私的海潮音 英米詩訳選

数年ぶりにブログを再開いたします。主に英詩翻訳、ときどき雑感など。

雑記:楽園の復活 ⑯ 〔~了〕

2009-12-23 22:26:07 | 自作雑文 楽園の復活
  楽園の復活―マイ・コールド・プレイス― ⑯


 先に挙げた引用文やいくつかの詩句がみなそうであるように、私の愛する「美しさ」とはごくごく平凡なものである。あわ立つまま凍った砂糖の花のような川や、暮れどきの日が射す黄金の森や、琥珀色に煙る炎や、煌めく水辺や、そこを立つツバメや、母恋いや、片恋や、別れや涙や死者への悼みや、木のもとの寂しい墓所を照らす一面の星空など、千年前から詩人たちが歌うありふれた花鳥風月である。私はそういう美しさを溶かした丁寧な散文が読みたい。――もちろん美しさの追求だけが文芸の目的ではないのだろうし、「汚濁の底に煌めく美」も味わい深いものなのだろう。甘露に飽いた美食家はぞんぶんにえぐみを追い求めればいい。しかし、私の幼い味蕾はまだ甘さに麻痺していないのだ。当たり前である。美しさを求める私の心は、飢えを感じはじめて以来、いいかげん残量が心もとなくなった過去の保存食糧でなんとか食いつないでいる状態なのだから。
この過去の保存食糧の量に、近ごろ私は危機感を感じはじめている。とりわけ邦語のものについて。明治以降の好みの抒情詩はほとんどしゃぶりつくしてしまったし、汲めども尽きぬ古典の水脈もいずれは尽きざるをえない。
 これは切実な問題である。寂しいことに私は私の「冷めたい場所」に立っている。「だれもがそうだ」と考えても特に慰めにはならない。世界すべての人間がみんな歯痛に苦しんでいるのだよ――と、仮に告げられたところで、私の歯は変わらず痛い。
 そのいら立たしい歯痛に対して、私はさいわいよく効く対処療法を知っている。しかし、残念なことに、自力で対処薬を作り出そうにも、崩すべき定型をもたずにすらすらと韻文を綴れるほど選れた言葉の感覚には恵まれていないのだ。そのうえ際だったストーリーテーラーの適性もない。そのため当面は作れる人に作ってほしい。物語性だけでは足りない。そこに美しさが欲しい。「今」から見た過去への憧れや、未来から見た虚構の「今」の輝きや、ごく通俗的な意味で詩的な言葉の連なりや、それらの技巧が醸し出す分かりやすい感傷を、私は心から求める。「とほざかる このはてしない心のなかに/なほ やはやはとして たたずみ/夜も 昼も ながれる霧のやうにかすみながら」、水のほとりにひととき映る触れがたい影を求める。たとえその影が私自身の反映にすぎないのだとしても。

 了


 ※雑記ひとまず終了。次からまた英詩訳に戻ります。とりあえずキーツのハイピリオンⅠ。おそらく途中まで。

雑記:楽園の復活 ⑮

2009-12-22 20:28:51 | 自作雑文 楽園の復活
  楽園の復活―マイ・コールド・プレイス― ⑮


 こうして景気よく罵るのはなかなか楽しいもののようだが、罵ってばかりいてもらちがあかない。「だれかこんなの書いてください」とお願いするためにも、昨今の探索の数少ない成果を挙げると、宇月原晴明の『安徳天皇漂流記』などは、わが切実な欲求をかなりよく充たしてくれた作品のように思う。ファンタジー――というより、漢字で幻想譚と呼ぶほうが似つかわしいようなこの華やかな物語には、まさしく――文字通り!――「琥珀のなかの楽園」が存在している。それはもう、何の喩えでもなく。壇ノ浦に沈んだ幼帝が「蜜色の琥珀」に閉じこめられたまま生き続け、宋の浜辺に流れ着いて、同じく追われた幼帝である宋の少年皇帝とともに石の内で遊んでいるのだ。「琥珀の内に閉じこめられた永遠の日暮れのような」という私の求める「楽園」的要素から「ような」だけを外した状況である。ゆえに私にはこの上なく魅力的だったが……正直、あまりに濃密すぎる気もした。何というか、詩情のカルピスの原液である。まだ半ばほど「素材のまま」という印象がある。個人的な趣味としては、あと少しばかり薄めて、なおかつ、「琥珀の外」の世界をもう少し色褪せたものにしていただきたかった。この素敵に詩情ある作者の物語は内も外も濃く鮮やかすぎる。ここにもうひと匙「日常性」が加わってくれたら、私はのどを鳴らして酔うだろう。

