これまで書いてきた「スサノオ・大国主建国論」を年内目標にまとめるにあたり、下書きを連載していきたいと思います。これまで書いてきたことと重複が多いのはご容赦下さい。いずれ、アマゾンキンドル本としてまとめるとともに、スリム化して出版したいと思います。 雛元昌弘
スサノオ・大国主建国論1 はじめに
この国の古代史は、私のような建築学科卒(大学院離籍)で、まちづくりの調査・計画・助言を主な仕事としてきた門外漢には実に不可解な世界である。
古事記・日本書紀・出雲国風土記(以下、記紀と略)などはスサノオ・大国主一族の「葦原中国(あしはらのなかつくに)」「豊葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)長五百秋(ながいほあき)の水穂国」の建国をはっきりと書き、古事記は大国主は少彦名と「国を作り堅め」、少彦名の死後には美和の大物主と「共に相作り」と書き、日本書紀も大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」とし、出雲国風土記は大国主を「造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」と書いている。
しかしながら、ほとんどの歴史学者たちは古事記に書かれたスサノオ~大国主7代、大国主~遠津山岬多良斯(とほつやまさきたらし)10代の合計16代の建国史を本格的に研究せず、スサノオ・大国主の墓を捜そうともしていない。記紀神話は8世紀の創作として研究対象外におき、アマテル(天照大御神)だけをつまみ食いし、天皇中心史観・大和中心史観に安住している。
魏書東夷伝倭人条に書かれた「三十国」の「邪馬壹国(やまのひ(い)のくに)」の女王・卑弥呼(ひみこ)が誰か、その墓がどこにあるかについては研究者・民間人を問わず夢中であるにも関わらず、分裂前のこの国の建国者であり、後漢光武帝より「漢委奴国王」の金印を与えられた「旧(もと)百余国」「住七八十年」の「男子王」の「委奴国王(ひ(い)なのくにのおう)」については無関心で、それが誰であるか、その墓がどこにあるか、確かめようともしていない。
「旧(もと)百余国」の委奴国に反乱して独立した30国が共立した邪馬壹国(やまのひ(い)のくに)の卑弥呼(ひみこ)(霊御子=霊巫女)の「鬼道」(神道=霊(ひ)(祖先霊)信仰)が祀った共通の祖先王は委奴国王以外にありえないと私は考えているが、歴史学者たちは委奴国王とスサノオ・大国主一族の関係を探究しようともしていない。日本の歴史学者たちは記紀も魏書東夷伝倭人条のどちらも無視し、天皇中心史観の虚偽の建国史をねつ造しているのである。
私はこの「旧百余国」の「住七八十年」の「男子王」の国こそ記紀に書かれた「スサノオ~大国主7代」の統一王朝と考え、「委奴国王」はスサノオであることを確信し、2009年に『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに) 霊(ひ)の国の古代史』(梓書院:ペンネーム甲斐仁志)を上梓した。
ただこの時は「記紀神話」全体の分析も不十分で、その後、「ポスト葦原中国」論として、大国主の筑紫日向(つくしのひな)の筑紫妻・鳥耳からの10代の分析を進め、それこそが筑紫大国主王朝=邪馬壹国(やまのひ(い)のくに)であり、その王都が旧甘木市(朝倉市)の高台にあった「高天原」であるとして『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本:2014年第1版、2020年第2版)をまとめた。
その後も探究を進め、『季刊日本主義』『季刊山陰』や「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート(旧:神話探偵団)」「帆人の古代史メモ」など4つの古代史ブログに書いてきており、ここに「スサノオ・大国主建国論」としてまとめておきたい。
