8月7日 江別市エポアホールにて
夏の会の公演
女優達による朗読「夏の雲は忘れない」

江別公演に行ってきました
出演は夏の会の女優さんのうち6名と地元の高校生5人
舞台装置は簡単で木製の椅子とバックスクリーンに映し出される映像のみ
峠三吉さんの「小さな子」とか
栗原貞子さんの「うましめんかな」他
被爆時 小さかった子供達の声を残したもの
学校の先生の声
従軍カメラマンで ヒロシマ・ナガサキを撮影した ジョー・オダネル氏の「トランクの中の日本」などを朗読劇として上演されました。
ジョーオダネル撮影の少年の写真
7日といえば ヒロシマの原爆の日の次の日です。
そして今日はナガサキに原爆が投下された日。
重い重いテーマで 心がつぶれそうでした。
ここにアップするため 自分の気持ちを整理するのに とても時間がかかりました。
私は広島県生れです。
昭和20年 母は19歳でした。
母の実家は広島市内(爆心地)からは30kmも離れた山の中でしたが それでも ピカっと光って ド~ンという音は聞こえたそうです。
直接被爆はしていない母ですが 横川(爆心地から2km)という場所に知人を探しに行って 被爆しています。
でも 被爆者手帳は持っていません。
証明する人がいなかったのと その当時 被爆者は嫁の貰い手がないというので取らなかったというのもあるようです。
多くの被爆者と同じように 母が原爆について話す事はあまりありませんでした。
私もあえて聞こうともしませんでした。
知人というのは 将来を約束した人の家族でした(全員お亡くなりになっていたそうです)
「待っていてくれ」「待っています」の約束は 戦死という事実で 悲しくも果たされることはありませんでした。
終戦後 戦争で南方に行って九死に一生をえて復員してきた13歳離れた父と結婚して 自分たち兄妹が生まれたわけで 今の自分があります。
あの不幸な戦争で多くの人の命が失われ どれだけの涙が流されたのか
母の記憶がどんどん昔に遡っていく中で やたらとその昔の思い人の話題が出るようになって 私は正直いやでした。
父の事にあまり感謝していない母をたしなめた事もありました。
もうだれも菩提を弔う人がないので せめて自分が供養をしたいと言っていましたが・・・。
青春時代を戦争に奪われた母の記憶は今尋常小学校くらいまで遡っているようです。
せめて母には今を幸せにと願っています。
なんか今日はやっぱり重いままで終わってしまいそうです。
戦争は体験していないけど たくさんの奇跡の中で 生かされていることに感謝したいと思います。
クリック うれしい ワン ! !
夏の会の公演
女優達による朗読「夏の雲は忘れない」
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江別公演に行ってきました
出演は夏の会の女優さんのうち6名と地元の高校生5人
舞台装置は簡単で木製の椅子とバックスクリーンに映し出される映像のみ
峠三吉さんの「小さな子」とか
栗原貞子さんの「うましめんかな」他
被爆時 小さかった子供達の声を残したもの
学校の先生の声
従軍カメラマンで ヒロシマ・ナガサキを撮影した ジョー・オダネル氏の「トランクの中の日本」などを朗読劇として上演されました。
ジョーオダネル撮影の少年の写真
7日といえば ヒロシマの原爆の日の次の日です。
そして今日はナガサキに原爆が投下された日。
重い重いテーマで 心がつぶれそうでした。
ここにアップするため 自分の気持ちを整理するのに とても時間がかかりました。
私は広島県生れです。
昭和20年 母は19歳でした。
母の実家は広島市内(爆心地)からは30kmも離れた山の中でしたが それでも ピカっと光って ド~ンという音は聞こえたそうです。
直接被爆はしていない母ですが 横川(爆心地から2km)という場所に知人を探しに行って 被爆しています。
でも 被爆者手帳は持っていません。
証明する人がいなかったのと その当時 被爆者は嫁の貰い手がないというので取らなかったというのもあるようです。
多くの被爆者と同じように 母が原爆について話す事はあまりありませんでした。
私もあえて聞こうともしませんでした。
知人というのは 将来を約束した人の家族でした(全員お亡くなりになっていたそうです)
「待っていてくれ」「待っています」の約束は 戦死という事実で 悲しくも果たされることはありませんでした。
終戦後 戦争で南方に行って九死に一生をえて復員してきた13歳離れた父と結婚して 自分たち兄妹が生まれたわけで 今の自分があります。
あの不幸な戦争で多くの人の命が失われ どれだけの涙が流されたのか
母の記憶がどんどん昔に遡っていく中で やたらとその昔の思い人の話題が出るようになって 私は正直いやでした。
父の事にあまり感謝していない母をたしなめた事もありました。
もうだれも菩提を弔う人がないので せめて自分が供養をしたいと言っていましたが・・・。
青春時代を戦争に奪われた母の記憶は今尋常小学校くらいまで遡っているようです。
せめて母には今を幸せにと願っています。
なんか今日はやっぱり重いままで終わってしまいそうです。
戦争は体験していないけど たくさんの奇跡の中で 生かされていることに感謝したいと思います。
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