 続

 ※この雑記もあと一回で終わりそうです。次からはキーツにしよう。

雑記:楽園の復活 ⑭

2009-12-19 17:04:38 | 自作雑文 楽園の復活
  楽園の復活―マイ・コールド・プレイス― ⑭


 「今ここ」。「今ここ」。「今ここ」。今ここばかりのエンターテイメントに私は疲れ果てている。そして切実に「楽園」の香気をもつ娯楽作品を捜している。できれば現代の日本語で書かれたものを。捜索範囲は主に「ファンタジー」と「歴史小説」のジャンルである。しかし、これがなかなか見つかってくれない。遠慮を捨てて断言すると、たいていの場合、まず文体がさして美しくない(トールキン翁だってさしたる名文家とは思わないが、とりあえず、たいへん丁寧ではある)。
 さらに、さして丁寧ならざる散文で綴られる内容もたいていはあまり美しくない。美しくないというより隅々まであまりに現実的すぎるのかもしれない。キャラクタからしてそうなのだ。「楽園」の住人は必ずしも善良でなくてもいい。だが卑近であってはいけない。美しからざるこの私が感情移入するに足るリアルで等身大の人間味にあふれる生きものが主役や狂言回しを務めるのはいい。だがすべてのキャラクタが人間味に溢れている必要はない。他者は理解できないからこそ他者である。「楽園」の深くに住まう私ならざる何かとまで相互理解を深める必要はないのだ。――とはいえ、すべてのキャラクタが完全に「人ならざるもの」となると、これはダンセイニ卿の神話の世界になってしまうだろうが。要は対比の問題である。登場人物がすべてホビットであってはいけない。しかしすべてエルフであってもいけない。両者はあくまで交わらず併存していてくれなければ。
 舞台設定についても同じである。非日常は日常によってのみ際だつ。その意味で、現実と同じほど現実的な虚構世界はもちろんすばらしいが、そこに現実ならざる何かを垣間見るのでなければ、なにも虚構の世界に遊ぶ必要はないのだ。

 続

雑記:楽園の復活 ⑬

2009-12-18 17:49:45 | 自作雑文 楽園の復活
  楽園の復活―マイ・コールド・プレイスー ⑬


 Ⅲ

 なにしろ素材が私個人の主観であるため、「詩情」ある文芸作品の香気の源を探っているのか、香気を感じる自分自身の心理を腑分けしているのかしだいに分からなくなってきたが、こうして考え合せてみると、私にとっての「楽園」と「冷めたい場所」とはやはり同じ場所であったらしい。けっきょくのところ、そのふたつは個人の内面世界というやつだったのだろう。「冷めたい場所」は現在である。「楽園」は現在から鑑みる過去か未来である。そうなると「未来から鑑みる現在」もまた「楽園」たりえるのかもしれない。この考えは、おそらく、「冷めたい場所」の住人たちにはごくありふれた救いの発想だろう。荒れ野に白い花を望んだ伊東静雄は次のようにも歌う。

 輝かしかつた短い日のことを
 ひとびとは歌ふ
 ひとびとの思ひ出の中で
 それらは狡く
 いい時と場所とをえらんだのだ
 ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり
 ひとの目を囚えるいづれもの沼は
 それでちつぽけですんだのだ
 私はうたはない
 短かかつた輝かしい日のことを
 寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ

 美しくも分かりやすい感傷である。この感傷の分かりやすさを私は愛する。少なくとも私にとって、「楽園」を――「詩情」を――分かりやすく美しい感傷を欠いた物語はきわめて魅力あるものとはいえない。昨今のファンタジー作品は……と、トールキン信者が口にすると「年長者は千年前から「昨今の若者は」と嘆く」と自分自身茶々を入れたくなるが、それでもやはり言う。昨今のファンタジー作品の多くは私に「楽園」を見せてくれない。「今ここにいる」ような登場人物たちや、スピーディな場面展開や、意表をついた世界設定や、山あり谷あり断崖ありのめくるめく複雑な筋立なども、もちろん魅力的なものである。だが、たいていの場合、そこには過去も未来もない。臨場感と引きかえに悠久を売り払ってしまったのだ。

 続

雑記:楽園の復活 ⑫

2009-12-17 19:49:58 | 自作雑文 楽園の復活
  楽園の復活―マイ・コールド・プレイス― ⑫


 自我をもつ人間はすべからく孤独である――とは、またえらく古雅なテーゼに辿りついてしまったものだが、私が惹かれる「詩情」の源にあるもののひとつが「孤独」であることは、やはり間違いないように思う。そのように考えれば、私が同性である女性詩人の作品よりも近世以降の男性のものに惹かれがちな理由にいくらか説明がつく。どういうわけか全体にわが同胞たる女性たちはあまり孤独を歌わないのだ。むろん人類の半分全般が生まれつき残りの半分より孤独に耐性があるわけではないだろう。その点は人種国籍老若男女を問わず個人差が大きいはずである。ただ、一般にさまざまな面で受動的な立場におかれることが多かった立場の人間たちは、そのためにこそ、主体性と結びついた孤独に気づかされる機会が少なかったのかもしれない。
 あめつちにわれひとりいてたつごとき寂しさを恬淡とほほ笑めてしまったら解脱まであと一歩である。穢土に菩薩はめったにいない。善良な優婆夷優婆塞はその寂しさに耐えきれない。私が惹かれる「詩情」の根幹をなすものは、不運にも自他の区別にはっきりと気づいてしまった人間があげる人恋いの叫びであり、「楽園」とは「かつては自分も孤独ではなかった」と感じたがっている人間が荒れ野にひとり立つ心地を抱いて憧れつづける場所である。いささかならず感傷的な表現だが、あえて定義を下すならそんなところになるのかもしれない。その場所は過去か未来にあり、ただ現在にだけはない。


 Ⅱ終了。Ⅲに続く。