伊保山山頂からみた高御位山と大正天皇行幸の石碑
伊保山頂上には、北の高御位山の方を向いて、大正天皇が行幸した記念碑が建てられていた。
「石の宝殿を訪ね、高御位山に昇った可能性のある天皇は聖武天皇と大正天皇だけなのかしら」
ヒメの質問はいつも高木の想定外である。
「昭和天皇も皇太子の時にこの地を訪れています」
ヒナちゃんは、聖武天皇が印南に行幸したことに気付いた時に、他にこの地を訪ねた天皇がいないか、調査したに違いない。高木には真似のできないことであった。
「天皇家には、公表されていない秘密の記録が残されているのかも知れないなあ。ところで、この石碑が、東の大和の方角を向いていないのは面白いね」
古代の神社の方角についてはうるさいカントクならではの目のつけどころだ。
ここは案内役の高木の出番である。ヒナちゃんみたいな発想力には欠けるが、広く浅く情報を集めてデータベース化することは得意である。
「ちょうど東に、ヤマトタケルの母の播磨稲日(いなび)太郎姫(おおいらつめ)の墓とされている日岡山が見えます。ここにはヤマトタケルが生まれた、という伝説が残っています。ちょうど南の加古川の河口近くには、神功皇后が大国主に戦勝を祈念し、新羅からの帰りに建てたとされる高砂神社があります」
「大和の方角はどっちなの?」
マルちゃんも方角や地形にはうるさい。
「ほぼ真東になります」
「そうすると、大正天皇はこの伊保山山頂に立って、天皇家にゆかりの深い東の日岡山と大和、南の高砂神社ではなく、北の高御位山の方角を最上位に置いたことになるね」
カントクは、いつものように、ヒメの説をちゃっかりとフォローしている。
「高御位山についての地元の伝承はどうなの?」
マルちゃんの質問はいつものように抜かりがない。
「南北朝時代の1348年に書かれた『峯相記(みねあいき)』には、『生石子(おおしこ)の神と高御倉(たかみくら)の神が陰と陽の二神として、夫婦となって現れた。この二人の神が天から降りてきて、石で社を造ろうとしたが夜が明けるまでに押し起こすことができなかった。そこで、天に帰ってしまった』と書かれています。
江戸時代の1762年に書かれた「播磨鑑」には、『神代の昔、大己貴命が天の岩船に乗ってこの山に来て高御位大明神と称した。もう一神は小彦名命で、生石子大明神と称した。二神は気持ちを合わせて五十余丈の岩を切り抜き、石屑は一里北の高御位山の峰に投げた。一夜の間に二丈六尺の石の宝殿を造り、二神の尊が鎮座している』と伝えています」
高木は、橋元正彦という人の『兵庫の山々 山頂の岩石』というホームページを孫引きしながら説明した。
「高御位山と生石子は古くからこの地方で信仰されていたことがわかるけど、もともと、高御位神と生石子神は男女の神で、後世になって、大国主と少彦名に置き換えられた、ということになるんじゃあないの?」
マルちゃんはなかなか手強い。
「単に記録の前後関係からだけで判断するのは危険と思います。『峯相記』が書かれた頃、播磨は南朝派、北朝派に分かれて武士達が戦を繰り広げていましたから、尊皇の空気の中で、大国主や少彦名の建国の伝承を憶を消した可能性はないでしょうか? むしろ『播磨鑑』の方が、この地の伝承を伝えている可能性が高いと思います」
ヒナちゃんはすでに検討済みのようだ。
「聖武天皇がこの地を訪れ、大石村主真人が『オオナムチ・少彦名の将座・・・』という歌を捧げていることから見て、『播磨鑑』の方に分配を上げるべきだな」
長老は今日は旗幟鮮明である。
「高御位山での大国主の建国儀式を継承して天皇家が高御座で即位式を行うようになった、という説は確かに面白いけど、その仮説を証明する物証は『石の宝殿』以外にないの?」
マルちゃんが食い下がっている。
