A・マーヴェル Eyes and Tears 他について
虚ろをながめる目 ⑤
「わたし」はこの辺りで諦めはじめている。そもそも、「わたしの心が揺さぶられること」だけを価値判断の根本に置いているかぎり、何に対しても揺らぎない価値を定めることはできないはずである。しかし、「わたし」はあくまでその方法で何らかの「エッセンス」を捜し出そうとする。「心が揺さぶられる」以上の何か絶対的な価値を判じるための指標として、まさにその「心が揺れるか否か」を採用しているのだ。これは上手くいくはずがない。
「われわれが値をつけるすべての宝石」を見ても、「あらゆる園をめぐって」も、「錬金術の光線で日ごとに世界を融かして」さえも、結局のところ「わたしの情動」にしか帰結しないならば、いっそ主客の区別を忘れてその情動に溺れてしまえばいいのではないか? 第七連以降からは、そんないくぶん自棄のような望みが感じられるように思う。しかし、それだけ自棄になってさえ、望郷も聖母への思慕も古典世界への憧れも、欲望や怒りさえも、結局は「わたし」個人の情動なのだ――と、「わたし」は意識せざるをえない。救い主のみ足を涙で拭ったマグダラのように心おきなく溺れるためには、まずこの「動きを観察する部分」をどうにかしなければならない。
だからこそ、「わたし」は「わたしの両目」に「〔わたしを?〕くつがえし 溺れさせる」まで泣くようにと命じる。
「見ること」と「泣くこと」がひとつに合わされば――心の「動きを感じる部分」と「その動きを観察している部分」との区別を自覚できないほど烈しい感情に溺れきることができれば、この気の毒な「わたし」も、「虚ろなもの」を眺める悲しみを忘れることができるのかもしれない。そしておそらく、そのときに、「わたし」は抒情詩人ではなくなるのだろう。現に動いているものを緻密に観察することができない以上、ふたつに分かれた心の溶けあいを望む詩人の切実な希求は、抒情詩人であることと根本的に相反しているのだ。知覚できない「天上」へ昇るために揮発して消える瞬間を待ちのぞむ「日の出のしずく」のように。
終
虚ろをながめる目 ⑤
「わたし」はこの辺りで諦めはじめている。そもそも、「わたしの心が揺さぶられること」だけを価値判断の根本に置いているかぎり、何に対しても揺らぎない価値を定めることはできないはずである。しかし、「わたし」はあくまでその方法で何らかの「エッセンス」を捜し出そうとする。「心が揺さぶられる」以上の何か絶対的な価値を判じるための指標として、まさにその「心が揺れるか否か」を採用しているのだ。これは上手くいくはずがない。
「われわれが値をつけるすべての宝石」を見ても、「あらゆる園をめぐって」も、「錬金術の光線で日ごとに世界を融かして」さえも、結局のところ「わたしの情動」にしか帰結しないならば、いっそ主客の区別を忘れてその情動に溺れてしまえばいいのではないか? 第七連以降からは、そんないくぶん自棄のような望みが感じられるように思う。しかし、それだけ自棄になってさえ、望郷も聖母への思慕も古典世界への憧れも、欲望や怒りさえも、結局は「わたし」個人の情動なのだ――と、「わたし」は意識せざるをえない。救い主のみ足を涙で拭ったマグダラのように心おきなく溺れるためには、まずこの「動きを観察する部分」をどうにかしなければならない。
だからこそ、「わたし」は「わたしの両目」に「〔わたしを?〕くつがえし 溺れさせる」まで泣くようにと命じる。
「見ること」と「泣くこと」がひとつに合わされば――心の「動きを感じる部分」と「その動きを観察している部分」との区別を自覚できないほど烈しい感情に溺れきることができれば、この気の毒な「わたし」も、「虚ろなもの」を眺める悲しみを忘れることができるのかもしれない。そしておそらく、そのときに、「わたし」は抒情詩人ではなくなるのだろう。現に動いているものを緻密に観察することができない以上、ふたつに分かれた心の溶けあいを望む詩人の切実な希求は、抒情詩人であることと根本的に相反しているのだ。知覚できない「天上」へ昇るために揮発して消える瞬間を待ちのぞむ「日の出のしずく」のように。
終