6月22日 親類寺院 厚木・源正寺施餓鬼法要出仕。
源正寺は正住職がおらず、寒川・生往寺住職が兼務住職をしている。
堂宇は本堂・薬師堂のみで庫裏・客殿等はなく、日頃の管理は世話人さんが行っている。
年に一度の行事だが、お檀家さんは皆熱心で世話人さんやご夫人方も一生懸命準備をしていた。 毎年お邪魔するたびにきれいに整備されていく。
参道では六地蔵がお出迎え 薬師堂
熱心に法話を聞くお檀家さん 手作りのおもてなし
6月22日 親類寺院 厚木・源正寺施餓鬼法要出仕。
源正寺は正住職がおらず、寒川・生往寺住職が兼務住職をしている。
堂宇は本堂・薬師堂のみで庫裏・客殿等はなく、日頃の管理は世話人さんが行っている。
年に一度の行事だが、お檀家さんは皆熱心で世話人さんやご夫人方も一生懸命準備をしていた。 毎年お邪魔するたびにきれいに整備されていく。
参道では六地蔵がお出迎え 薬師堂
熱心に法話を聞くお檀家さん 手作りのおもてなし
6月11日、浄土宗東京教区豊島組教化分団(団長・武智公英上人)主催の秩父路参拝と初夏のSL乗車の旅に参加した。
当日は朝から雨模様、午前8時、JR巣鴨駅集合。総勢35名で出発!
途中休憩を入れながら約3時間かけて秩父入り。最初の参拝先 第25番札所曹洞宗久昌寺へ。
御手判寺の額が掲げられた仁王門 観音堂
秩父札所のおこりは、遠く文暦元年(1234)甲午3月18日開創と伝えられ、)江戸時代になると観音信仰は庶民の心の支えとして流布し、隆盛した。
観音堂は三間四面、堂内には宮殿形の厨子に本尊聖観音が納められ、本尊は一木造りの立像、室町時代の作という。
秩父霊場草創の話の発端に、書写山を開いた性空上人が従者を従え秩父札所を巡った時、夢で閻魔大王に遭い石の通行手形をもらったと伝えられている。その手形を御手判(おてはん)と言い閻魔の庁も無事に通れると言うもの。これにちなんで御手判寺とよばれる。 納経の際に希望すれば御手判の刷り物を頂戴することができる。あの世へ無事にいける通行手形だといわれている。
本堂 本堂内でお勤め
観音堂の背後は土堤になっていて、土堤の向こうは弁天池である。池に沿って行くと、竹林の中に本堂・弁天堂があり、このあたりから眺める武甲山の風景は素晴らしい。
久昌寺近くの食事場所で昼食
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昼食後、いよいよSL乗車のため秩父駅へ向かった。
乗車までの時間調整で西武秩父仲見世通りでお買い物。
秩父鉄道では、都心から一番近い蒸気機関車として秩父路のSL「パレオエクスプレス」が走っている。(期間限定) パレオエクスプレスとして走るC58363は 昭和63年の「さいたま博覧会」開催にともない復活し、21世紀を走る唯一のC58形として活躍している。「パレオ」は秩父地方におよそ2000万年前に生息していた海獣パレオパラドキシアにちなんだ名前だそうです。。
秩父駅(14:36発)に到着したSL列車パレオエクスプレス号
多くの鉄道ファンがカメラを持って待ち構えていた。私自身、動いているSLを見るのも乗車するのも初めて・・・
走行中の機関車の音や汽笛等何とも言えない乗り心地でSLの醍醐味を満喫させて頂いた。
16:18 熊谷駅到着。迎えのバスに乗車し帰路へ・・
18時過ぎ巣鴨駅到着。大変実りある団参旅行でした。引率頂いた教化分団 のスタッフに感謝!!