「天皇や各地の王の柩(霊継ぎ)づくりに携わった各地の石作連は天火明命を祖先としていますが、播磨国風土記は火明命は大国主の子供で、乱暴なので播磨の地に残された、としています。そして、たつの市龍野町日山には、天照国照彦火明命を祀るの粒坐(イイボニイマス)天照神社がありますが、この神社名の「イイボ」からこ一帯は揖保郡と呼ばれていますが、私達が立っているこの山の名前も伊保山です。このすぐ南に続いている竜山の石で天皇や皇族の棺(霊継ぎ)が造られていることから見て、天火明命一族の石作連は、この竜山を拠点にして各地に進出し、王の石棺製作に携わったと考えられます」
ヒナちゃんの検討は多面的だ。
「『石の宝殿』に『石作連の柩』が加わると、ぐっと重みを増すわね」
確かに、マルちゃんの言うとおり、各地にこの竜山石で製作された柩が運ばれ、天皇や王の墓に使われたということは、葬送儀式の重要部分を火明命の一族が担っていたことになる。
「古事記や播磨国風土記の大国主と少彦名の国づくり、少彦名亡き後の大物主の協力、大国の里の神々ゆかりの地名、石の方殿の形状と立地の場所、石の方殿や高御位山に関する大国主と少彦名の伝承、石の方殿の中途での建設放棄、天皇の霊(ひ)継ぎの即位式に使われる方壇の高御座という名称、この高御位山に大国主が天の岩船に乗って降りたという伝承、石作連による竜山石の柩(霊継ぎ)、神功皇后がこの地で大国主に戦勝祈願を行ったという伝承、聖武天皇のこの地への行幸、万葉集の大石村主真人の歌などを総合的に判断すると、高御位山で大国主が霊(ひ)継ぎの即位式を行った、と考えていいのではないでしょうか」
ヒナちゃんは控えめながら、確信に満ちた口調であった。
資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
姉妹編:「邪馬台国探偵団」(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)
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伊保山頂上には、北の高御位山の方を向いて、大正天皇が行幸した記念碑が建てられていた。
「石の宝殿を訪ね、高御位山に昇った可能性のある天皇は聖武天皇と大正天皇だけなのかしら」
ヒメの質問はいつも高木の想定外である。
「昭和天皇も皇太子の時にこの地を訪れています」
ヒナちゃんは、聖武天皇が印南に行幸したことに気付いた時に、他にこの地を訪ねた天皇がいないか、調査したに違いない。高木には真似のできないことであった。
「天皇家には、公表されていない秘密の記録が残されているのかも知れないなあ。ところで、この石碑が、東の大和の方角を向いていないのは面白いね」
古代の神社の方角についてはうるさいカントクならではの目のつけどころだ。
ここは案内役の高木の出番である。ヒナちゃんみたいな発想力には欠けるが、広く浅く情報を集めてデータベース化することは得意である。
「ちょうど東に、ヤマトタケルの母の播磨稲日(いなび)太郎姫(おおいらつめ)の墓とされている日岡山が見えます。ここにはヤマトタケルが生まれた、という伝説が残っています。ちょうど南の加古川の河口近くには、神功皇后が大国主に戦勝を祈念し、新羅からの帰りに建てたとされる高砂神社があります」
「大和の方角はどっちなの?」
マルちゃんも方角や地形にはうるさい。
「ほぼ真東になります」
「そうすると、大正天皇はこの伊保山山頂に立って、天皇家にゆかりの深い東の日岡山と大和、南の高砂神社ではなく、北の高御位山の方角を最上位に置いたことになるね」
カントクは、いつものように、ヒメの説をちゃっかりとフォローしている。
「高御位山についての地元の伝承はどうなの?」
マルちゃんの質問はいつものように抜かりがない。
「南北朝時代の1348年に書かれた『峯相記(みねあいき)』には、『生石子(おおしこ)の神と高御倉(たかみくら)の神が陰と陽の二神として、夫婦となって現れた。この二人の神が天から降りてきて、石で社を造ろうとしたが夜が明けるまでに押し起こすことができなかった。そこで、天に帰ってしまった』と書かれています。