その全体像は次のとおりである。なお、記紀や風土記に書かれた神々の名称の「~神・大御神」「~命」「~尊」「神~」「天~」「建~」などの尊称は煩雑になる場合には省いて表記し、建速須佐之男命・須佐乃袁尊・素戔男尊・素戔嗚尊・神須佐能袁命・須佐能乎命の名前は「スサノオ」に、大国主神・大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命・八千矛神・葦原色許男神は「大国主」、天照大御神・大日孁貴は「アマテル」などと簡易表記した。
① 皇国史観・反皇国史観により、これまで「記紀神話」とされてきたものは、「大部分伝承+神話化伝承+神話」の3層構造であり、荒唐無稽とされてきた「神話」の多くはスサノオ・大国主一族の建国伝承を巧妙にカモフラージュして伝え残した「神話化伝承」である。
記紀神話を「ドキュメンタリー+ミステリー+ファンタジー」として分析すればスサノオ・大国主建国の真実の歴史を解明することができる。
② 紀元57年に光武帝より与えられた金印に掘られた「委奴国」は「ひ(い)なのくに」であり、「委・倭・奴・邪・鬼・卑」字などは後漢皇帝が押し付けた悪字ではなく、母系制時代の甲骨文字では良字である。「委奴国」「邪馬壹国」「鬼道」「卑弥呼」などは国書に倭人が記したものである。
③ 『三国史記』新羅本紀は、4代目新羅国王の倭人の脱解(たれ)が紀元59年に倭国王と国交(米鉄交易)を結んだとしている。一方、古事記ではイヤナギはスサノオに「海の支配」を命じており、日本書紀はスサノオが御子のイタケル(五十猛=委猛)を連れて新羅に渡ったとしており、新羅国王と国交を結んだ倭国王はスサノオ以外には考えられない。
④ 桓武天皇第2皇子であり、空海・橘逸勢とともに「日本三筆」に挙げられた第一流の文人である52代嵯峨天皇は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として「正一位(しょういちい)」の神階と「日本総社」の称号を、66代一条天皇は「天王社」の号を尾張の津島神社に贈っており、この「本主スサノオ」「スサノオ天王」伝承は天皇家公認の史実である。
なお、織田信長は越前町織田のスサノオを祀る越前二の宮の剣神社の神官の末裔で津島神社の領主であり、天皇を越える「天主」として「4階正八角・5階正方形」の安土桃山城天主を建てている。天皇家を象徴する「八角円堂(夢殿)」「八角墳」に対し、スサノオ・大国主一族の「方墳」「石の宝殿(方殿)」に見られる「方殿」を上位に置いているのである。
⑤ 記紀・風土記・魏書東夷伝倭人条・新羅本紀の記述、ドラヴィダ(タミル)語起源の農耕・食・宗教語、倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造、神山天神信仰(神名火山(神那霊山)信仰)や神籬(霊洩木)信仰、巨木建築文化、海人族の妻問夫招婚の母系制社会、コメとヒトのDNAなどからみて、「委奴国・倭国」は弥生人(中国人・朝鮮人)による征服王朝などではなく、縄文人の母族社会からの内発的発展による建国である。
⑥ 古事記によれば、スサノオは伊邪那岐(いやなぎ)が出雲の揖屋(いや)の伊邪那美を妻としてもうけた大兄(おおえ)(長兄)であり、伊邪那美(いやなみ)の死後、伊邪那岐(いやなぎ)が筑紫日向で妻問いしてもうけたアマテル・月読(つきよみ)(壱岐)、綿津見(わたつみ)3兄弟(底津・中津・上津:金印が発見された志賀島)、筒之男(つつのお)3兄弟(底・中・表:博多・住吉)はスサノオの異母妹・異母弟である。
⑦ スサノオ・五十猛(いたける)(委武)親子は新羅と米鉄官制交易により鉄先鋤の普及を図るとともに、十束剣(韓鋤剣(からすきのつるぎ))で八岐大蛇(やまたのおろち)王の草那藝之大刀(くさなぎのおおたち)を奪い、その本拠地の吉備の赤坂(現赤磐市)の鉄生産を支配し、葦原の沖積地での鉄器水利水田稲作を全国に普及した。
