日率川宮陵に比定)は約100m、10代崇神天皇陵(行燈山古墳)は242m、11代垂仁天皇陵(宝来山古墳に比定)は227m、12代景行天皇陵は300mであり、箸墓に葬られた人物はこれらの大王墓よりも上位であり、民の半数以上が死に絶えた疫病を退散させたとされる大田田根子(大物主)と妻のモモソヒメの夫婦墓と考えます。同時代の崇神・垂仁天皇よりも上位の人物であり、モモソヒメではありえず、それは記紀に書かれた太田田根子しか考えられません。
第2の理由は、箸墓と同時代の崇神天皇陵(アマテルとスサノオの祭祀権を御間城姫の一族から奪い、2神の神霊を宮中に移したため疫病蔓延を招いた祟られた天皇)、纏向(間城向)の大型建物が、穴師山を向いていることです。穴師山には穴師坐兵主神社があり、兵主神(大国主)を祭神としており、大国主一族の大和(おおわ)の神名火山(神那霊山)なのです。
なお、モモソヒメの母は「意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)」であり、大和神社(おおやまとじんじゃ)の祭神が日本大国魂大神(通説は大国主、筆者説はスサノオ)、八千戈大神(大国主)、御年大神(大歳)であることからみてても、大国主一族と考えます。
第3の理由は、箸墓はその建造方法から大国主を国譲りさせた天穂日の子孫の野見宿禰がその建造を指揮したことを示しており、垂仁天皇の時、殉死に代わる埴輪を提案して土師氏と呼ばれており、元々は土師墓と呼ばれていたことと符合します。
その建造にあたっては「大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民(おほみたから)相踵(あひつ)ぎて、手逓伝(たごし)にして運ぶ」作業を担ったのが生駒の大坂山(逢坂山)の大阪山口神社から馬見山古墳群にかけてを拠点とするスサノオの妻の神大市姫命の一族であったことから、「大市墓」とも呼ばれたと考えます。
第4の理由は、図8・9に示すように帆立貝形型の発生期の前方後円墳である纏向勝山古墳(3世紀前半)・纏向石塚古墳(同)・纏向矢塚古墳(同中頃)から穴師坐兵主神社へ向かう参道に沿って大型建物、11代垂仁天皇・12代景行天皇の宮、野見宿禰が当麻蹴速と角力(相撲)をとった場所に相撲神社があるように、纏向の地は大国主一族が大物主と交わした約束を守り、三諸山(三輪山)のスサノオ(大物主大神)を祀る祭祀拠点なのです。
邪馬台国畿内説は纏向で発掘された大型建物を卑弥呼の宮室であり、太陽信仰の神殿としてアマテルと結びつけていますが、記紀や魏書東夷伝倭人条、さらには神名火山(神那霊山)信仰や神社信仰を無視した新皇国史観の空想という以外にありません。
14. 187頁 「死者を封じ込める宗教的な力となると、須佐之男大神かその後継者の三輪山に祀られた大物主大神(大歳神)、大国主神の霊力などが考えられる」
→前述のように、「スサノオ=大物主大神=日本大国魂大神」を日本書紀は隠しているために間違ってしまいましたが、「死者を封じ込める宗教的な力となると、祖先霊である須佐之男大神(大物主大神)の霊力が考えられる」に修正します。
15. 201頁 「ヤマトタケル命は、東国行きを命じられ、伊勢神宮で叔母の倭比売から、須佐之男大神がヤマタノオロチを討った時の戦利品の「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)(後に、草薙剣と言われる)」を受け取り、尾張に向かったとされている」
→前述のように、古事記によればオロチ王の刀は「都牟刈大刀(つむがり大刀:頭刈大刀)」「草薙大刀」であり、天皇家に伝わる銅剣の「天叢雲剣:草薙剣」はオロチ王の鋭い鉄の大刀ではありません。
16. 203頁 「出雲国風土記によれば、出雲伊波比神(出雲祝神)は、天照大神が須佐之男大神と受霊(うけひ)で産んだとされる天穂日神の子で、大国主神に国譲りさせた天日名鳥命(天夷鳥命=武日照命=建比良鳥命)の別名である」
→前述のように、記紀や出雲国風土記はスサノオの異母妹アマテル1とスサノオ7代目の大国主の筑紫妻・鳥耳(アマテル2)を一人に合体しており、「記紀等によれば、出雲伊波比神(出雲祝神)は、天照大神が須佐之男大神と受霊(うけひ)で産んだとされる天穂日神とされていますが、大国主神に国譲りさせた鳥耳の子の天穂日神であり、その子が天日名鳥命(天夷鳥命=武日照命=建比良鳥命)である」に修正します。
17. 210頁 「奈良県田原本町の磯城の近くには、大物主大神(大歳神)を祀る三輪山の麓に広がる弥生の巨大な環濠都市、唐古・鍵遺跡があり、銅鐸の鋳型がでるなど銅鐸文化の拠点の一つであり、須佐之男大神の子の大歳神の進出拠点である」
→「奈良県田原本町の磯城には、天照国照彦火明命を祀る鏡作坐天照御魂神社の北東約1kmのところに銅鐸の鋳型がでた環濠集落の唐古・鍵遺跡があり、その西には岩見地名や杵築神社があり、今里と鍵では蛇巻き神事が行われるなど、大国主の子の火明命一族の進出拠点である」に修正します。
今後、以上の修正点などを盛り込むとともに、縄文社会から連続する霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教である八百万神神道と海人族の海洋交易によるスサノオ・大国主建国の全体像を明らかにし、日本文明を世界史の中に位置づけ、「戦争なき21世紀」へ向けた提案としてまとめたいと考えています。
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