江戸時代の1762年に書かれた「播磨鑑」には、『神代の昔、大己貴命が天の岩船に乗ってこの山に来て高御位大明神と称した。もう一神は小彦名命で、生石子大明神と称した。二神は気持ちを合わせて五十余丈の岩を切り抜き、石屑は一里北の高御位山の峰に投げた。一夜の間に二丈六尺の石の宝殿を造り、二神の尊が鎮座している』と伝えています」
高木は、橋元正彦という人の『兵庫の山々 山頂の岩石』というホームページを孫引きしながら説明した。
「高御位山と生石子は古くからこの地方で信仰されていたことがわかるけど、もともと、高御位神と生石子神は男女の神で、後世になって、大国主と少彦名に置き換えられた、ということになるんじゃあないの?」
マルちゃんはなかなか手強い。
「単に記録の前後関係からだけで判断するのは危険と思います。『峯相記』が書かれた頃、播磨は南朝派、北朝派に分かれて武士達が戦を繰り広げていましたから、尊皇の空気の中で、大国主や少彦名の建国の伝承を憶を消した可能性はないでしょうか? むしろ『播磨鑑』の方が、この地の伝承を伝えている可能性が高いと思います」
ヒナちゃんはすでに検討済みのようだ。
「聖武天皇がこの地を訪れ、大石村主真人が『オオナムチ・少彦名の将座・・・』という歌を捧げていることから見て、『播磨鑑』の方に分配を上げるべきだな」
長老は今日は旗幟鮮明である。
「高御位山での大国主の建国儀式を継承して天皇家が高御座で即位式を行うようになった、という説は確かに面白いけど、その仮説を証明する物証は『石の宝殿』以外にないの?」
マルちゃんが食い下がっている。
「天皇や各地の王の柩(霊継ぎ)づくりに携わった各地の石作連は天火明命を祖先としていますが、播磨国風土記は火明命は大国主の子供で、乱暴なので播磨の地に残された、としています。そして、たつの市龍野町日山には、天照国照彦火明命を祀るの粒坐(イイボニイマス)天照神社がありますが、この神社名の「イイボ」からこ一帯は揖保郡と呼ばれていますが、私達が立っているこの山の名前も伊保山です。このすぐ南に続いている竜山の石で天皇や皇族の棺(霊継ぎ)が造られていることから見て、天火明命一族の石作連は、この竜山を拠点にして各地に進出し、王の石棺製作に携わったと考えられます」
ヒナちゃんの検討は多面的だ。
「『石の宝殿』に『石作連の柩』が加わると、ぐっと重みを増すわね」
確かに、マルちゃんの言うとおり、各地にこの竜山石で製作された柩が運ばれ、天皇や王の墓に使われたということは、葬送儀式の重要部分を火明命の一族が担っていたことになる。
「古事記や播磨国風土記の大国主と少彦名の国づくり、少彦名亡き後の大物主の協力、大国の里の神々ゆかりの地名、石の方殿の形状と立地の場所、石の方殿や高御位山に関する大国主と少彦名の伝承、石の方殿の中途での建設放棄、天皇の霊(ひ)継ぎの即位式に使われる方壇の高御座という名称、この高御位山に大国主が天の岩船に乗って降りたという伝承、石作連による竜山石の柩(霊継ぎ)、神功皇后がこの地で大国主に戦勝祈願を行ったという伝承、聖武天皇のこの地への行幸、万葉集の大石村主真人の歌などを総合的に判断すると、高御位山で大国主が霊(ひ)継ぎの即位式を行った、と考えていいのではないでしょうか」
ヒナちゃんは控えめながら、確信に満ちた口調であった。
資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
姉妹編:「邪馬台国探偵団」(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)
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