⑧ 大国主は大穴牟遅(おおな(あな)むち)(大穴持(おおあなもち)神・八千矛(やちほこ)神・五百鉏鋤(いおつすきすき)王などと呼ばれ、播磨の御子の阿治志貴高日子根(あじすきたかひこね) (迦毛大御神)や丹津(につ)日子・爾保都比売(にほつひめ)(丹生都比売(にゅうつひめ))を御子とし、播磨で鉄と丹(水銀朱・鉄朱)生産を行った製鉄王・水田稲作王である。また、丹を遺体に塗って地母神の子宮に見立てた石棺・甕棺・石室に入れて霊(ひ)の再生を願う八百万神(やおよろずのかみ)信仰の祭祀者出雲神道を確立した。
⑨ しまなみ海道の大三島の大山津見(おおやまつみ)(大山祇)の娘の大市比売(おおいちひめ)とスサノオとの間に生まれた大年(おおとし)(大歳:大物主を代々襲名)は美和(三輪)、妹の宇迦之御魂(うかのみたま)は伏見を拠点とした。出雲のスサノオ7代目の大国主は鉄先鋤による水利水田稲作の国づくりを共に進めた少彦名の死後、美和の大物主(代々襲名)と連合し、銅矛圏(九州大国主王朝)・銅槍圏(通説は銅剣説:大国主勢力圏)・銅鐸圏(美和大物主王朝)を統一し、大倭国(おおわのくに)と称した。
⑩ 大国主は筑紫日向(ひな)で鳥耳(天照(あまてる)を襲名)に妻問いし、その御子・孫の穂日(ほひ)・天夷鳥(あまのひなとり)(武日照(たけひなてる)・天比良鳥(あまのひらとり))親子は大国主の後継者争いで出雲の事代主(ことしろぬし)(言代主)、沼河(ぬなかわ)(糸魚川)の建御名方(たけみなかた)に勝ち大倭国(おおわのくに)の後継者となった。記紀の「国譲り神話」は大国主の後継者争いを、アマテル=天皇家の出雲征服に置き換えたものである。
⑪ その後、筑紫大国主王朝の30国は新羅鉄の入手を巡って出雲王朝に対して反乱・自立し、その11代目の王位を巡って相攻伐し、共通のスサノオ・大国主の祖先霊を祀る祭祀(鬼道)を行う邪馬壹国(やまのひ(い)のくに)の卑弥呼(ひみこ)(霊御子=霊巫女:天照(あまてる)を襲名)を共立して統一を果たした。さらにその死後、男王派と女王派の争乱がおき、女王派壹与(ひと(い)よ)(霊豊)が擁立された。天岩屋戸(竪穴式石棺)でのアマテル再生神話は、卑弥呼から壹与(ひとよ)への霊継(ひつぎ)儀式を神話化したものである。
⑫ 記紀はスサノオの異母妹アマテルと、7代目大国主の筑紫妻の鳥耳(アマテルを襲名)、さらに11代目の卑弥呼(オオヒルメ:大日孁=大霊留女)、12代目壹与(ひと(い)よ)を合体して一人のアマテルとし、1~3世紀のスサノオ・大国主一族の歴史を隠しながら、真実の歴史を巧妙に伝え残した。
⑬ 敗れた男王派のニニギは筑紫日向(ひな)の高天原(甘木=天城の高台)から佐田→浮羽→日田→九重→高千穂→阿多と、女王派の平野部の国々を避けて険しい九州山地を投馬(とうま)国(さ・つま)に逃亡した。そして、ニニギ2代目の山幸彦(ほおり:山人=猟師)・海幸彦(ほでり:隼人=漁師)兄弟は争い、山幸彦(山人)は龍宮(琉球)の豊玉毘売(とよたまひめ)を妻とし、産まれたウガヤフキアエズは、妹の玉依毘売(たまよりひめ)に育てられて妻とし、その子の若御毛沼(わかみけぬ)(8世紀に神武天皇と命名)ら4兄弟は傭兵として16年の間、宇佐→筑紫→安芸→吉備と点々とし、最後に大和国(おおわのくに)に入り、10代かけて美和(三輪)王朝を乗っ取った。
以上が、「スサノオ・大国主建国」の前史・後史を含む全体構成である。
□参考□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)
2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)
2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
邪馬台国探偵団 http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/
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