仕事の都合で4か月間、休みをいただきましたが、この連休から連載を再開します。ご愛読いただいている皆様にはご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした。日南虎男 「石の宝殿」兵庫建築士会ホームページ『兵庫探訪』より http://www.hyogo-aba.or.jp/tanbou/50anive/50/sibulist.htm
石の宝殿に登るには、先ほど見た東から登る階段とは別に、南側の中腹の駐車場から登るスロープがあった。ダラダラと昇って行くと、右手に舞台、左手に拝殿と本殿があった。この舞台、拝殿、本殿を貫いて中央に東から階段と通路が通る、珍しい割拝殿の形式をとっている。その通路の奥、正面に石の宝殿があった。この生石(おうしこ、おいしこ)神社は巨石の磐座(いわくら)を神体とする古い宗教様式を示している。「大きいなあ」初めて見るカントクの感想である。「幅6.4m、高さ5.7m、奥行き7.2mで、推定重量は500tとされています。大阪城最大の蛸石が幅11.7m、高さ5.5m、奥行き推定0.9m、推定重量は130tですから、重量では4倍近くになります」高木は自慢のスマートフォンに入れてきたデータを紹介した。「この石はどういう石なの?」いつものように、ヒアリング大好きのマルちゃんから質問が飛んできた。「火山灰が固まってできた流紋岩質溶結凝灰岩といわれる柔らかい石です。竜山石と呼ばれ、古代には石棺として使われ、間壁忠彦・葭子氏によると、兵庫県内だけでなく、山口・広島・岡山・大阪・奈良・滋賀に運ばれています。姫路城の石垣や土台、日本帝国ホテル、国会議事堂などにも使われています」「これってどうやって作ったのかしら」今度はヒメの番だ。「岩盤を上から四角に切り込んでいったのではないでしょうか」「ここは、標高50~60mってとこかな。ここで作って平地に降ろす、ということは考えられないなあ」長老の考えはもっともだ。「後で近くの石切場を見ますが、運び出すつもりなら、平地で切り出したと思います」「そうだね。当時は、この山裾まで海が迫っていたに違いないから、イカダに載せて遠くに運び出すなら、海面すれすれの所で作業するよね」どうやら、長老は間壁忠彦・葭子氏の『日本史の謎・石の宝殿』を読んでおり、蘇我氏が作らせて大和に運ぶつもりであった、という説に反対のようだ。「この裏側にある突起は何なのかなあ?」先に裏手に回ったマルちゃんは、側面屋根型の突起を指さしながら質問するでもなく、つぶやいていた。「もともと、この屋根型の突起のある部分が上面にくるように、完成後に全体を前に倒して起こす予定であったのではないか、と考えられています」高木は間壁氏の説をそのまま述べた。確かに、この巨石の底の部分も彫り込まれており、全体が一部分だけで下の岩盤と繋がっているのであった。そこには水が溜まっていたので、ちょうど岩全体が水に浮かんでいるように見える。「不思議よね。なぜ、最初から屋根を上にして立てた形で岩を彫り込まなかったのかしら」高木も間壁説を紹介しながら、ヒメと同じ疑問を感じていたところであった。「それに、これで完成型なのかしら?」質問魔で教師を困らせ、特殊学級、今の特別支援学級に入れられそうになったというヒメの性格は今も変わらない。「間壁説は、橿原市にある益田岩船の形状から、現在の石の宝殿の上面はくり抜かれ、2つの部屋が作られる予定であったのでは、という説を唱えています」高木は、出身地の葛城市に近い益田岩船のことを紹介しておきたかった。「益田岩船って、松本清張さんはゾロアスター教の拝火台であるという説だったわよね」「他にも、益田池を造った弘法大師の石碑の台石、占星術の天体観測台、横口式の石槨、火葬墳墓などの説があります」「間壁説はどうなの?」「蘇我王朝のモニュメントとなる横口式の石槨という説です」「この中に2つの石室を作り、石棺が入るかしら?」そう言われてみると、2つの石棺を入れるのは難しいとしても、1つなら入れられないことはなさそうだ。スマートフォンでデータを見ると、立てた状態で左右は6.4m、奥行きは約5.7mであった。 ネタモトは日向勤氏の『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)です。姉妹編として「邪馬台国探偵団」(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)を始めました。 ,,,
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