6月1日 常徳寺の法類寺院である茅ヶ崎市・西運寺施餓鬼会出仕。
ブログにアップすべくデジカメを持参したが、バッテリーを入れ忘れ使用不能に
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6月3日午後2時 部内寺院 向丘・清林寺施餓鬼会出仕。
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6月10日午後7時 白山・浄土寺にて念仏講。念仏講は常徳寺が所属する東部(12ヶ寺)・西部(10ヶ寺)・南部(1ヶ寺)で構成され毎月10日に開催される。
浄土寺本堂 本堂での別時念仏
~ご案内~
① 6月15日(水)22:00~22:43 NHK総合
「人はみな、救われるべきもの」 ~法然と親鸞 探究の道~ 放映予定
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②番組名「あらぶんちょ!」 ケーブルテレビ(デジタル11ch アナログ5ch)
定泉寺(武智公英住職)が紹介されます。
放送日時 6月16日(木)~30日(木)まで(15日間)放送予定
☆11時10分~ ☆14時10分~ ☆17時10分~ ☆22時10分~
久しぶりのブログアップ!
1年経った気の緩みとデジカメをとあるお店に忘れてきた事もあってだいぶ間があきました・・・
5月30日相馬市から国道6号線を南下、南相馬に向かった。
南相馬市は警戒区域・緊急時避難準備地域・計画的避難区域と3通りの指示が出されている。
海岸近くの民家。建物は辛うじて残っているが1階部分は柱のみ。
原町区萱浜地区 ご遺体の捜索は終了したようだが、復旧には程遠い。
被災地に建てられた応援メッセージの看板。
最後まで避難誘導されてたであろう消防団の車両も津波の被害に・・
津波被害後の霊園。墓石は悉く押し流され跡形もない。
国道6号線を更に南下すると立ち入り禁止に・・ この先は原発から20キロ圏内で許可を受けた車両以外入れない。出入りしているのは、ほとんどが自衛隊の車両。車内の隊員は防護服にガスマスク。緊張感が伝わってくる。
Uターンして引き返すことに・・・ 川俣町に住む次兄宅に向かった。次兄宅までは南相馬から30キロ程度。道路は飯舘村を通り川俣に向かうのが最短。
飯舘村は計画的避難区域に指定され全村民避難の指示が出ている。数十年かけて築きあげた飯舘牛ブランドも犠牲に・・
村内は誰一人会うことなく静まり返っている。作付けも出来ず本来なら田植えも終わりみずみずしく輝いている田んぼも見ることが出来ない。
誰一人会うこともなく飯舘村を通過。川俣町に入った。
川俣町も一部が計画的避難区域に指定されている。次兄の住む川俣町飯坂地区は飯舘村のすぐとなり。飯舘村にいた小中学生はほとんどが川俣町に避難し町内の学校校舎を借りて通学しているようだ。
積算線量計 線量計
次兄は役場関係、甥は町役場職員として仕事をしているため、線量計を持ち歩いていた。
次兄の線量計を拝借して測定してみると、屋内は0.08ミリシーベルトだったのが、屋外の地表に近づけるとたちまちご覧の数値に上昇。
放射線対策は早急の課題。せめて放射線測定器が一人一人あるいは各家庭に配布されるとせめてもの安心や判断材料になるのだが・・・
5月30日、福島県相馬市に向かった。当日は大雨強風警報が発令されたが、決行した。
実家のある桑折町から相馬までは約40キロ。1時間弱で行ける場所。
福島教区浄土宗青年会会長でもある桑折町・観音寺副住職の車に同乗し午前9時、桑折町の隣町国見町・大千寺を出発。
福島県の太平洋側は浜通り地方と言い、今回の震災では地震・津波による被害も甚大だが、原発被害はさらに深刻である。
相馬に向かう道は、交通量も少なく、目に付くのは、自衛隊の災害派遣車両、警察車両、物
資運搬車両、相馬方面からのがれきを積んだと思われるトラック等。
相馬に近づくにつれ、風雨が強さを増し、至る所で道路から水があふれ、視界も悪くなってき
た。4輪駆動にして正解だった。
相馬市に入ると沿道に相馬市民有志によって作られた感謝の言葉が書かれた大きな幕が・・
先ずは相馬市の松川浦へ。松川浦は子供の頃、潮干狩りや海水浴に行った思い出の場所である。現地に到着すると津波によって景色は一変・・・ ご覧のとおりである。
新聞、テレビ報道等で見てはいたが、あまりの変わりように絶句!
漁港のある海岸まで車を進めたが、道路のがれきを取り除いたぐらいで、その他は手付かずの状態。悪天候もあってか人影もない・・・ さらに福島では400名以上の方が行方不明である。改めて未曾有の大災害を実感。
唖然としなが国道6号線を南下。次は南相馬市へ向かった。