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2015年07月05日(日)
年輪を重ねた者だけが持つ歴史の皮膚感覚と、強い危機感
〜ジイジとバアバの国会前デモ
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」連載第132回
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3年前の官邸包囲デモとのちがい
地下鉄の国会議事堂前駅の改札を抜け、地上に出たら茱萸坂(ぐみざか)の歩道がごった返していた。
歩道のあちこちに設置されたスピーカーから佐高信さんの声が大きく響く。
「私たちがこれまで外国に行くとき手にしたのは平和のパスポート。それが戦争のパスポートに変わろうとしている。それでいいのか!」
6月14日の日曜午後2時、安保法制反対の国会包囲デモ(主催者発表で2万5000人参加)の始まりである。忘れもしない。3年前の夏、私の連載はこの場所のルポから始まった。
当時は反原発の官邸前デモが最高潮に達していた。歩道からあふれた人が車道を埋め尽くした。「危険だから歩道に上がって」という警察官の制止を誰も聞かない。夕闇の“解放区”に蠢く、数え切れぬほどの若い男女の姿が瞼に焼きついている。
あのころはまだ希望があった。もっと伸びやかな空気があった。自分たちの力で社会を変えられるという実感もあった。軽快なサンバのリズムが心地よく響き、警備の警官まで「サイカドウ(再稼働)ハンタイ」と口ずさんでいた。
ところが今は同じ場所に立っても重苦しさしか感じない。参加者の大半が私と同じ60代前後だからだろうか。私たちには3年前の若者たちのようにデモを祝祭に変え、爆発的に広げる力がない。企画力もない。
だいたい、国会議員が議事堂にいない日曜に、しかも新聞休刊日の前日に国会包囲デモを計画すること自体、少しピントがずれていやしないだろうか。
若い世代の活躍ぶりに比べると……
私がこの3年間に見てきた官邸前デモや反ヘイトスピーチ運動の中心人物たち(彼らは私より二回りほど若い)は、明確なコンセプトを持っていた。
論点を一つにしぼるシングルイシュー。標的に直接働きかけるカウンター行動。そして警備当局との無駄な衝突を避け、けが人や逮捕者を出さない非暴力主義。この三つが相まって人々の共感を呼び、現実を着実に変える力になった。
事実、一昨年まで東京・新大久保や大阪・鶴橋のコリアンタウンで繰り返されていたヘイトデモが鳴りを潜めた。若い世代が集まった「レイシストをしばき隊」(現C.R.A.C)や「男組」などがカウンター行動(端的に言うとヘイトデモ参加者に罵声を浴びせることだ)で抑えこんだからである。
波及効果も大きかった。カウンター行動を契機にヘイト本ブームに対する社会的な批判が高まった。それまで各地の書店の一角を占めていたヘイト本が次第に姿を消し、いまや「オワコン」(終わったコンテンツ)と言われるまでになった。
そんな若い世代の活躍ぶりに比べると、私たちの世代は見劣りがする。政党や組合を通じた動員型の大衆運動から抜けきれない。それも決して悪いことではないけれど、もう少し世代を超えて人を惹きつける創意工夫があっていいんじゃない?
ちょっぴり不満を抱きながら茱萸坂を下り、皇居の手前で左折して国会正門前に向かう。歩道の混雑がひどい。
前に進めそうにないので憲政記念館のある国会前庭に入り込んだ。ここからなら柵を隔ててだが国会正門前に近づける。
野党の幹部や党首が演説をはじめた。私は政党は嫌いだが、今回だけは彼らの言葉に説得力を感じる。ま、それほど政府与党の主張が支離滅裂だということだろうけど。
年輪を重ねた者だけが持つ歴史の皮膚感覚
ジャーナリストの鳥越俊太郎さんがマイクを握った。テレビの世界では数少ない、まともな神経を持った人である。この10年間、癌と格闘しながら朗らかに仕事をつづけている。
「私は戦後の歴史をつぶさに見てきたが、安倍政権ほどひどい政権はなかった。(今回の解釈改憲は)ドイツのワイマール憲法下で全権委任法を作り、独裁制を敷いたアドルフ・ヒトラーがやったのと同じ手口じゃないか!」と鳥越さんは叫んだ。
「その通りだーっ」と聴衆が応じる。みんな年相応に戦後政治を見てきたから実感としてわかるのだ。鳥越さんが続けた。
「'01年の同時多発テロは米国に対するイスラム過激派の宣戦布告だった。その後、英国とスペインで列車爆破事件が起きた。自衛隊が米軍とともに海外の戦場にいけばどうなるか。新幹線が狙われる可能性が大きい。自衛隊員のリスクが高まるなんて程度の話じゃないんですよ」
ハッとした。これは決して誇張ではない。彼は半世紀にわたる世界各地での取材経験を踏まえて重大な警告を発している。
法政大教授(政治学)の山口二郎さんもお立ち台に立った。
「高村副総裁が『憲法学者が憲法の字面に拘っている』『学者の言うことを聞いて平和が守れるか』と言っているが、トンデモナイ。憲法学者が憲法の条文に拘るのは数学者が1+1=2の数式に拘るのとまったく同じだ。1+1が3にも4にもなる独裁政治を許していいのか」
さすが「行動する政治学者」だ。アジテーションが巧い。言葉が聴衆の胸にじかに響いてくる。山口さんが畳みかける。
「なぜ日本は70年間戦争に巻き込まれずにすんだか。それは55年前、この国会を何十万人もの市民が取り囲み、安倍晋三の祖父・岸首相を退陣に追い込んだからだ。もし岸の野望通り憲法が改正されていたら、日本は間違いなく'60年代のベトナム戦争に派兵し、殺し殺される悲惨なことになっていた。これが歴史の事実であります」
ワーッと大歓声がわいた。'60年安保の体験者も少なくないのだろう。こんなシーンは若い世代のデモでは見られない。年輪を重ねた者だけが持つ歴史の皮膚感覚と、強い危機感を語り手と聞き手が共有している。
そうか。私は大事な点を見落としていた。老年主体のデモは芯が強いのだ。時代の歯車の回転をリアルタイムで見てきたから未来を見渡す力がある。子や孫の命を守る決意も揺るがない。
国会周辺の熱気は散会してもなかなか消えなかった。ジイジとバアバたちはこれからもひたすら歩きつづける。たとえどんなに道が険しかろうと。
『週刊現代』2015年7月4日号より